2005年 5月

1946年(なんと第2次世界大戦終戦後の翌年!)に作られた、ジャン・コクトーの「美女と野獣」の映像に、フィリップ・グラスが音楽をつけたという画期的な企画である。しかも、ただ音楽をつけるというのに留まらず、登場人物の台詞を全て歌に換えたオペラとして再生させているのだ。元々の音楽もある訳で(作曲家の名前がしっかりクレジットされていた)、それを一切自分の音楽にしてしまうという、考えてみればあまりの大胆なアプローチにグラスのコクトーに対する恋慕が感じられる。

1995年来日時にも観ていたのだが、今回再見するにあたり、グラスが何故コクトーを選んだかということの意味について考えてしまう。「コクトーは20世紀の芸術活動の中心人物である。」とグラスは言及するが、映画・演劇・アートなどジャンルを超えた活動を行うアーティストにとってコクトーはある種のイコンとして存在しているのかもしれない。良く目にする機会が多いリトグラフを始めとして、この「美女と野獣」などは、ディズニーのアニメ・ミュージカルに至るまで変質を遂げることとなり、易々と時空を超えて我々の生活の中にしっかりと溶け込んでしまっているのだ。

しかし、これは、コクトーの予想範囲内の戦略であったのかもしれない。映像を観れば手袋をはめることで美女は空間を飛び越え、「オルフェ」では鏡がその移動装置として登場している。コクトーは端から、時空を可視的に捉えようなんてするつもりがなかったのだ。

グラスの音楽もまた、時間の奥底に潜り込んでいくような酩酊感を味あわせてくれる。コインを目の前で左右に揺らされて催眠状態になっていくように、此処と彼岸との間を揺れ動くかのような振幅する音により、陶酔の境地へと導かれていくのだ。

そんな両巨人が融合すると、描かれるのは地上のことであっても、理想の天国を見ているかのような錯覚を覚えてしまう。また、手探りで未知の領域に踏み込んでいくという過程は、アーティストが作品を作る姿ともダブって見える。いずれにしても、もはや到達点は此処ではないのだ。美女と野獣だって、最後は天高く舞い上がってしまうではないか。一種の夢物語の体裁をとってはいるが、実は、現実をシニカルに捉えた上で逆説として提示される「夢」であり、その相反する吹っ切れなさ加減が観客に「心」を落とす仕掛けにもなっているのだ。

同時に開催されたべラ・ルゴシの「魔人ドラキュラ」は未見だが、「死にたくても死にきれないドラキュラの内面の葛藤に魅かれた」と言うグラスの言葉に、また、想いを馳せてしまう。「クンドゥン」の曼荼羅ではないが、「生きている」ということをとても重層的に捉えているのだ。やはり、此処だけではなく相対する彼岸が何故か透けて見えてきてしまう。

美を天に昇華させるごとく描かれる映像と、その行為を超越した地点で見つめ語るという音楽との合体は、この上なく美しい。この美しさに匹敵するものは、そうあるものではないだろう。創作されるものは、まず、美しくなければならない(私見)、という「原点」を見たような気がしている。

幕が開く。舞台には水が敷かれ浅い湿地のような感じ。巨大な蓮の花と葉が水辺からにょきにょきと沢山生えている。「グリークス」に続き、ギリシア悲劇で、再び、蓮、である。
舞台奥は屋敷であり、2階部分の入口に通じる階段が水際より設えられている。舞台前面中央にはほんの小さな陸地があるが、いわばお立ち台、である。ここで役者が謳い上げる訳だ。

松下砂稚子が、前面の陸地に座ってコトの顛末を語り始める。女性のコロスも登場し、幕は切って落とされた。大竹しのぶが2階の屋敷の入口より登場。金髪に染めた物凄く短く刈り込まれた頭髪は、まるで、アウシュビッツのユダヤ人を彷彿とさせるような悲痛さを訴えてくる。まずその強烈なインパクトにノックアウトさせられた。

大竹しのぶの独壇場である。感情をむき出しにしたと思えば、策を弄する思慮分別を冷静に保ち、また、今置かれた現状を思い出すと怒りが湧いてくるものの、夫への復讐の段取りのコマをひとつずつ進めていく。相反するとも思える揺れ幅の大きな感情の乱れを見事にひとりの人物の中に結実させ、クルクルと目まぐるしく変化するメディアの心そのものを、発する言葉に魂を込め、嘆き謳い上げる。

表情の豊かさも驚嘆に値する。ショックな言葉を投げつけられ驚いた次の瞬間、そのビックリさ加減は次第にスーっと引いていき、ただ、目だけがその理不尽さを残しつつも、言葉では表面的に媚を売り始めるといった具合だ。しかも、強い。感情が千路に乱れる女を演じても、一番前面に出てくる感情は、強烈な女のパワー。決してひるむことなんかある訳がないと100%の確信が持てるほどの迷いのない強さ。

大竹しのぶを得て、様式の「王女メディア」は過去のものとなり、いつの時代でもどの世界でも通じる「女」という生き者の、生き様そのものを体当たりで体現してしまった! 当たり前だが、これは女にしか演じることは出来ない。しかも、優れた女と書く本来の意味での女優、にしか出来ない芸当である。まさに、驚異、の瞬間の連続であった。

対抗するは、生瀬勝久。目がギロリと大きく肩まで掛かった縮れた髪の毛のエキゾチックな風貌は、ギリシアの壁画にあるような「男」そのものである。朗々とした台詞回しに モテル男の色香を漂わせながら最後までメディアに強く応戦し拮抗するが、結局は女の強さにひれ伏してしまう脆さを演じて小気味良い。吉田鋼太郎は、クレオン王の弱い部分を滑稽に演じ観客を魅き付けながらも、大竹しのぶとの丁々発止のやり取りなどは、もう、台詞が音楽のような心地良さを発してきて陶酔してしまう。この2人の場面は、役者の力によって、ひとつのクライマックスを形成することとなった。また、笠原浩夫が能天気な人の良さで場面に軽さと救いを作り出し、管野菜保之や松下砂稚子がしっかり脇を固め、悲劇の人々を見守る視線にて、舞台の視点を拡げていた。

竜に乗ってメディアが辿り着いた先は一体何処なのであろう。もしかしたら、すぐ傍にいたりして、などと思えるこの感覚は、この舞台が本当にリアルな感情によって紡がれていたからに他ならない。優秀な役者というものは、時空や国境を軽がると凌駕してしまうものなのですね。

気鋭の映画監督石井聰亙の新作「鏡心」の公開に合わせて、監督のトークショーを同時開催します。
このめったにない機会を是非お見逃しなきよう!

【会場】
CINEMA・TWO(シネマ・ツー)

【プログラム】
A 「鏡心」+関連特別短編
6月17日(金)15:00 「鏡心」+「Final Rehearsal」(9min.)
6月18日(土)13:00 「鏡心」+「BUT WE MISS YOU」(16min.)
6月18日(土)15:00 「鏡心」+「A day in the GOD Island 」(12min.)

B 「鏡心」+トークショー
6月17日(金) 18日(土) 17:00 19:00 「鏡心」+石井監督トークショー

C 「ELECTRIC DRAGON 80000V」35mm/ビスタ/55min./2003+「DEAD END RUN」35mm/ビスタ/59min./2004
6月17日(金) 18日(土) 21:00

【特別鑑賞券】
一般 ¥1,300/学生 ¥1,000  ※21:00の回のみ ¥1,000(学生料金なし)

【当日券】
一般 ¥1,500/学生 ¥1,300  ※21:00の回のみ ¥1,000(学生料金なし)

【前売場所】
「鏡心」エキシビションツアー実行委員会、CINEMA・TWO(シネマ・ツー)、
チケットぴあ・5月26日(木)発売(Pコード:A・B 474-601、C 474-607)

【主催・お問い合わせ】
「鏡心」エキシビションツアー実行委員会  03-5771-5080

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