2005年 4月

詩情溢れる舞台である。ステージはふいに始まる。ピアノ演奏のRYOJUNが登場し、グランドピアノのセッティングを済ませると舞台は暗転し(暗転中スモークが焚かれる音がちょっと目立って聞こえてしまった。)、明かりが入ると、森山開次が舞台奥からステージに飛び出してくる。七分丈パンツのみを穿いている。

タイトルに「Namida君」とあるように、街の灯りが涙で滲むかのような切なさが、森山開次の身体から溢れ出てくる。冒頭で流れていた街の映像が頭の中で、シンクロしてくる。動きのひとつひとつが己のテクニックを誇示するかのような機械的な繋がりではなく、連綿と断ち切られることのない気持ちが連続していて、自然と「ものがたり」が立ち上がってくる。ひとりの青年の「ものがたり」である。

切なく愛おしい。でも、哀しい訳ではない。観る人の心を共振させるこの動きは、「ダンス」と言うよりも身体表現と言った方が適切かもしれない。既にある「ものがたり」を表現するのではなく、表現すること自体が「ものがたり」になっていくのだ。ソロということもあり、その表出の仕方が拡散していかないのもパーソナルな空間を創り出すことに繋がっていく。

途中、ワイシャツとネクタイが空から降ってきて地に落ち、それを着ようと試すのだが後ろ前に着てしまい、でも、何故か何かがしっくりこないのか、脱ぎ捨ててしまう。唯一現れるこのモチーフに、象徴的な思いが込められているのであろうか。そういえば、森山開次が描くイラストの「Namida君」(涙の滴のようなキャラクター!)もワイシャツとネクタイを着けている。社会と自分との対峙? 解釈は様々であろうが、着心地の悪い衣装は脱ぎ捨てて、本来の自分自身で在り続ける覚悟の強さというものが、グサッと突き刺さってくる。

自己への希求が更に強さを増していくと共に、今まで薄暗かった明かりも少しずつ白光してきた。篠原力の創る照明の繊細さは、森山開次のパワーと相まって、叙情的で詩的な空間を創るための大きな要因として不可欠である。

伸びやかに気持ちが高みへと昇りつめていく。ラスト、森山開次はまるでダイブするかのように、ステージ上から飛び上がり、舞台奥に飛び込んで暗転となった。自分で自分を凌駕した瞬間なのかもしれない。

表現するということは実は自分の奥底から沸いてくるものなのだという、非常にシンプルではあるがとても基本的な欲求というものが、真摯な気持ちで創造されていて、とても清々しく心地良かった。今後、様々なカンパニーとのコラボレーションが続くようであるが、これからも目が離せないアーティストである。

まさに群像劇! 33人の役者が一同に会し動き回る様相は壮観。ランチが始まり厨房の慌しさが少しずつ沸騰し始め、オーダーを入れるウエイトレスの声とそれを受けるコックたちの掛け声と調理器具が立てる音が混然としピークを迎える前半の閉めのシーンは、蜷川幸雄が奏でるオーケストラそのものであり、狂いのない精密なバランスの上に成り立ったアンサンブルはまさに圧巻である。

アンサンブルとしては成立してはいるが、俳優の個性の噴出度具合が低温度だ。特に、成宮寛貴は、劇展開上いかに怒れる若者になろうとしても、身体の奥底にある苛立ちや諦めの境地に対する自覚と、それをいかに表出させようとするかという表現へのこだわりが薄いのか、一枚岩の表層的な怒りの表現に留まっている。深くなくても良い。上手く演じようとしなくても良いのだ。ただ、何かやりきれない思いの爆発の瞬間が見ることが出来れば良かったのだが、気持ちの何処かで自分で自分にセーブをかけている成宮寛貴が見え隠れしてしまうのだ。何だかカウンセリングみたいだが…。ただ、誰よりもキラキラした溌剌さを振り撒いていたことは間違いない。旬、ということか。

勝地涼もさらりとした印象だ。ドイツ語、ギターなどスキルを必要とする役柄であるが、イギリスで働くドイツ人という肝が空白だ。人物の背景が希薄なのだ。そうすると、その人物そのものが見えてこなくなってしまう。

そもそもこの戯曲を選んだ時点で、このヨーロッパにおける人種間の軋轢というものを、現在の日本人が見た目も含めてどこまで伝えられるかということは、課題であったはずだ。しかし、残念ながらその課題は解決出来なかったように思う。清潔感ある細身のイケメン男優たちがメインの役どころを始め脇にも多く、役柄以前に役者としての個性がまだ確立されていないこういう布陣では、そもそも難しい挑戦であったには違いない。かえって台詞もない石井智也などがその体格で目立ってしまう。

相手の主張を身体の全面で受け取り、返していくだけではなく、例えば、斜に構えてまともに相手を見なかったり、また、ある時は強烈に自己主張するなど、その表現の仕方に幅を持たせた緩急自在な広がりある演技を、高橋洋などにはもっと緻密に積み上げていって欲しかった。須賀貴匡は素直な資質が前面に出て好感が持てる誠実さが滲み出るが、大勢の中でもすっと目立つ個性を今後どう血肉としていくかに期待したい。特に今回はクラスが下層である人間の、卑屈さなのか、無我の境地なのか、あっけらかんとしたオープンさなのか、そういった戯曲から読み取れるその役柄の位置から鑑みる心的状態などが、人物形成のエッセンスとして匂ってくると、その人物にもっと深みが出たであろう。

その点、津嘉山正種と品川徹は登場するだけで空気が変わる。背景が確実に見えてくる。鴻上尚史はなかなか個性的で面白いが、杉田かおるはバラエティなどで見るぶっちゃけたストレートな面白さに欠け、表面的な演技の次元で留まっていたように思う。

戯曲の書かれた60年代の虚無感と現在の21世紀とでは、その怒りの矛先や見え難い目標などの質が、違ってきているのだと確信した。だから、役者の根底に戯曲が望むべき資質がもはや存在していないのだ。その頃あった「ある感情」は、今の日本の若者が生きていくためには、多分あまり必要でないことなのだ。最後のシーンの品川徹の叫びに、その全ての矛盾を包括させたのであろうか。あるいは、そのことに演出は気付かず、普遍的な物語としてこの戯曲と取り組んだのであろうか。そこがはっきりとしないまま幕は下りてしまった。

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