2010年 5月

初演時はその結末の驚きに愕然として、茫然自失なまま劇場を後にした記憶もまだ新しいが、井上ひさし氏の急逝の後、再びこの作品に接することで、氏がこの作品に込めた万感の思いが、その冒頭から全編に渡ってぎっしりと詰まっているのを改めて確認することとなった。正直、冒頭の武蔵と小次郎の巌流島の戦いの場ですでに、溢れる思いが涙となって湧き上がってくる始末だ。諍うことで死を賭すことの無意味さが、実に軽やかに、面白く、そしてズキリと描かれる独特な筆致は、井上ひさしのし真骨頂であると思う。

前回と大きく変わったのは、小次郎の描き方であろう。初演時はまさに時の人、小栗旬が小次郎を演じて、粋で洒脱な武士像を造り上げたが、今回、小次郎を演じるは、勝地涼。6年もの間、打倒武蔵の思いを遂げる瞬間を待ち続け深く潜伏していたであろう、そのささくれ立った思いが、見た目にも表れていて、演じ始めても伸び放題な髪に遮られてはっきりと顔が見えないような状態だ。かつてジャングルに潜み続けていた日本兵の姿が、アタマの中でシンクロする。こういうカタチからのアプローチは、観客にとっても親切であり、小次郎の心境がビビッドに伝わる演出であると思う。

対する武蔵役を演じる藤原竜也は、物事に動じることのない凛とした剣士でありながら、時に可笑し味に溢れた井上戯曲のひだにも寄り添いながら、感情の側面を拡大させ、多面的な人物造形を造り上げることに成功している。勝地涼とのコンビネーションも、ステロタイプ的に、どちらが柔でどちらが硬だという次元に留まらず、相手や回りの状況と対峙することで、クルクルとその感情を変化させていくのが面白い。

ベテラン勢を含むその丁々発止な感情の紡ぎ方が、実に可笑しく、そして楽しい。武蔵と小次郎は、敢えて大きくぶらさず真面目な体で存在することを基本としているため、ついつい何かと能を演じてしまう吉田鋼太郎の柳生宗矩、坊主に生臭さを吹き込んだ六平直政の沢庵和尚、能狂言も見事にヒョイと台詞ひとつで時空間の境を飛び越える白石加代子の木屋まい、一輪の花のような心安らぐ存在感を放つ鈴木杏など、誰もが戯曲の内にある可笑し味を掬い出し、ジャズセッションのように絡み合って化学反応を起こしていく様がスリリングで実に楽しいのだ。役者の芝居がよりたっぷりと堪能できる作品へと昇華したと思う。

蜷川演出は、役者の資質を最大限に出し切ることに集中しながらも、結末にも通じる異次元が現実世界へと染み出てくる様を、刷毛でスッとキャンバスに塗り付けるがごとく描き秀逸である。異質なるアクセントを放ちながらも、その振幅の度合いがだんだんとふくよかに物語世界を広げることとなり、終盤の場面へとそのベクトルを拡大させていくことになる。

宮川彬良の音楽も良い。特に、タンゴの調べに乗り、嬉々として役者たちが可笑しな場面を演じる場面は印象的だ。そのタンゴのリズムに笑い、そしてリズムに乗った俳優陣がその笑いをさらに増幅させていくのだが、タンゴが内包するデカダンな要素によって、今ここにある何かが、これから大きく流転していくのではという予感を彷彿とさせ、絶品である。

この再演に関わる全ての方々が、伝えなければいけないこと、伝えるべきことを、この戯曲から漏らさず掬い取り、さらに細かな伏線や感情のディティールを張り巡らせていくことで、図太い強靭なこの物語の中に、さらに繊細で優しい思いを込められることになった。井上ひさし氏のこの遺言は、永遠に頭に中から離れることはないだろう。再度言おう。死を賭けた戦いは、無意味なのだと。

面白かった。そして、ヒリヒリと刺激的だった。しかし、この終始舞台を貫く、低温度な緊迫感は何に由来するのだろう。

危機感を喪失した現代の日常生活の中で、思考が脳を経由せず本能的に生きているような登場人物たちが放つ、人に依存はするが信じてはいないというある種のあきらめにも似た裏腹な言動の中に、何か底知れぬ怖さを孕んでいることが緊迫感を生み出している理由なのかもしれない。皆が皆、表の顔と裏の顔を、当たり前のように演じ分けているのだ。そういう行いが、実生活の中できっと自分も他人に感じているであろう、決して全てが分かり合えることなどできないのだという意識の壁を彷彿とさせられるため、だんだんと心が弛緩していくのだということに、ふと我ながら気付くことになる。

ここで演じられていることは確実に芝居なのではあるが、まるで知人の行動観察をしているかのような錯覚を覚え、物語の世界と自分の心の在り方とがいつの間にかシンクロしていくのだ。とつとつと語られる言葉の数は決して多くはない。ごく平易な会話が重ねられていくだけで、美辞麗句をうたいあげるようなことはない。衣装も日常生活から抜け出してきたかのようなリアルさだ。ただだらだらと過ごしていたり、ただぶらぶら歩いていたりする台詞の無いシーンも多いのだが、何故か舞台から目を離すことができなくなってくる。

そうか、台詞を聞きたいがために芝居を観にきているわけではないのだ、何かを体感したいがために劇場に足を運んでいるのだと思う自分を発見しつつ、だんだんと登場人物たちと同じ空気感を共有するようになっていく。物語に吸い寄せられるのではなく、物語がひたひたと自分に近寄ってくる感じなのだ。スーパーリアル、であると思う。

田中圭演じる若者が主軸となるのだが、この男が彼女の家に居候する、フリーターでもない、何も仕事をしていないという設定が面白い。毎日、彼女から渡される2,000円で生活しているのだが、多少の憤りを感じながらも、そういう自分を自分でどこか良しとしてしまっているようなのだ。そういう立場の弱さもあるのだろうが、彼女が友人とデキてしまったことが分かっても、その彼女も友人も責めることなく受け入れてしまう。まあ、自分も人妻と浮気をしているわけであるが。しかし、彼は許しているわけではなく、ただ現実から目を背けて逃げているだけに過ぎないのだ。但し、妊娠したとか、人妻の旦那と会うなどといった現実問題に直面すると、弱い心が折れてしまいそうになる位追い込まれていく様が滑稽で面白い。田中圭の繊細な感情表現により、何故かついついこちらも共感させられてしまうような人物が造形されている。

秋山菜津子演じる人妻は、若者にも夫にも、終始敬語で話し続けている。しかし、両者対する思いは同じではない。夫に対する思いは、今、妻である自分を自分自身がどこかで受け入れることができないという意思表示が敬語につながっているようであり、そういった意識は、江口のりこ演じる妹に指摘もされている。片や、若者に対する思いは、混沌とする自分の思いをガードするための武器のようなものであると思う。秋山菜津子は、凛としているが現実に対峙出来ない脆さを、見事に体現している。

松尾スズキの飄々とした存在感が作品にグッと軽快さを与え、安藤サクラの淡々とした語り口や身繕いがリアルさを増幅させている。米村亮太朗の中途半端な若者度、江口のりこが醸し出す生活感、古澤祐介の表層的な主体性のなさなど、役者のアンサンブルも見所であり、三浦大輔の役者に対する演出の細かさが見て取れる。

三浦大輔演出は、役者の感性で自由に泳がせているという風ではなく、かなりきっちりと意図通りの図柄に納めていくアプローチをしているような気がする。だから、台詞と台詞との間にある間合いや、ちょっとした仕草など細かな所作からからも、絶妙なリアルさが立ち上ってくるのだと思う。

音楽は登場人物たちの右往左往振りに寄り添いながらも常に客観的である。それぞれのシーンの情景を俯瞰して見ているかような感覚は、作品の世界観を広げ、此処ではない何処かへの逃げ道を指し示しているかのようにも感じられる。

今、を描いているから当然のことであるが、登場人物たちのコミュニケーションは携帯電話である。ケータイでの電話対応やメール内容などに、意外にも本音のようなものがポロリと出てしまうのもまた、リアルである。しかし、皆、最後まで相手に対して、声を荒げることも、本音をぶちまけることもしない。皆、押し黙ったまま、二重生活を断ち切ることなく、暫定的にそれぞれの関係性を継続して生きる選択をするのだ。この決断は、誰もがかくあるべきと思い描くモラルへの、アンチテーゼであると思う。これが、問題先延ばし日本の、今のリアルなのだ。平和日本が生んだ“功罪”を、日常レベルで斬り取ってみせた快作だと思う。

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