2012年 6月

河竹黙阿弥原作の「五十三次天日坊」を元に、宮藤官九郎が新たに脚本を書き下ろした本作は、慶応三年以来、実に145年振りの上演になるという。長大な原作を主人公の法策を中心とした展開にまとめ上げ、人間のアイデンティティーをテーマとした作品へと甦らせた宮藤官九郎の手腕が際立ち、抜群に秀逸だ。この脚本があったからこそ、現代の観客の心に響く“新たな歌舞伎”として「天日坊」は甦ることになったのだと思う。

観音院の弟子として生きる孤児の法策は、飯炊き婆さんの死んだ孫が源頼朝のご落胤だということを聞き、その証拠の品まで見せられた上に、偶然にも生年日も法策と同じであったことを知った瞬間に、こう囁く。「マジかよ」と。

その一言が、法策という青年の真情をグッと引き出すのと同時に、往時と現代との時空の垣根をスコンと一瞬にして取り払ってしまった。そして、法策は婆を殺め、証拠の品を盗むことになる。

また、法策が抱え込む善と悪との意識の狭間をギラリとフォーカスするのが、むせび鳴くトランペットの音色だ。人生を駆け上るとも、転がり落ちるとも言える物語展開にピッタリと寄り添い、法策の哀感漂う人間像をクッキリと浮かび上がらせる。串田和美演出の“粋”が立ち上がる。

串田和美は美術も手掛けるが、それぞれの場面が可動式の平台の上に設えられており、シーンが変わる毎に果断なく次の物語を紡いでいくというスピーディーさを獲得している。

また串田演出は、それぞれの俳優陣たちから、その役柄と俳優との資質を掛け合わせた“核”を掴み出し、それを見事に、歌舞伎仕様のカリカチュアライズ化させることにも成功した。俳優陣たちの個性がそれぞれに際立ち、楽しくも賑々しい猥雑な雰囲気を醸し出す。故に、歌舞伎の型がない役者陣は、リアルな芝居では観客をグッと惹き付ける魅力を発するが、華連味を必要とする場面においては、歌舞伎組との資質の差が明らかに現れるという結果にもなった。

物語は法策が出自を騙しながら上へと上り詰めようとするピカレスク物語の様相を呈していくが、途中で化けの皮が剥がれたり、またそうすると、そこで別の人物を装ったりなどしている内に、だんだんと自分の存在自体があやふやになっていってしまう。そこで、法策は叫ぶ。「俺は誰だぁ!」。アイデンティティーが保てなくなり、意識が瓦解する。自分探しを標榜する現代人との意識と法策の想いがシンクロする。

取り繕っては解れ、果ては罪人にまで身を落とす法策であるが、実は、木曽義仲の子、清水冠者義高であることを告げられる。源頼朝とは敵対する立場であったという何とも言えぬアイロニーを呈しつつ、物語は一層の混迷を続けていく。

勘九郎がタイトルロールを嬉々として溌溂と演じ、実に新鮮で若々しい風を作品に吹き込んでいく。また、若さという資質が宮藤官九郎の現代的な筆致とピッタリと重なり合い、その時代を駆け抜けた武者の生き様が躍動感を持って体現されていく。女盗賊を演じる七之助がいい。きびきびとエッジの利いた出で立ちも美しく、啖呵を切る様も迫力がある。実は、義仲の家臣の娘であったことが分かると、身のこなしを一変させクッキリと演じ分けるのも見事である。

獅童は兎に角押し捲る、その存在感が可笑し味に変化し、観客から笑いを取っていく。婆を演じる亀蔵がコミカルで面白く、赤星典膳の偉丈夫との落差も楽しめる。萬次郎の落ち着き払った公家の気品や、巳之助と新悟のイチャイチャ振りも、作品に溌溂としたふくよかな厚みを加えていく。

若者の変わらぬ真情を描いた、現代にも通じる宮藤官九郎の秀逸な脚本を得て、新鮮な座組を組み上げることで、串田和美が歌舞伎に新たな地平を斬り拓こうとした試みは見事に成功した。情感たっぷりに描かれた悪漢大河物語は、奇異に新しいだけなのではない、人間の真情を精緻に描ききった秀作として甦った。

劇場に入ってまず目を惹くのが装置の豪華さ。ヘロデ王の邸宅が眼前に広がるのだが、そこは純白の世界。床や什器など細かなものに至る全てが白一色で覆われている。その下層には、石垣が詰まれた造作の牢獄が設えられており、上部フロアとの明暗がくっきりと対比されるような仕掛けになっている。

牢獄には囚われているヨカナーンの姿が、終始、観客の目に晒されることになる。今回は2階席からの鑑賞であったので、牢獄の様子がはっきりと見え、牢屋の周りをヒタヒタと水が敷き詰められている状態なども認知出来たのだが、1階席からは牢獄は完全に舞台下となってしまうため、2階から観るのとは、全く印象を異にするのではないかと思う。

フロアの奥には壁が立ちはだかっており、その向こうは、どうやらパーティーなどが行われている広間のようだ。奥の部屋で人が蠢く様子が壁に影として投影されるという手法で、パーティーの賑やかな雰囲気を伝えていく。

衣装協力が、㈱ヨウジヤマモトである。サロメは純白の衣装であるが、その他の登場人物たちは、様々なバリエーションに富んだ漆黒の衣装に身を包んでいる。唯一、ヘロデ王だけが豪奢な真紅のガウンを身に纏い権勢を誇っている。

本作は、まだ幼さを残すサロメを物語の中軸に置き、その周りを右往左往する大人たちを切り取っていく様が、簡潔に描かれていく。ドロドロな意識が渦巻く方向性に物語を傾かせることなく、登場人物たちの突出した感情部分のみを、ピンセットで摘まんでいくが如く展開させていく。物事が起こったその場において、哀しみや怒りの感情などは適宜処理され、物語はサロメを中心とした物語にトントンと収焉されていくことになる。

サロメは、ヘロデ王にダンスを見せた対価として、ヨカナーンの首を要求する。この決断を、サロメの幼さゆえの言動であると本作は捉えていく。自分の魅力に自信満々なサロメは、自分に全く見向きをしなかったヨカナーンに鉄槌を喰らわせたかったのではないだろうか。また、サロメが嫌悪するヘロデ王が、予言者ヨカナーンを処遇することを怖れているため、徹底して困らせてやろうという思いもあったに違いない。大の大人が、サロメに翻弄されていく様がアイロニカルに描かれていく。

サロメを演じる多部未華子は、堂々とタイトルロールを演じきる。少女性が全面に出た役作りで、無邪気さゆえの言動が大人を巻き込み、後戻りできない状態へと突き進んでいくパワーを放熱していく。欲を言えば、その無邪気さの奥に潜んだ、意図的な意地悪さが見え隠れすると、サロメという女の奇奇怪怪な複雑さが更に露見したきのではないかと思う。

成河は、偉丈夫なヨカナーンのイメージを覆し、迷うことのない預言者を繊細に作り上げていく。サロメに見向きをしないという自身のスタンスを、はっきりと貫き通す。麻美れいは、もう、その存在自体が王妃である。本作に高貴な雰囲気が与えられたのは、麻美れいという存在に他ならない。奥田瑛二は虚勢の威厳を振り撒く小心者のヘロデ王を造形していく。物語が深刻になり過ぎない振幅の微妙なバランスを保ちつつ、サロメの手の平で右往左往する様をやや戯画化して演じ面白い。

ラスト、流れ出る血がだんだんと白い床に広がっていく様や、また、その様子を天上に設えられたミラーが映し出し、下界を見守る月のような役割を持たせていくなど、宮本亜門の美意識に貫かれた手法が「サロメ」を現代風へと変貌させた。スタイリッシュな「サロメ」であった。しかし、表層に凝った分、登場人物たちの意識の掘り下げ方が平坦になったきらいがあり、深みを欠いた表現に留まってしまったと思う。

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