ENGLISH Versionは、キャサリン・ハンターの圧倒的な存在感に完全にノックアウトされた。キャサリンはサラリーマンを演じ、物語は、自宅に丁度帰宅したところから始まっていく。そこで、男は脱獄者が妻と子を人質に我が家に立て篭もっている状況に直面するが、犯人への説得を試みようと思い、脱獄者の内縁の妻が住む家へと警官と共に向かうことになる。そして、なんとそこで、逆に、その妻と、一緒に住まう子どもの2人を人質に取り、男は警官をシャットアウトし、篭城してしまうのだ。
そのあまりにも飛躍し過ぎた物語の転換を、何の違和感もなく自然体で転回させていくキャサリンのその説得力とパワーが物凄い。この、まさかの在り得ない設定を、リアルさを持って提示出来るのは、妻子への愛を凌駕した、人が内なる部分に秘めた狂気を純化して表出させているからに他ならない。人が身体の内なる何処かに持っているであろうダークな部分を切り裂き、ストレートに叩き付けてくるのだ。また、戦慄の狭間に、愛嬌あるニュアンスを忍ばせるテクニックも心憎い。男は決して悪魔などではなく、普通の人間なのだということをしっかりと見せていくため、何故か、親近感すら抱いてしまうのだ。
野田は犯人の内縁の妻を演じ、まずは、キャサリンとの“いれかえばや物語”的な状況に目を惹かれていくが、次第にこの異形な姿が、人間の本質を抉っていくことに大いに貢献しているということに気付かされる。男女の概念を捨て去ることで、そこに普遍的な真実が生まれてくるのだ。
グリン・プリチャード演じる子どもが、また、見事だ、一瞬にして大人から子どもへと変貌した時は、思わず感嘆の声を上げてしまった。マルチェロ・マーニーの偉丈夫が作品に安定感を与えている。
JAPANESE Versionは、会場に入ると、まず、舞台が紙で造られていることに目を惹かれる。紙は和というイメージをより強くイメージさせ、ENGLISH Versionのアクリルと鏡で設えられた世界とは、作品に対するアプローチを全く異にする。
本バージョンでは、野田がサラリーマンを、犯人の妻を宮沢りえが演じるというキャスティングだ。近藤良平が犯人の子どもなどを、池田成志が警部など複数の役を兼務する。
ENGLISH Versionはキャサリン・ハンターの圧倒的な存在感で、果断なく続く暴力の連鎖が強烈に叩き付けられたが、JAPANESE Versionでは、暴力が起きる臨界点がより突き詰められ、人間心理の奥底へと深く分け入っていく。人は、キレる、本能を呼び覚ますといったような感情のスイッチを、どのようなきっかけで押してしまうのか。そして、人の感情が理性を凌駕した時、一体どのような行動を起こしていくのかという視点で、野田秀樹は、揺さぶられる人間感情の振幅を描ききる。
男女の入れ替えや、英語という言語のギミックがない分、紙や小道具が重要な役割を担っていくことになる。紙をホリゾントのように使用し、そこにドアや窓やTVの映像を投影させ、紙自体にも切り込みを入れていくという舞台設定が面白い。また、タイトルでもある「THE BEE=蜂」が、度々、その背景に大きく映像で映し出されていくことにもなる。
「THE BEE=蜂」とは一体何なのであろうか。人の中に存在する邪なるものなのか、理性を解き放たれた者でもコントロールできない何かの象徴なのか。観る者にその解釈は委ねられるが、取り付いて離れない様々な強迫観念が、現代人に巣食う病魔の一端であることが詳らかに暴かれている気がする。
野田秀樹の狂気になりきらない抑制加減が、逆に作品に不気味な陰を投げ付ける。宮沢りえが呼び覚ます感情はストレートに観客の胸へとリンクし、ビビッドなナマ感を醸成させ観客の共感を集めていく。近藤良平は、犯人や子どもや刑事などをクッキリと演じ分け、バリエーション豊かな人間像を立ち上げる。池田成志は、警部などを手堅く演じながらも、TVの中からの登場など、作品に奥行きを与える役どころにて、見せ場をものにしていく。
人間の内に潜む本能的衝動と、その発現を緻密に描いて秀逸である。また、それぞれのバージョンが、異なる視点を持ち得ていたことも驚異に値する。クリエーター、野田秀樹の才能をひしと感じさせられた逸品である。
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