井上ひさしの新作である。蜷川演出でもあり、人気俳優たち競演の話題も華やかな演目の装いではあったが、そんなイメージを覆すような、想像だにしなかった世界がここでは繰り広げられた。この布陣である。観る前は、破天荒な活劇をイメージしていたのであるが、真逆とも言えるような、静謐な会話劇であった。もちろんコメディ要素も盛り込まれており観客を笑いに誘うシーンもあるのだが、物語はひたすら戦うこと、生きることについての意味を問い正し、深遠な次元へと鋭く斬り込んでいく。
「ムサシ」と聞いて、あの巌流島の決闘がいかに描かれるのかは気になるところだが、オープニングにプロローグのような按配でそのシーンは置かれており、意外にあっさりと勝負は終わってしまう。その6年後、鎌倉の宝蓮寺という寺の寺開きに、寺の作事を務めたムサシは参加している。寺の住持・平心の他、大徳寺長老・沢庵や将軍家指南役・柳生宗矩、そして寺の大檀那である木屋まいと筆屋乙女なども一緒である。そして、その場に、生きていた小次郎が現われるところから、物語は始まっていく。「果たし状」を叩きつける小次郎の意を武蔵は受け、3日後の朝にふたりは決闘することとなる。
小次郎はその対決までの間、武蔵と共にその寺に滞在することになる。舞台設定は宝蓮寺から終始動かず、登場人物たちもそのエアポケットのような寺の呪縛に囚われ、そこに逗留する状態が続く。そこで、決闘当日と同時刻に別の決闘が持ち込まれかかったり、偶然にもある親子の縁の秘密が露見したりと、武蔵と小次郎の周辺は、決闘以外の様々な要件で慌しくなっていく。そんな状況が、ふと、オカシイぞと、武蔵のアタマをもたげてくる。誰かが、この決闘を止めさせようとしているのではないか、と。
そこからが、今回の井上戯曲の真骨頂である。それまでの展開の中で、役者たちの技量を思う存分発揮出来る場を作ってきており、ある種の顔見世興行的要素の強い本作は、やんやの内に決闘でもして締め括られるのかと思いきや、そうは問屋は下ろさなかった。正直、このオチにはビックリした。ビックリし過ぎて可笑しくなってきた。人間、予想外の驚きに接すると笑ってしまうのかもしれない。
「生」を粗末にしてはいけない。「決闘」などで無駄に命を落としてはならない。「生きて」いること自体が素晴らしいことであると認識しなければならない。という強烈なメッセージが、「あるカタチ」を借りて表出されたのだ。そう言えばと思い返してみると、冒頭、決闘の場からこの寺のシーンへと変わる際、舞台奥から竹やぶが迫ってきて縦横無尽に動き回りながら寺の装置と合体してセットが組まれていくその幽玄さ、時折、背景の竹やぶが風にたなびくシーンの不可思議さが、布石として組み込まれてあったことに、ハタと気付く。黄泉の国からの意思によって、武蔵と小次郎は決闘を断念することになる。
藤原竜也はストレートに直情的な感情を放出し、小栗旬は厭世的な斜に構えたニヒルな風情で、お互い個性をぶつけ合う。鈴木杏は明晰な筆舌にて感情を表し、辻萬長のドッシリとした構え、吉田鋼太郎のコミカルなお茶目さ、能狂言ばりの語りも鮮やかな白石加代子の度量など、宛て書きなのであろう、井上ひさしの筆致が役者を見事に活かし、新作ならではのお楽しみを満開させる。
演劇というナマの舞台を観に行く理由は、ビックリしたいからということがある。また、役者の旬な息吹を感じられるということも、楽しみのひとつである。この舞台は、その両方の醍醐味を十分味合わせてくれた。但し、もし再演することがあれば、かつてのベニサンピットのような密閉された小空間で演じてみても面白い戯曲ではないかとも思った。その方がよりリアルに戯曲の本質に触れることが出来そうな気がするからだ。
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