彩の国さいたま芸術劇場大ホール 13時開演
作:W・シェイクスピア
演出:蜷川幸雄
翻訳:松岡和子
構成:河合祥一郎
出演:上川隆也、大竹しのぶ 高岡蒼甫・池内博之・長谷川博己 草刈民代、吉田鋼太郎、瑳川哲朗
開場時から既にステージの上には、おびただしい数の生々しい肉片がそこ此処にと転がっている。観客はその光景を見ながら開演を待つことになる。これから闘いの舌戦芝居の幕が切って落とされることになるわけだが、冒頭から、闘いとは人の死の集積でしかないという戦争の本質を突き付けられたような気がして、愕然とする。
しずしずと数人の老婦人たちが桶とモップを持って現れてくる。そして舞台上に転がった肉片を黙々と桶に入れて片付け闘いの後始末をしていく。そして舞台にはドッと人がなだれ込み、ヘンリー五世逝去後の、イギリス王室の混乱振りが見て取れる状況から物語はスタートする。
13開演、21時30分終演の正味7時間の長尺芝居だが、飽きることなく最後までたっぷりと堪能することができた。その理由はシンプルだが3つあると思う。まず史実に基づいた物語の圧倒的な筆致の面白さ。そして、腕のある役者たちの実力が遺憾なく発揮されていたということ。そして、戯曲や役者から最大限の面白味を抽出し、複雑な人物関係を実に分かり易く可視的にも工夫した演出が冴えていたということ。演劇に必要な要素全てが、偶然にも合致したため、15世紀の歴史物語が、現代に生き生きと甦ることとなったのだ。
本来なら9時間かかる三部作を、7時間の前後編として整理した台本での上演というのが、本公演の大きな特徴である。翻訳を松岡和子が、構成を河合祥一郎が手掛けるという文学者同士がタグを組んだということも珍しい出来事であると思う。本作は、第二部と第三部が好評だったため、後にその前史として第一部が書かれたとも伝承されているシェイクスピア初の戯曲である。そのため本戯曲は、だんだんと肥大化していったというきらいがあったのではないかとも推察される。英断ではあったと思うが、結果、まさに超訳とも言えるようなスピーディーさが加味され、物語の展開に勢いがついたとも思う。
またシーンごとのエピソードがなかなかいい。後の名作につながるような、珠玉の名シーンがそこここに散りばめられている。処女作というのは、荒削りな部分もあるが、才能の萌芽も垣間見れる興味深いテキストでもあることを感じさせてくれた。
役者陣の高度な実力が、この複雑に入り組んだ物語に息吹を吹き込み、決して過去の偉人像をなぞることなく、悩めば嫉みもする等身大の人間を造形していて絶品である。大竹しのぶが、ジャンヌ・ダルクとマーガレット妃の狂気と女を演じ分けて目を離すことができない。この作品に疾走感を与えた大きな要因は、大竹しのぶに因る所が大きいと思う。また闘いが日常の地獄の沙汰のような環境の中で、ひとり孤高の域にいるヘンリー六世を演じる上川隆也も、計算されたピュアさから抜けることのできない王の諦めが、逆に吸引力となって強烈な印象を残す。
吉田鋼太郎のヨーク侯、瑳川哲朗のグロスター侯の立ち振る舞いと朗々と繰り出される台詞には惚れ惚れしてしまう。ガッチリと脇から支えるこうした確かな才能が、作品に一層ふくよかな感情を吹き込んでいく。また池内博之の愚直なストレートさや、長谷川博己の品ある豪腕さなども新鮮な空気を吹き込むが、後編にしか登場しないリチャードを演じる高岡蒼甫のコンプレックスに裏打ちされた切っ先鋭い反逆心が、負の感情が渦巻く本作の中でも最右翼のポジションを上手く捉えていて大いに目立つ。
物語は複雑に展開するのだが、ランカスター侯陣営が出てくると赤い薔薇が、ヨーク侯陣営が出てくると白い薔薇が天上より舞い落ちてくるという手法は、物語を目でも感じさせてくれると同時に、展開が平坦にならない大きなアクセントともなっている。場面転換もスピーディーなので、古に書かれた大河小説を読むという感覚よりは、現代の作家が過去の史実にアプローチした感覚であり、今起こっているいろいろな出来事や回りの人々とだぶらせて観ることができるため長尺でも飽きがこないのだ。蜷川演出の特徴でもあり、面白さのポイントでもある。
歴史物語を見るというより、時代に翻弄されて生きる人々の辛苦を感じる人間性が強く打ち出された作品である。舞台上で、生きることと、死することを目の当たりにすることで、心の中に何かふっとある感情が喚起させられてきた。とにかく、生きる、ということであった。秀作であると思う。
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