1946年(なんと第2次世界大戦終戦後の翌年!)に作られた、ジャン・コクトーの「美女と野獣」の映像に、フィリップ・グラスが音楽をつけたという画期的な企画である。しかも、ただ音楽をつけるというのに留まらず、登場人物の台詞を全て歌に換えたオペラとして再生させているのだ。元々の音楽もある訳で(作曲家の名前がしっかりクレジットされていた)、それを一切自分の音楽にしてしまうという、考えてみればあまりの大胆なアプローチにグラスのコクトーに対する恋慕が感じられる。
1995年来日時にも観ていたのだが、今回再見するにあたり、グラスが何故コクトーを選んだかということの意味について考えてしまう。「コクトーは20世紀の芸術活動の中心人物である。」とグラスは言及するが、映画・演劇・アートなどジャンルを超えた活動を行うアーティストにとってコクトーはある種のイコンとして存在しているのかもしれない。良く目にする機会が多いリトグラフを始めとして、この「美女と野獣」などは、ディズニーのアニメ・ミュージカルに至るまで変質を遂げることとなり、易々と時空を超えて我々の生活の中にしっかりと溶け込んでしまっているのだ。
しかし、これは、コクトーの予想範囲内の戦略であったのかもしれない。映像を観れば手袋をはめることで美女は空間を飛び越え、「オルフェ」では鏡がその移動装置として登場している。コクトーは端から、時空を可視的に捉えようなんてするつもりがなかったのだ。
グラスの音楽もまた、時間の奥底に潜り込んでいくような酩酊感を味あわせてくれる。コインを目の前で左右に揺らされて催眠状態になっていくように、此処と彼岸との間を揺れ動くかのような振幅する音により、陶酔の境地へと導かれていくのだ。
そんな両巨人が融合すると、描かれるのは地上のことであっても、理想の天国を見ているかのような錯覚を覚えてしまう。また、手探りで未知の領域に踏み込んでいくという過程は、アーティストが作品を作る姿ともダブって見える。いずれにしても、もはや到達点は此処ではないのだ。美女と野獣だって、最後は天高く舞い上がってしまうではないか。一種の夢物語の体裁をとってはいるが、実は、現実をシニカルに捉えた上で逆説として提示される「夢」であり、その相反する吹っ切れなさ加減が観客に「心」を落とす仕掛けにもなっているのだ。
同時に開催されたべラ・ルゴシの「魔人ドラキュラ」は未見だが、「死にたくても死にきれないドラキュラの内面の葛藤に魅かれた」と言うグラスの言葉に、また、想いを馳せてしまう。「クンドゥン」の曼荼羅ではないが、「生きている」ということをとても重層的に捉えているのだ。やはり、此処だけではなく相対する彼岸が何故か透けて見えてきてしまう。
美を天に昇華させるごとく描かれる映像と、その行為を超越した地点で見つめ語るという音楽との合体は、この上なく美しい。この美しさに匹敵するものは、そうあるものではないだろう。創作されるものは、まず、美しくなければならない(私見)、という「原点」を見たような気がしている。
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