詩情溢れる舞台である。ステージはふいに始まる。ピアノ演奏のRYOJUNが登場し、グランドピアノのセッティングを済ませると舞台は暗転し(暗転中スモークが焚かれる音がちょっと目立って聞こえてしまった。)、明かりが入ると、森山開次が舞台奥からステージに飛び出してくる。七分丈パンツのみを穿いている。
タイトルに「Namida君」とあるように、街の灯りが涙で滲むかのような切なさが、森山開次の身体から溢れ出てくる。冒頭で流れていた街の映像が頭の中で、シンクロしてくる。動きのひとつひとつが己のテクニックを誇示するかのような機械的な繋がりではなく、連綿と断ち切られることのない気持ちが連続していて、自然と「ものがたり」が立ち上がってくる。ひとりの青年の「ものがたり」である。
切なく愛おしい。でも、哀しい訳ではない。観る人の心を共振させるこの動きは、「ダンス」と言うよりも身体表現と言った方が適切かもしれない。既にある「ものがたり」を表現するのではなく、表現すること自体が「ものがたり」になっていくのだ。ソロということもあり、その表出の仕方が拡散していかないのもパーソナルな空間を創り出すことに繋がっていく。
途中、ワイシャツとネクタイが空から降ってきて地に落ち、それを着ようと試すのだが後ろ前に着てしまい、でも、何故か何かがしっくりこないのか、脱ぎ捨ててしまう。唯一現れるこのモチーフに、象徴的な思いが込められているのであろうか。そういえば、森山開次が描くイラストの「Namida君」(涙の滴のようなキャラクター!)もワイシャツとネクタイを着けている。社会と自分との対峙? 解釈は様々であろうが、着心地の悪い衣装は脱ぎ捨てて、本来の自分自身で在り続ける覚悟の強さというものが、グサッと突き刺さってくる。
自己への希求が更に強さを増していくと共に、今まで薄暗かった明かりも少しずつ白光してきた。篠原力の創る照明の繊細さは、森山開次のパワーと相まって、叙情的で詩的な空間を創るための大きな要因として不可欠である。
伸びやかに気持ちが高みへと昇りつめていく。ラスト、森山開次はまるでダイブするかのように、ステージ上から飛び上がり、舞台奥に飛び込んで暗転となった。自分で自分を凌駕した瞬間なのかもしれない。
表現するということは実は自分の奥底から沸いてくるものなのだという、非常にシンプルではあるがとても基本的な欲求というものが、真摯な気持ちで創造されていて、とても清々しく心地良かった。今後、様々なカンパニーとのコラボレーションが続くようであるが、これからも目が離せないアーティストである。
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