幕が開くと、舞台全面に巨大な木が設えてあり、柳のようにしだれ流れるボリュームある木の葉が美しい。役者たちは音楽隊と共に客席後方より登場し、一同舞台前面に揃うと観客に一礼をし、そこで、まず大拍手。蜷川演出のオールメールプレイの、定番の幕開きだ。ウワッと華やかな雰囲気が醸し出される。
北村一輝演じるナヴァールの国王ファーディナンドが、これから3年間は学業に専念するためと、臣下たちと誓いを立てる丁々発止のやりとりから舞台はスタートする。最初は活きがいい男優陣が溌剌として新鮮だが、だんだんと、その掛け合いが台詞上だけの表層的なものになってきて、舞台経験の浅い俳優さんたちが、もうひとつ力が足りないことが明らかになってくる。
途中、信書を読み上げるシーンなどは、ラップ調な台詞廻しで、一瞬新鮮さを感じるが、階級紳士が庶民の真似事をしているのだ、というような深読みできる意図は全く感じられない。そもそも、この男優陣に貴族の気品を求めることは困難である。いかにも現代の若者である。なので、ラップで唱えること自体にそもそもあまり違和感がなく、逆に流行をサラッとなめているかのような薄い味わいだ。
ただし、騒々しい中にも大人の落ち着きを感じさせる喜劇になっていたのは、ひとえに座長の北村一輝の存在に他ならない。成宮寛貴や小栗旬にはない、年齢的な落ち着きと大人の男の色気があり、また、旬の俳優が持つ輝きも放っていた。窪塚俊介も明晰だが、もうひとつこの役に何か個性をアクセントとして付加して欲しかった。それは、須賀貴匡にも言えることだ。高橋洋が、北村一輝の下、実質的に物語を牽引していく役回りを受け持つが、他の俳優の硬さを、逆に浮き立たせてしまう結果となった。経験値が大きいとは思うのだが、舞台上で“自由”に演じる伸びやかさの度合いが、あまりにも違い過ぎるのだ。
女性を演じる男優陣も、もう一歩吹っ切れると楽しい気がした。内田滋が、コミカルさに徹していたのが目立ち面白くはあるのだが、女装であり、決して女形とは言えず、ショーパブのパフォーマンスのような印象だ。但し、下世話という点においては、変に女の仕草をどう見せるかというようなテクニックを駆使しない次元で勝負していたことには好感が持てる。戦略、なのであろうか。姜暢雄は、その身体の大きさを、もっと逆手に取るなどして、どう見せるかの工夫が、もう少し欲しかった。真面目である。中村友也は、綺麗な姿であり、時に、内田滋とのバトルな掛け合いも面白い。しかし、もうひとつ、この役回りを活かす個性を作り出すことはできなかったか。月川悠貴は、受けに徹し、男の側面を全く封印していたのは天晴れだ。他の俳優陣の中で、どういう立ち位置で、アピールしていくかを心得ている気がした。4人の中では、一番、女性に見えた。
藤井びんが面白い。この白塗りの男が出てくるだけで、舞台の空気が変わり、道化に徹したその姿だけで、可笑しさが込み上げてくる。青井陽治は、さて、どんな演技をされるのかと思いきや、意外に正統派で地味! 真面目に役作りに取り組んでいた。
難しい戯曲であると思う。大仰なテーマもなければ、そもそもそれぞれの役柄に、クッキリとした個性が内包されているわけでもない。能天気に駆け引きを楽しむ登場人物たちを見て、ただ、面白がれればいい作品なのかもしれない。そこが、難しい、ということか。普通のことを、いかにも面白い出来事として、観客の耳目を集め笑わせ楽しませることができるのか。シェイクスピア喜劇の上演の難しさを痛感した作品であった。
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