2009年 3月

井上ひさしの新作である。蜷川演出でもあり、人気俳優たち競演の話題も華やかな演目の装いではあったが、そんなイメージを覆すような、想像だにしなかった世界がここでは繰り広げられた。この布陣である。観る前は、破天荒な活劇をイメージしていたのであるが、真逆とも言えるような、静謐な会話劇であった。もちろんコメディ要素も盛り込まれており観客を笑いに誘うシーンもあるのだが、物語はひたすら戦うこと、生きることについての意味を問い正し、深遠な次元へと鋭く斬り込んでいく。

「ムサシ」と聞いて、あの巌流島の決闘がいかに描かれるのかは気になるところだが、オープニングにプロローグのような按配でそのシーンは置かれており、意外にあっさりと勝負は終わってしまう。その6年後、鎌倉の宝蓮寺という寺の寺開きに、寺の作事を務めたムサシは参加している。寺の住持・平心の他、大徳寺長老・沢庵や将軍家指南役・柳生宗矩、そして寺の大檀那である木屋まいと筆屋乙女なども一緒である。そして、その場に、生きていた小次郎が現われるところから、物語は始まっていく。「果たし状」を叩きつける小次郎の意を武蔵は受け、3日後の朝にふたりは決闘することとなる。

小次郎はその対決までの間、武蔵と共にその寺に滞在することになる。舞台設定は宝蓮寺から終始動かず、登場人物たちもそのエアポケットのような寺の呪縛に囚われ、そこに逗留する状態が続く。そこで、決闘当日と同時刻に別の決闘が持ち込まれかかったり、偶然にもある親子の縁の秘密が露見したりと、武蔵と小次郎の周辺は、決闘以外の様々な要件で慌しくなっていく。そんな状況が、ふと、オカシイぞと、武蔵のアタマをもたげてくる。誰かが、この決闘を止めさせようとしているのではないか、と。

そこからが、今回の井上戯曲の真骨頂である。それまでの展開の中で、役者たちの技量を思う存分発揮出来る場を作ってきており、ある種の顔見世興行的要素の強い本作は、やんやの内に決闘でもして締め括られるのかと思いきや、そうは問屋は下ろさなかった。正直、このオチにはビックリした。ビックリし過ぎて可笑しくなってきた。人間、予想外の驚きに接すると笑ってしまうのかもしれない。

「生」を粗末にしてはいけない。「決闘」などで無駄に命を落としてはならない。「生きて」いること自体が素晴らしいことであると認識しなければならない。という強烈なメッセージが、「あるカタチ」を借りて表出されたのだ。そう言えばと思い返してみると、冒頭、決闘の場からこの寺のシーンへと変わる際、舞台奥から竹やぶが迫ってきて縦横無尽に動き回りながら寺の装置と合体してセットが組まれていくその幽玄さ、時折、背景の竹やぶが風にたなびくシーンの不可思議さが、布石として組み込まれてあったことに、ハタと気付く。黄泉の国からの意思によって、武蔵と小次郎は決闘を断念することになる。

藤原竜也はストレートに直情的な感情を放出し、小栗旬は厭世的な斜に構えたニヒルな風情で、お互い個性をぶつけ合う。鈴木杏は明晰な筆舌にて感情を表し、辻萬長のドッシリとした構え、吉田鋼太郎のコミカルなお茶目さ、能狂言ばりの語りも鮮やかな白石加代子の度量など、宛て書きなのであろう、井上ひさしの筆致が役者を見事に活かし、新作ならではのお楽しみを満開させる。

演劇というナマの舞台を観に行く理由は、ビックリしたいからということがある。また、役者の旬な息吹を感じられるということも、楽しみのひとつである。この舞台は、その両方の醍醐味を十分味合わせてくれた。但し、もし再演することがあれば、かつてのベニサンピットのような密閉された小空間で演じてみても面白い戯曲ではないかとも思った。その方がよりリアルに戯曲の本質に触れることが出来そうな気がするからだ。

やはり最大の関心事は、ナマのジュリエット・ビノシュが見られるということであろう。
この公演を観たいと思った理由はそれに尽きる。しかも本公演はダンス、である。ジュリエット・ビノシュのことはもちろん映画でしか見る術はないのだが、最近はどの作品でも少々ふっくらした印象があったので、余計に興味を持ってしまった。ダンス、出来るの? と。しかし、それは全くの杞憂であったことが証明されることになる。

また、本公演はバックアップ体制が凄い。グローバルツアースポンサーが、SGプライベートバンキングとエルメスなのだ。ジュリエット・ビノシュが直接プランを持ち込んで協力を要請したらしい。アーティストが自らの企画に懸ける思いは熱くストレートだ。まあ、トップスターであるから通用する手法であろうとも思うが、ジュリエット・ビノシュがアクラム・カーンとコラボするという企画は、是非見てみたいと思わせる魅力に満ち溢れているし、異分野の才能が同じ土俵に集い新しい作品創造をすることは文化的にも意義あることであると思う。こういう信頼感があってこそ、新しいアートが芽生えていくのであろう。そういう体制があるヨーロッパの土壌の豊かさにしばし感じ入る。

やはり、ジュリエット・ビノシュは特別な輝きを放っていた。物凄く強い磁力があるのだ。そして、これまでに培ってきた経験に裏打ちされた芳醇な豊かさも持ち合わせている。天賦の才能と身に付けたスキルが、堂々と放出されてくるのだ。しかも、ダンスのキレがいい。身体も大分絞ったに違いない。身のこなしが軽やかでいてセクシー。しかも、プロのダンサーにはない憂いを纏っていて、存在自体が女そのものの象徴のようでもあるが、ジュリエット・ビノシュという個性が確実に存在もしているのだ。テクニックだけで言うと、ダンサーの方が上手いのかもしれない。しかし、女優であるがゆえに、踊っていても常に感情が立ち上ってくるのが特徴であり、訓練を受けた者が正確に振り付けをこなすだけでは見えてこない世界が広がるのだ。その感情とテクニックを自ら融合させて表現出来るというのは稀有なことなのだと思う。
アクラム・カーンも、また見事である。ダンスが素晴らしいのはもちろんであるが、時折挟み込まれるモノローグに込める感情などは、優にダンサーの域を超えている。観客にストレートに感情が叩き突けられてくる。
女優がダンサーの域に、そして、ダンサーが俳優の域へと、それぞれの分野を軽々と凌駕し出来上がった結晶は、この上もない極上品であった。

物語がフェリー二の「カサノバ」から始まるのも、非常に好み、である。映画館で女が男を見初め、愛人にしてくれと詰め寄っていく。音楽のフィリップ・シェパードも素晴らしい。最近では映画「ムーン」が記憶に新しいところだが、ここでは、ああ、フランスもラテンなんだよなあなどと感じさせるような、絡み付くような実に扇情的なメロディが奏でられるのだ。女と男はメスとオスになり溶け合っていく。

物語は、シュメールの神話の女神イナンナとシンクロし、冥界降りや磔刑などの試練をくぐり抜けて、人は心と身体を変容させながら新しい地平を切り拓くのだと説いていく。お互いが、どうしたら、あるいは何で、つながっていけるのかを模索しながらひとつに融合していく。

アニッシュ・カプーアの仕事振りも刺激的である。刻々と変化する状態を、具体的なアイコン出して説明することなく、イメージさせていく。壁と椅子の在り方。そして、そこに照らし出される色彩の選択。揺れ動くスピリットを美しく体言しアートとしても成立させている。

「イン・アイ」。逡巡しながらも自分の内面を見つめることで初めて、相手に対して本質を掴んだコミュニケーションが取れるのではないかとでも言うようなメッセージが込められているのであろうか。スターの本物の実力がアートにまで昇華した瞬間に立ち会えたことだけでも幸せなひとときであった。

初演時に様々な評価を受け数々の演劇賞を受賞した作品の再演だが、この「春琴」は、日本人ですら成し得なかった、日本の本質、というものを見事に抉り出していて白眉である。現在のそしてこれからの日本を、明治という時代の地点からパースペクティブに照らし出し、一気に日本近代史の底辺に流れる日本人のスピリットの変遷を、冷静に紐解いていく様は圧巻だ。

常に、幾重もの客観的な立場からの視点が交錯し、情感一本で押しまくることもなければ、物語のうねりに翻弄されることもない。随所に、常に冷徹な分析眼が光っており、ひとつの物事がいくつもの解釈で成り立つような仕掛けが施されている。何だろう、チリチリと脳みそを刺激されるような、知的興奮に満ち溢れているのだ。かつて、シュレシンジャーがイギリス人であるが故にアメリカの現実を映画で描ききったのと同様に、イギリス人であるサイモン・マクバー二―の手で日本が料理されることで、我々すら気付かなかった日本人の秘めたる陰翳までをも掘り起こしてしまったような気さえする。そこが面白い。余談だが、007最新作で、サイモン・マクバー二―、いい味出していましたよね!

当初、テキストは、サイモン・マクバー二―が谷崎淳一郎の「陰翳礼讃」で全体を構成しようとしたらしいが、後に「春琴抄」の人物設定を得て、両者を合体させ再構成していったという。しかし、物語は、現代の日本において、立石凉子演じる女優が「春琴抄」の物語をラジオドラマとして朗読していくという枠組みとなっており、彼女が物語を語っていくことで、その世界が立ち上がってくるという仕掛けなのだ。現実の女優も、男女の問題を抱えており、物語を読みながら物語と意識をシンクロさせ、自らの気持ちを変化させてもいく。

主役の春琴は深津絵里なのだが、幼い頃の春琴は人形が演じることになる。深津絵里は黒いスーツを身に纏い、文楽のようにその人形を操りながら、腹話術師のように言葉を当てていく。しばらくは、黒子のような風体で舞台上に存在するのだ。何ともチャレンジングな設定である。その春琴に対する役者たちは、その人形と生身でぶつかってゆく。観ている分にはその設定も違和感がなく、また、春琴の抑圧された意識の状態が比喩としても伝わってくるので、エキサイティングですらある。しかし、この状況を成立させてしまえるということは、並大抵のスキルやパワーで出来ることではない。後半、あるきっかけで、春琴は生身の深津絵里が演じていくことになるのだが、それまで人形が演じていた状況から自然に生身の春琴へと姿を移行させていくのだ。このパワーの配分の仕方というのか、バランス感覚が絶妙であるというのか、一貫して同じ人物を生きていたからこそこのナチュラルな変遷に説得力を持たせられるのだ。驚異ですらある。

美術や映像もアートである。何人かの役者が細い木の棒を持ち、ある時は部屋のへりを形作るエッジとなり、襖の開け閉めなどもその棒を動かすことで表現し、ある時は階段、そしてまたある時はしだれ柳となり変幻自在にその形態をクルクルと変化させていく。また、畳も瞬時にその枚数や合わせ方で、様々な部屋や廊下を造形していく。その造形後に、照明が一歩遅れてその情景を確認するが如く丁寧に場を照らし出していく様などは、作り手と観客との間に生まれた、舞台が作り事だとを認め合うかのような共犯関係のサインのような気さえした。また、春琴が三味線の師範であることから、実際の三味線弾きが、背景でその音色を奏でるライブ感も贅沢極まりない。

女優は物語を読み終え現実の世界へと戻っていくが、登場人物たちは、未だ、その精神を舞台の上に残し続けている。その陰翳ある残像ともいうべき姿が段々と暗闇に溶けていき、今の日本に氾濫する電子音などが鳴り響く中、登場人物たちは上から降りてきた壁の向こう側へと消えていく。そしてひとつ三味線が残されるのだが、降りてきた壁がその三味線をぶち壊すのが、ラストシーンなのである。ショッキング!であった。この壊された三味線を見て何を思うかを、サイモン・マクバー二―に問われた気がする。私たちは、何に起因して日本人であり、これからどう生き、何を伝えていかなければならないのか。その命題はとてつもなく大きいが、まずは、自らがどういう第一歩を踏み出していくのかが重要なのだとも語り掛けてくれているようなのだ。

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