2016年 10月

藤原竜也、山本裕典、中村ゆり、木場勝己の4人芝居である。戯曲は、1993年に発表された韓国を代表する「アレゴリーの作家」と称される劇作家・李康白の手によるもの。演出は栗山民也。観る前から、濃密な劇空間が展開される予感に期待感が高まっていく。

客入れの間、薄っすらとステージ上の空間が見えているのだが、はっきりと見えているのが非常口のあのサイン。煌々と光るサインに、観る前からその意味するところに思いを巡らせることになる。

舞台は箱が堆く積まれた倉庫で、終始そこから場を移すことはない。その倉庫に住み込みで働く青年ジャーンとキームを、藤原竜也と山本裕典が演じる。2人のミッションは、届けられた箱を管理し、指定された箱を運び出すこと。ジャーン・藤原竜也は、粛々と仕事に取り組むことを真情とし、キーム・山本裕典は、この閉塞感ある職場から脱出したいと希求している。ジャーンはキームを弟の様に庇護し、そんなジャーンをキームは母の様だと鬱陶しがってもいる。

倉庫というミクロコスモスに生きるというのは、一種のメタファーだ。そこでの仕事を完遂するという目的が、生きることの全てであると言っても過言ではない現状のジャーンとキーム。そんな空間に、外界の者が闖入してくる。

ジャーンが倉庫を離れることはないが、キームは夜ごと街に繰り出していく。そこで知り合った女性が、酔い潰れたキームを倉庫に送り返しにやってくるのだ。その女性は、中村ゆり演じるミス・ダーリン。その呼び名からも分かるように、巷の男たちと添い寝する様な奔放な女性らしい。そして、木場勝己が演じる、倉庫に荷物を運ぶトラック運転手は、どうやらミス・ダーリンの父親らしい。娘を嫁がせると軽口を叩きながら、いかさま博打をキームに仕掛け、金銭を貪り取っていく。

否応なく、外界が倉庫に侵入してくる。その外気にあがなうジャーン。そこに突破口を見出すキーム。

ある事件が起こる。キームが意図的に運び出す荷物を間違えて発送してしまうのだ。慌てふためくジャーン。しかし、時間を経ても、何のクレームも起きることはない。それが、何故なのかは分からない。外の世界で何が行われているのかが分からない。

この倉庫の外に広がる世界とは果たしてどのようなのなのであろうか。その大きさを図る術をジャーンとキームは知らない。多分、ミス・ダーリンも、トラック運転手も知らないに違いない。いや、この舞台を観る観客もこれは知り得ないことなのかもしれない。目の前にあるのは、世界から閉ざされた倉庫。私たちは担った役割の中だけに生き、世界のパーツでしかないのだという事実が突き付けられる。非常口のサインが空しく光る。

藤原竜也が内省的でクレバーな青年を演じ、新境地を開拓したと思う。目の前だけを見て、仕事に邁進することに迷いを抱くことのない閉じた男に命を吹き込み哀切を滲み出す。これまで台詞を謳い上げる役どころが多かったかにも思えるが、それとは全く異なるアプローチにて、市井の、一介の人間を見事に造形した。

山本裕典は、やんちゃな青年の中に堆く積もった積年の鬱屈を明確に描き、藤原竜也演じるジャーンとのベクトルの差異をクッキリと対比する存在として心に灼き付いた。ジャーンとキームとの明暗の対峙が、緊張感を伴う空気感を作品に付与していく。

中村ゆりの、抑制することのない生々しい女の蓮っ葉な存在は強烈だ。キームを取り込み、ジャーンにも迫る節操のない生き様に、決して嫌味を感じさせず清々しさえ漂う気風の良い女っぷりで男たちを翻弄する。木場勝己は、ミス・ダーリンの本当の父なのであろうかという曖昧さも含みながら、年長者の貫禄と程良い愛嬌で、回りの者に有無を言わさぬ迫力を放っていく。

李康白の寓話がリアルに腹落ちする、心にズシリと残る衝撃作である。私たちは、ここで描かれた倉庫の様な世界から、果たして脱出することが出来るのであろうか。ズシリと心に重しを置かれたかの様な、なかなか拭うことの出来ないリアルさを前に、ただただその現実を享受するしかない自分に愕然とするしかなかった。

東京芸術劇場のシアターウエストという小空間で、旬のスターである向井理を含む、実力派俳優が居並ぶ蓬莱竜太の新作を観劇する贅沢さ。ナマが魅力の演劇の醍醐味がたっぷりと堪能出来る幸福さが、しかと感じられる演目に惹起する。

蓬莱竜太の筆致は、先行き不透明な現代の日本に生きる人間の本音を、切っ先鋭く斬り裂いていく。「星回帰線」というロマンティックなタイトルと、好青年風のイケメンを演じる向井理がかつての恩師が営む農園に赴くというシチュエーションから始動する物語は、希望に満ちたスタートを切ったかに思える。

平田満演じるかつての教師の元には、奥貫薫の妻、高橋努と岩瀬亮の青年2人、身重の女性生越千晴が滞在している。そして、近隣に住まう野波麻帆も物語に絡んでくる。そんな集団の中に、向井理という異分子が交わることで、これまで、露見しなかった人間の真意が浮き彫りになっていく。

八頭身のナマの向井理を目の当たりにし、観客は改めて思っていることなのだと思うが、登場人物たちは向井理に対してことごとくイケメンという言葉を浴びせ掛け、特に女性陣は心もそぞろな様相を呈し観客の思いとリンクする。芝居は絵空事という事実にリアルさを与え、観客を傍観者にさせない作者の仕掛けにはまっていくことの心地良さを享受する。

人を殺めたりするような悪人は、此処には存在しない。しかし、人間誰もが抱えているであろう邪まな感情が、時間を経ると共に沸々と横溢していくことになる。羨望、嫉妬、蔑み、侮蔑、憤り、諦め、現実を直視せず、上手くいかないことは他者のせいにする等々、自らの無意識な行動が人を傷つけ、他者より自分が優位に立つことに執心する小市民のエゴが全開する。それが抜群に面白い。

向井理が演じる青年は、ある理由があってこの地にまで流れ着いた。好青年ではある。しかし、この農園に出入りする野波麻帆演じる女に言い寄られ、ねんごろとなる。その女は、高橋努演じる男がモーションをかけていた過去がある。農園の主・平田満の妻、奥貫薫は優しく接してくれるこの青年に光明を見出し、彼の対応を曲解し横恋慕していく。青年は、自分が好かれるのだということを、多分、暗に理解していたのだと思う。しかし、そんな有様を追求されると青年は、自分のせいではないときっぱりと断じる。その悪びれることのない、尊大な態度。

ユートピアに見える農園は、宝くじに当たった恩恵で運営出来ているのだというリアル。その主人は癇癪を起こしやすく、更年期障害だということが分かってくる。そんな事情は、とうに知っている住民たち。ゲームに夢中な元ひきこもり岩瀬亮は疎んじられる存在であり、妊婦の生越千晴の過去が詳らかにされることはない。

芝居の中に「分」という台詞が出てくるのだが、自分の「分」とは一体何なのかということを、舞台上で生きる人物たちと照らし合わせながら、自ら熟考していくことになる。自分は果たして「分相応」に生きてきているのであろうか、と。日々、もがきながら、その「分」を見極めようとしているのかもしれない。この作品の登場人物たちと同じ様に。

当て書きなのであろう戯曲は、それぞれの俳優の奥底に潜む個性を引き出しスリリングだ。人間の本性が徐々に剥ぎ取られ露見していく様は、まさにミステリー。蓬莱竜太の真骨頂だ。

普通に生きる人々の中に渦巻く思念や欲望が零れ落ちるヒリヒリとした会話劇として秀逸である。「分」をわきまえ生きていく覚悟を突き付けられた様で、身が引き締まる思いで劇場を後にすることになった。

同戯曲は、映画化された「クルーシブル」で鑑賞済みであったが、映像とライブとは戯曲に対するアプローチが全く異なるということに、今さらながら気付かされることになる。5月に同劇場で上演された「8月の家族たち」も同様であったが、映像はとことんリアルであり、演劇はリアルさから一歩引いた地点から人間を描いていく。

同作は、1692年、アメリカはマサチューセッツ州の田舎町で起こった「セイラムの魔女裁判」と称される事件をモチーフとしている。アーサー・ミラーはその事件と、1950年代初頭の「赤狩り」に対する批判とを重ね合わせたと言われている。1953年6月のブロードウェイ初演から63年後の今、執筆当時の「赤狩り」を特に意識させることもなく、作品の根幹に存在する、異端が排除されるという普遍的な事象が浮き彫りになってくる。

同戯曲から、作品の神髄を掴み出したのは、演出のジョナサン・マンビィ。登場人物たちが混乱し、自己の保身や得策に走るリアルな姿を、ある種のユーモアさも加え冷静に筆致する。

舌戦の戯曲である。台詞はことごとく対峙する相手を論破しようと放熱する。悪魔に憑りつかれたという少女たちを巡る超絶さを極める展開を、一瞬の緩みも許さない緊張感を保ちながら描ききる。ハイテンションが途切れることない台詞劇は、教条さを凌駕し、エンタテイメントとして堪能できる仕上がりになっているのは、ひとえに演出家の凄技なのだと思う。

ジョナサン・マンビィ作品は初見なのであるが、日本人には持ち得ぬ感覚で、台詞を紐解く感触が心地良い。物語は登場人物たちの情感に引き摺られ過ぎることなく、理路整然と冷静に進められるが、その中に哀感を忍ばせる感情の機微の表現は俳優にしっかりと委ねていく。戯曲の面白さと、演劇の醍醐味であるナマの俳優の力量とを、絶妙に拮抗させているところがジョナサン・マンビィの真骨頂だ。

マイク・ブリットンの美術がいい。閉じられた空間の天井は大きく開かれ、自由を希求する登場人物たちの想いを集約しているようで心に沁みる。また、シーンごとに、そこにある舞台が階下であったり階上であったりと変化を示すことで、ステージ上に拡がる世界の可能性をぐいと押し広げ、観客のイマジネーションを刺激する。マイク・ブリットンは衣装も担当し、登場人物たちの個性を上手く引き出す効果を放っていくが、特に、暖色を基調とした少女たちの微妙に異なる色合いの衣装の美しさは目にも鮮やかだ。

重層的な美術とそのステージで格闘する人間たちに陰影を施していくことで、物語に深みを増す効果を生む、勝柴次郎の照明がいい。音楽を担うかみむら周平の、循環するミニマルなメロディの旋律は、まさに「るつぼ」の如く、観客を物語世界へと巻き込む魔力を放っていく。少女たちの集団狂気を、エンタテイメントとして昇華させた黒田育世の振付も目を見張る。

堤真一は、観客とのブリッジを果たす役回りを担っていく。正常な男の感覚が、少女たちが主張する目に見えぬ悪魔の妄想に絡めとられていく状況の中から、人間の尊厳を掴み出し、その是非を観客に叩き付ける。その妻であり、魔女であると投獄された女を松雪泰子が演じる。主義を曲げず自己を貫く姿は冷徹に見えなくもない役どころだが、揺るがぬ思いの根幹には夫への愛が貫かれていることを体現し、作品にふくよかな温かさを付与していく。

悪魔に憑りつかれる擬態を演じる黒木華は、狂気の沙汰を決して絵空事にさせない生々しさで観客を魅了する。忌避したいのだが、完全には悪者にはなりきれないギリギリのラインを大胆且つ繊細に演じ目が離せない。真実のありかを模索し逡巡する牧師を溝端淳平が演じ、作品のモラルの基軸として物語の良心として存在する。小野武彦の迷いのない権力者振りに観客は苛立たせられるが、氏の個性により、100%の悪漢にならない人間性が零れる様に、事の異様さを浮き彫りにさせる効果を発していく。

ジョナサン・マンビィの手腕により、アーサー・ミラーの名作が、ヒリヒリとした舌戦の応酬劇の傑作として見事に現代に甦った。観劇している間中、ワクワクのしっ放しであった。戯曲の文字が命を吹き込まれる瞬間の連続に立ち会えた幸福を甘受出来る稀有な体験を噛み締めることになった。

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