2012年 4月

ENGLISH Versionは、キャサリン・ハンターの圧倒的な存在感に完全にノックアウトされた。キャサリンはサラリーマンを演じ、物語は、自宅に丁度帰宅したところから始まっていく。そこで、男は脱獄者が妻と子を人質に我が家に立て篭もっている状況に直面するが、犯人への説得を試みようと思い、脱獄者の内縁の妻が住む家へと警官と共に向かうことになる。そして、なんとそこで、逆に、その妻と、一緒に住まう子どもの2人を人質に取り、男は警官をシャットアウトし、篭城してしまうのだ。

そのあまりにも飛躍し過ぎた物語の転換を、何の違和感もなく自然体で転回させていくキャサリンのその説得力とパワーが物凄い。この、まさかの在り得ない設定を、リアルさを持って提示出来るのは、妻子への愛を凌駕した、人が内なる部分に秘めた狂気を純化して表出させているからに他ならない。人が身体の内なる何処かに持っているであろうダークな部分を切り裂き、ストレートに叩き付けてくるのだ。また、戦慄の狭間に、愛嬌あるニュアンスを忍ばせるテクニックも心憎い。男は決して悪魔などではなく、普通の人間なのだということをしっかりと見せていくため、何故か、親近感すら抱いてしまうのだ。

野田は犯人の内縁の妻を演じ、まずは、キャサリンとの“いれかえばや物語”的な状況に目を惹かれていくが、次第にこの異形な姿が、人間の本質を抉っていくことに大いに貢献しているということに気付かされる。男女の概念を捨て去ることで、そこに普遍的な真実が生まれてくるのだ。

グリン・プリチャード演じる子どもが、また、見事だ、一瞬にして大人から子どもへと変貌した時は、思わず感嘆の声を上げてしまった。マルチェロ・マーニーの偉丈夫が作品に安定感を与えている。

JAPANESE Versionは、会場に入ると、まず、舞台が紙で造られていることに目を惹かれる。紙は和というイメージをより強くイメージさせ、ENGLISH Versionのアクリルと鏡で設えられた世界とは、作品に対するアプローチを全く異にする。

本バージョンでは、野田がサラリーマンを、犯人の妻を宮沢りえが演じるというキャスティングだ。近藤良平が犯人の子どもなどを、池田成志が警部など複数の役を兼務する。

ENGLISH Versionはキャサリン・ハンターの圧倒的な存在感で、果断なく続く暴力の連鎖が強烈に叩き付けられたが、JAPANESE Versionでは、暴力が起きる臨界点がより突き詰められ、人間心理の奥底へと深く分け入っていく。人は、キレる、本能を呼び覚ますといったような感情のスイッチを、どのようなきっかけで押してしまうのか。そして、人の感情が理性を凌駕した時、一体どのような行動を起こしていくのかという視点で、野田秀樹は、揺さぶられる人間感情の振幅を描ききる。

男女の入れ替えや、英語という言語のギミックがない分、紙や小道具が重要な役割を担っていくことになる。紙をホリゾントのように使用し、そこにドアや窓やTVの映像を投影させ、紙自体にも切り込みを入れていくという舞台設定が面白い。また、タイトルでもある「THE BEE=蜂」が、度々、その背景に大きく映像で映し出されていくことにもなる。

「THE BEE=蜂」とは一体何なのであろうか。人の中に存在する邪なるものなのか、理性を解き放たれた者でもコントロールできない何かの象徴なのか。観る者にその解釈は委ねられるが、取り付いて離れない様々な強迫観念が、現代人に巣食う病魔の一端であることが詳らかに暴かれている気がする。

野田秀樹の狂気になりきらない抑制加減が、逆に作品に不気味な陰を投げ付ける。宮沢りえが呼び覚ます感情はストレートに観客の胸へとリンクし、ビビッドなナマ感を醸成させ観客の共感を集めていく。近藤良平は、犯人や子どもや刑事などをクッキリと演じ分け、バリエーション豊かな人間像を立ち上げる。池田成志は、警部などを手堅く演じながらも、TVの中からの登場など、作品に奥行きを与える役どころにて、見せ場をものにしていく。

人間の内に潜む本能的衝動と、その発現を緻密に描いて秀逸である。また、それぞれのバージョンが、異なる視点を持ち得ていたことも驚異に値する。クリエーター、野田秀樹の才能をひしと感じさせられた逸品である。

「エンロン」とは、2001年に粉飾決算が明るみに出て倒産したアメリカのエネルギー関連大企業である。その崩落に至るまでの事の顛末を、イギリス人であるルーシー・プレブルが描き、2009年にロンドンで初演を迎えたのが本作だ。

この戯曲が面白い。物語の中心に立つのは、会長のレイの信頼を得てCEOへと上り詰めたスキリングだ。彼が推進していった企業戦略が次々と成功し、次代を担うビジネスモデルとして業界の先端を疾走していく様がスリリングに描かれていく。株価は上昇の一途を辿り、アナリストたちも「エンロン」に最高の評価を与えていく。スキリングは一躍時代の寵児としてもてはやされていく。

「マーク・トゥ・マーケット」という、将来の見込み収益を前倒しで計上できる会計システムを導入し、それが莫大な資産を生み出していくのだ。しかし、あくまでも計上された売り上げは見込みであるため、それはどこかで解れる糸のように瓦解していくことになる。更には、ブロードバンド事業にも事業を拡大し、エネルギー資産のトレードにも取り組み始める。見込みと実態がどんどんと乖離していく、その底知れぬ恐怖を、スキリングは何としても解消したいと頭を悩ませていく。

スキリングは、その悩みを部下のアンディに打ち明ける機会を得る。そこでアンディは、損失をシャドウ・カンパニーに肩代わりさせる方法を持ち掛け、スキリングはそのアイデアに乗る判断を下していく。ビジネスがマネーゲームへと変貌していく。

この一見込み入った話を視覚化するにあたり、オーソドックスな台詞劇のアプローチを取らなかったことが、この作品の最大の魅力となっている。トレーダーたちがダンスをしながら駆け回る姿や、スター・ウォーズさながらにライトサーベルを手にトレードを行うなど、エンターテイメント性を意識した手法が面白い。また、お荷物である負債を押し込むシャドウ・カンパニーを、絶滅した恐竜の頭を持つ男として現前させたのもアイデアである。

但し、様々な傑出したカードが揃っているのにも関わらず、その要素を十分に生かしきれていないようなもどかしさが感じられる。初日から2日目ということもあるのかもしれないが、弾けるような勢いがなく、全体的に抑え込まれたような堅さが残るのだ。ホリプロが外国人演出家を起用して制作した場合に、まま起こり得る現象でもある気がするが、コミュニケーションの問題なのか理由は定かではないが、その原因は何なのかは、是非、解明して欲しいところだ。

社会問題を舌戦で描きながらも、まるでミュージカルのようなシーンを挟み込むアイデアは、実にオリジナリティーがあり、観客が楽しんで観ることが出来る素晴らしいアイデアだと思うので、惜しいなと感じてしまう。また、これは日本版のオリジナルなのだと思うが、奥秀太郎が創り出す映像の世界観は、作品に更なるクリエイティビティーを与え秀逸である。

市村正親は恐れを抱きながらも、カリスマとして君臨するスキリングを様々な側面から見せ楽しませてくれるが、どこか発散しきれない堅さがしこりとして残る。いや、実は、その堅さが役を演じる上での胆だったのであろうか?とも思うが、そこは判然としない。アンディを演じる豊原功補は、虎視眈々と組織の上部へと上る機会を伺う野心家を冷徹に演じ、シニカルな彩りを添えていく。香寿たつきはスキリングとCEO争いをする女性幹部クローディアを演じるが、キャリアウーマンをステロタイプに捉え表層的な人物像になってしまったきらいがある。たかお鷹は会長の貫禄と偉丈夫さを兼ね備え、揺るがぬ巨星を体現するが、脆弱さを忍び込ませた弱さをも感じさせているため、哀しい事の成り行きの結果にも合点がいく。

トレーダーなどを演じる若者は、長身のイケ面俳優が揃っている。誰が悪いとかそういうことではないのだが、面構えや体格などもバラバラに、バラエティーの富んだキャスティングをした方が、作品に厚みを与えることが出来たのではないかと思う。

戯曲は緻密で、演出のアプローチもエンターテイメント性に溢れたオリジナリティーを獲得している。実に面白いプロジェクトだと思うのだが、戯曲と演出と役者が、どうも有機的に機能しきれていない段階にあるため、ある種の堅さが作品そのものを脆弱にさせている気がする。これは回数を重ねれば解消できることなのかどうかは分からないが、練り直した作品を観てみたい気がした。

舞台に造られた仮設の楽屋では、役者がそれぞれ寛いだ姿を見せている。開演5分位前になると、主要な役者たちも登壇し、和やかに談笑する光景が繰り広げられる。そして、開演時間になると皆が一斉に立ち上がり、舞台前面に一列に揃って、観客に向けて一礼を行うのだ。ここで、観客は役者たちにやんやの喝采を贈ることになる。

楽屋のセットなどがはけると、ローブを纏った主要な役者たちがそこに残ることになる。そして、役者の後ろに控えた黒子たちがそのローブを一斉に剥ぎ取ると、西欧の衣装を身に付けた姿へと変貌を遂げていく。この早替わりで、一気に時空は現代から、観客を「シンベリン」の時代へと誘っていくことになる。見事な幕開きだ。

「シンベリン」は、シェイクスピアが描いてきた様々な要素が紡ぎ合わされた、まるでゴブラン織りのような作品だ。少々無理な展開かなという向きもあろうが、そんなことは大きな運命の渦の中に巻き込まれてしまえば大して気になることではない。いや、実際に生活していく中では、出会う人や、ぶち当たることなどに関して、私たちは、意外にも、それ程、緻密に検証をしたり、考察したりなどしていないのではないのかと、本作を観て気付かされることにもなる。

客観的に見ると、もっとしっかり確認した方がいいんじゃないの?とか思ってしまう展開でも、当事者の身になってみれば、結構、思い込みが先行して、本作の登場人物たちのような行動を実際は取ってしまうかもしれないなと感じ入る。そういった視点で作品を観ると、本作の破天荒な物語展開にも、結構、合点がいってしまう。シェイクスピア、恐るべしである。

「ロマンス劇」というジャンルに括られる本作は、家族の離散、そして、陰謀、嫉妬、誤解、確執など、あらゆる困難が登場人物たちに襲ってくるのだが、それを乗り越え、赦し、和解するという波乱万丈な展開を示していく。次々と物語の駒が進められていくのだが、そこで起こる出来事にリアリティーを持たせるのは、この居並ぶ実力派スター俳優陣に他ならない。このキャストたちが、登場人物たちに見事に生命を吹き込み、その時代を生きたであろう人々を甦らせていく。

阿部寛が妻の不義への疑いに逡巡する様を明確に演じきる。大竹しのぶはピュアさや哀しみに沈む思いを滲ませ、揺れ動く感情を繊細に紡ぎ合わせていく。窪塚洋介の悪漢の役どころが実にいい。表裏ある曲者の捻くれた感情を色香を振り撒きながら演じ、独特のオーラを放っていく。勝村政信は、明解にコメディー・リリーフに徹し、作品に大きなアクセントを付加させていく。

鳳蘭の貫禄が作品に重厚感を与え、吉田鋼太郎の滲み出る人間臭さが、舞台を見つめる観客との間に共感性を生み出していく。瑳川哲朗の優しい素養が、その役どころに説得力を与え、浦井健治の溌剌とした若さが次代へとつながる未来の予感を体現していく。

様々な紆余曲折を経て、物語は大団円へと終焉していくのだが、津波の音響が鳴り響いた後に舞台中央に出現したのは、あの“一本松”だ。2012年に日本発信で創られた本作の意義が、その一本松に集約されていくことになる。大いなる意思と決意を持って、全ての出来事を赦し、そして、生きていくのだという熱いメッセージがズシリと胸に落ちていく。傑出した表現だと思う。

ロンドンで行われる「ワールド・シェイクスピア・フェスティバル」での上演も視野に入れているためか、ブリテンの場面の背景は水墨画風であり、ローマのシーンでは源氏物語の「雨夜の品定め」の大和絵などが設えられるなどジャパネスクな要素も存分に取り入れられている。また、振り落としなど歌舞伎の手法なども盛り込まれ、音響も笛や鼓や琵琶の音色が奏でられると、日本文化が鮮やかに際立つ演出が施されている。蜷川幸雄が随所に仕掛けた様々な技が、全ての局面で見事に昇華していく。

ラストシーンでは、登場人物たちがそれぞれにこれまでの経緯をこと細かに語っていくのだが、そんな長尺なシーンも決して苦にはならない。一本松を前にすると、運命の流転には耳を傾けるしかないという強烈な説得力が放たれていくからだ。全ての誤解が解けるこのシーンは、忘れることが出来ない光景として目に焼きつくことになった。役者陣も鉄壁に、あらゆる手法を駆使した演出も見事に開花した「シンベリン」は、2012年の現代日本の意識とピッタリと重なる傑作に仕上がったと思う。

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