2018年 10月

黒澤明の名作映画「生きる」を舞台化するのだという。しかもミュージカルとして再生させるという本企画に興味深々、怖いもの見たさ半々で劇場へと出向くことになる。さて、お手並み拝見と舞台と対峙するが、黒澤作品の物語展開は遵守しつつも、舞台作品として観客を楽しませる要素をギュっと詰め込んだエンタテイメントとして見事に成立していることに惹起してしまった。

改めて、黒澤明の偉大さに感じ入ることになる。胃がんで死期が迫った男の人生の閉じ方を42歳にして見事に描ききった氏の才能に驚嘆すると共に、今でも、何ら古びれることのない普遍的な人間の生き様を描ききっていたことに思わず心が共振してしまう。

本作は死に向かう男の物語という捉え方ではなく、男の中から人間の生命力を掬い出し「生きる」ために様々な旅路を辿る男と、その男と時を共にする人々の人間模様を繊細に紡いでいくスピリットは本家そのままに、見事に換骨奪胎しているのは見事である。

物語が男が勤める、とある市役所からスタートするのは映画版と同様だ。陳情する主婦たちが市役所の各部門をたらい回しにされる光景を見せながら、責任を回避する体制側の責任を回避する体質をコミカルな要素を振り撒きながらでスピーディーに斬っていく。

主婦たちも、役所の男たちも、年齢層も様々に、色々な個性が集結しているキャスティングがとてもいいなと感じ入る。時に、プロダクションでこれから売り出していきたい眉目秀麗な俳優がエキストラで作品を彩ることも少なくはないのだが、これってリアリティが欠如するんですよね。本作にはそうした都合は廃されているので、スッと作品世界に入っていけるのだ。

市役所勤めの中年男を演じ物語の中心に聳立するのは市村正親。身体の異常を感じ病院で診察してもらうと胃潰瘍だと診断されるが、胃がんなのだと悟ることになる。そこから、貯金から金を引き出し、飲み屋で知り合った小説家と夜の街で遊び回ることになる。

第1幕の市村正親は地味な男を静かに演じきる。歌唱はというとゴンドラの唄を静かに歌うだけで、派手な見せ場は皆無である、と思っていたら、第1幕の最後に、思いの丈を絶唱して観客の耳目を一気に集め期待に応えていく様は圧巻である。この構成、ニクイですね。

第2幕は、映画ではあまり描かれなかった、男とその回りの人々との関係性にグイと深く斬り込んでいく。特に、市原隼人が演じる息子と男との思いの行き違いが、物語後半の核ともなっていく。親父を思う息子の心情が物語を更に豊かに彩っていく。市原隼人の独唱まで用意されているのだ。市村正親も胸に抱えた苦悩を歌を通して表現していく。人間の様々な思いが交錯していく。舞台に耳目が釘付けになっていく。

あの「生きる」がこんなにも見事に、きっとどんな世代でも楽しめるミュージカルとして立ち上がるだなんて想像も出来なかった。難題をクリアした隊長、宮本亜門の才能を再認識することになった。再演されたら是非皆にお薦めしたい秀作ミュージカルの初演に立ち会えた幸福を噛み締めることになった。

「華氏451度」と言えば、フランソワ・トリュフォー監督が1966年発表した映画作品が強烈に印象に残っている。近未来の情報規制社会を憂うるその内容は、ジョージ・オーウェルの「1984」にも通じる、恐怖政治に対する警鐘を鳴らしていた。

レイ・ブラッドベリは本作を1953年に執筆していた。ジョージ・オーウェルの「1984」が書かれたのが1949年。両作が発表されてから60年を優に超える今、不穏な世界情勢はその質を変えながらも、現在に至るまで断ち切れることなく連綿と続いているのではないかということを、本作と対峙することで再認識することになった。

何故世界は、持つ者が、持たざる者を支配しようとする構図を変えることを許さないのであろうか。その際、情報操作によるある種の洗脳のさせ方が支配層にとっては肝となるのかもしれない。その事実に気付き、足掻き始める主人公に観るものは共鳴していくことになる。「華氏451度」では、ガイ・モンタークがその役割を担っていくことになる。

ガイ・モンタークは、読むことも所蔵していることも禁止されている“本”が発見されると、その本を焼却するファイヤーマンという職業に就いている。民衆に考えるという契機を与えるようなことをしてはならないという世界が描かれていく。しかし、彼はその行為に対して疑問を抱いていくことになる。焼いている“本”を読んでみたくなるのだ。ガイ・モンタークがそんな思いの丈をぶちまける元大学教授が放つ言葉が胸に突き刺さる。「大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ」と。

現在、社会は情報に溢れ返っていると思うが、その受け取り口がPCやスマホからである我々を、同作はアジテーションしてくるかに思えてくる。何の疑いを持たないまま情報を受け入れ、全能感に浸っている自分に疑問を投げ付けられているように思えるのだ。演出の白井晃、上演台本の長塚圭史の思いが作品に照射されているのだと感じ入る。

物語の中心に立つ苦悩するファイヤーマンを吉沢悠が好演する。逡巡する思いを繊細に表現し、今を生きる観客との媒介となっている。その妻であり猟犬や鹿まで何役も演じる美波は、ガイ・モンタークを翻弄する存在として、作品にくっきりと足跡を残していく。ファイヤーマンの隊長と隠遁者である知識人双方の役割を担う吹越満の存在は、作品に刺激と安定感を付与し、作品をキリリと締めていく。堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、皆それぞれにくっきりと印象に残る個性を作品に刻印していく。

白井晃演出は、俳優陣のポテンシャルを最大限に引き出すことに成功している。また、美術や照明、衣装、映像など、可視化されるものに対する氏の美学も特筆すべきだ。特に、建築家である木津潤平が現出させる陳列された蔵書に囲まれた空間は、まるで、モダンアートの様な強烈なインパクトを湛えクールである。

美しく且つ刺激的に装いながらも、現代社会の欺瞞を切っ先鋭く抉る衝撃作であった。観劇後、じっくりと語り合いたい作品であると思う。是非、再演を希求したい1作である。

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