2014年 5月

かつて、ある一家を巡って実際に起きた殺人事件をモチーフに作られた本作は、その事件が起きた2004年と、一家の主と妻とが出会った1963年との間を行き来しながら、物語を展開させていく。赤堀雅秋の新作である。

赤堀は人間の業を、深く抉っていく。他人を見下すころで他人より秀でると安寧する業のようなもの、金にとことん執着する欲望、暴力によって他人を支配できるのだと思い上がる感情、今が良くないのは自分が事由なのではなく周りの人や環境のせいであると断じる高飛車さなど、人間が奢れる数々の感情が陳列されていく。

目に前で繰り広げられる惨い光景を忌避しながらも、自分の心情の中で完全に斬り捨てることの出来ない人間の生き様を目の当たりにすることで、観る者の真情までもがシンクロし、浮き彫りにされていくような“怖れ”がひたひたと忍び込んでくる。自分の内に潜む“悪”と対峙することになるのだ。

観る者が、知らず知らずの内に洗脳されていくかのような感覚。人が人を蹂躙する、その根源にあるのは、社会のメインストリームから逸脱せざるを得なかった人々の慟哭のようなものが渦巻いているのだということを、明白にディスクロージャーさせていく。

故に、筆致は、必然的に過去に遡っていくことになるのだ。自分たちは、何故、今、こうなってしまったのかという事実を遡り、客観的に検証して観客に提示してみせていく。描かれていく人物たちは、まるで、まな板の上で調理される魚のよう。しかし、装飾や比喩などを一切排した厳選された言葉で紡がれた台詞は、実にリアリティを持って物語を立ち上がらせていく。

一家の主を西岡徳馬が、その妻を荻野目慶子が演じ、圧倒的な存在感を示しながら、物語を中軸から牽引していく。西岡徳馬の小粒なはみ出し者感、荻野目慶子の蓮っ葉な悪女振りは、完全に役柄を昇華しエンタテイメントとして成立させている。

その長男を大倉孝二が、次男を八乙女光が演じていく。悪漢になりきれないやさぐれ者を飄々と演じる大倉孝二が、物語にいい意味での軽さを与えていく。カンパニーの座長は八乙女光が担うことになるが、アンサンブルの一員として役柄を生きる様に好感が持てる。アイドルのベールを取り払い、生身の人間をしっかりと生きていく。キムラ緑子の存在感も圧巻だ。高利貸しの女と、主の母の二役を二つの時代をまたぎ演じ分けていくが、女の哀れをリアルに造形しグッと物語に真実味を与えていく。

安藤聖が、本作のタイトルでもある「殺風景」という言葉を吐くシーンが印象的だ。地方都市が抱える獏とした喪失感がサラリと語られ、市井の人々が抱える哀しみが滲み出る。観客の胸にも、ストンと腑に落ちる構成の妙に感じ入る。大和田美帆が、荻野目慶子演じる女の若かりし頃を演じるが、ビッチな女っ振りで新境地を拓く。誇張し過ぎない表現がリアリティを生むが、その匙加減が微妙で決して悪びれることない悪女な側面が見え隠れすると、役柄に陰影が増したのではないか。

赤堀雅秋は、表舞台から零れ落ちた人間の意気を掬い取っていくが、その視点は決して温かいものではない。家族が家族としての絆を存続させ身体を寄せ合い生きていたかつての追憶と、家族という形態を持ちながらも他人を生贄にすることでかろうじて関係性を保っている今の時代とが並行して描かれることで、個々人が抱える底成し沼のような孤独感が浮き彫りになってくる。その前提を受け入れることなしに、人は人として他人としっかりと向き合うことはできないのだと断じているかのようにも思えてくる。

本作でサンプリングされた、行き場のない袋小路に陥った多くの人々を目の当たりにすることで、ここで生きている人たちは皆、まるで、今の自分との合わせ鏡のようでもあると感じ入る。個人の鬱憤を晴らすために他人を利用する手段を取る浅はかさを選択するのか、あるいは、憤懣やるせない思いを抱えながらそのまま時を過ごすのか。人生の指針をどこにチューニングするのかは、己の芯の強さが試されることになる。まるで、踏み絵のような選択を迫られる衝撃作であった。

もう、ステージが動き始めた瞬間から、これはスゴイぞという予感が迸る。舞台から発せられる、そのパッションのボリュームが半端ないのだ。しかも、その放熱は、実に繊細で緻密。作品全体のバランスを欠くことなく、出演者の皆が他の出演者陣を尊重し合いながらしっかりとタグを組んでいるということが、観る者にもはっきりと伝播し、心がいつしか「イン・ザ・ハイツ」に取り込まれていく。

本作ではニューヨークはマンハッタンの北西部にあるワシントン・ハイツの、ラテン系・コミュニティにおける3日間が描かれていく。アメリカに希望を抱いて中南米から移住してきた住民たちが、様々な思いで暮らす生き様が活写されていく。

ラテン系の人々の悲哀を、日本人が演じるということに全く違和感がない。俳優陣が身体の奥底から役を捉えているため、表層的な表現に陥ることがないのだ。ある種のマイノリティが抱えるセンシティブな感情と、現代の日本に生きる者たちの悲哀が見事にシンクロしていく。

ミュージカルであるがラテンやR&Bの要素が強烈で、ラップも横溢する楽曲群はオリジナリティ満載だ。この音楽のテイストが、日本においても“今”の空気感と呼応し、演じ手たちが歌詞に自らの溢れる感情を載せ、若者の心の叫びがリアリティを持って観客に叩き付けられてくる。

メッセージ性を保持しつつも、エンタテイメントとしての娯楽性を充分に開花させた立役者は、演出と振付を担うTETSUHARUだ。自らがダンサーで振付も手掛けてきた数々の実績が、演出にも大いに活かされている。ダンスを振付けるというクールな客観的視点が、俳優個々人の身体性を最大限に引き出す手腕としても遺憾なく発揮され、演者をエンタテイナーとして舞台に確実に存在させていく。

ダンスと芝居、そして、歌唱の全てが一体化しているのだ。どのパートもブツブツと区切れることのない、滑らかな展開を示しているのは、TETSUHARUが隅々に至るまでを自ら差配しているからに他ならない。また、リズムと見事に呼応したKREVAの歌詞が、登場人物たちの真情をクッキリと浮き彫りにしていく。

from Def TechのMicroが語り部の様な役割を担うが、生々しい感情をストレートに打ち出すピュアさが、心にグッと忍び込んでくる。演技の技をも超越したその存在感が、人種を超える生々しい親和感を生み出すことに成功した。Micro演じるウスナビが営む食品雑貨店の従業員演じる中河内雅貴のキレのいいダンスっ振りと、舎弟的な愛らしさが印象に残る。

松下優也がロミオ的、AKB48の梅田彩佳がジュリエット的な役回りを担い、作品の中軸に聳立し物語を牽引していく。大塚千弘がラテン的でセクシーな女性を造形し、未来を憂うる悲哀が胸に突き刺さる。安崎求と樹里咲穂が梅田彩佳演じる娘の両親を演じ、ベテランのスキルと表現力で作品をしっかりと押し支えていく。

多くのミュージカルで数々の賛辞の足跡を残すマルシアが美容院のオーナーを演じ若者たちを柔らかなオーラで包み込み、エンタテイメント界のイコン・前田美波の存在感が作品に一段高いクラス感を付与していく。

3日の間に様々な事件が起こるのだが、最終的に皆が自分の“ホーム”を見つけ出すという展開に、人種や国を超えた共感性が湧き上がる。観る者全ての心を捉えて離さない傑作ミュージカルに仕上がった。再演したら、皆を誘って、また、観に行きたいと思います!

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