初演時はその結末の驚きに愕然として、茫然自失なまま劇場を後にした記憶もまだ新しいが、井上ひさし氏の急逝の後、再びこの作品に接することで、氏がこの作品に込めた万感の思いが、その冒頭から全編に渡ってぎっしりと詰まっているのを改めて確認することとなった。正直、冒頭の武蔵と小次郎の巌流島の戦いの場ですでに、溢れる思いが涙となって湧き上がってくる始末だ。諍うことで死を賭すことの無意味さが、実に軽やかに、面白く、そしてズキリと描かれる独特な筆致は、井上ひさしのし真骨頂であると思う。
前回と大きく変わったのは、小次郎の描き方であろう。初演時はまさに時の人、小栗旬が小次郎を演じて、粋で洒脱な武士像を造り上げたが、今回、小次郎を演じるは、勝地涼。6年もの間、打倒武蔵の思いを遂げる瞬間を待ち続け深く潜伏していたであろう、そのささくれ立った思いが、見た目にも表れていて、演じ始めても伸び放題な髪に遮られてはっきりと顔が見えないような状態だ。かつてジャングルに潜み続けていた日本兵の姿が、アタマの中でシンクロする。こういうカタチからのアプローチは、観客にとっても親切であり、小次郎の心境がビビッドに伝わる演出であると思う。
対する武蔵役を演じる藤原竜也は、物事に動じることのない凛とした剣士でありながら、時に可笑し味に溢れた井上戯曲のひだにも寄り添いながら、感情の側面を拡大させ、多面的な人物造形を造り上げることに成功している。勝地涼とのコンビネーションも、ステロタイプ的に、どちらが柔でどちらが硬だという次元に留まらず、相手や回りの状況と対峙することで、クルクルとその感情を変化させていくのが面白い。
ベテラン勢を含むその丁々発止な感情の紡ぎ方が、実に可笑しく、そして楽しい。武蔵と小次郎は、敢えて大きくぶらさず真面目な体で存在することを基本としているため、ついつい何かと能を演じてしまう吉田鋼太郎の柳生宗矩、坊主に生臭さを吹き込んだ六平直政の沢庵和尚、能狂言も見事にヒョイと台詞ひとつで時空間の境を飛び越える白石加代子の木屋まい、一輪の花のような心安らぐ存在感を放つ鈴木杏など、誰もが戯曲の内にある可笑し味を掬い出し、ジャズセッションのように絡み合って化学反応を起こしていく様がスリリングで実に楽しいのだ。役者の芝居がよりたっぷりと堪能できる作品へと昇華したと思う。
蜷川演出は、役者の資質を最大限に出し切ることに集中しながらも、結末にも通じる異次元が現実世界へと染み出てくる様を、刷毛でスッとキャンバスに塗り付けるがごとく描き秀逸である。異質なるアクセントを放ちながらも、その振幅の度合いがだんだんとふくよかに物語世界を広げることとなり、終盤の場面へとそのベクトルを拡大させていくことになる。
宮川彬良の音楽も良い。特に、タンゴの調べに乗り、嬉々として役者たちが可笑しな場面を演じる場面は印象的だ。そのタンゴのリズムに笑い、そしてリズムに乗った俳優陣がその笑いをさらに増幅させていくのだが、タンゴが内包するデカダンな要素によって、今ここにある何かが、これから大きく流転していくのではという予感を彷彿とさせ、絶品である。
この再演に関わる全ての方々が、伝えなければいけないこと、伝えるべきことを、この戯曲から漏らさず掬い取り、さらに細かな伏線や感情のディティールを張り巡らせていくことで、図太い強靭なこの物語の中に、さらに繊細で優しい思いを込められることになった。井上ひさし氏のこの遺言は、永遠に頭に中から離れることはないだろう。再度言おう。死を賭けた戦いは、無意味なのだと。
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