2015年 8月

現代アメリカ抽象絵画の巨匠マーク・ロスコとその弟子ケンの物語である。ニューヨークのレストラン、フォー・シーズンズのダイニングを彩る予定の連作絵画を創作している時期に、フォーカスが当てられている。作者は、ジョン・ローガン。最近だと、007の脚本などにも参加する売れっ子作家であるが、戯曲の執筆にも精力的なようだ。

エンタテイメントを熟知した作者であるため、弟子と巨匠、追う者と追われる者の確執や葛藤がビビッドに描かれ、二人芝居でも決して観客を飽きさせることがない。かえって、他の人物が排されていることにより、男二人の真情に集中することが出来る。

ロスコのアトリエに掲げられた赤い画布の前に、二人が対峙するところから物語は始まり、終始そのステージから舞台が離れることはない。その密閉された空間に二人の生き様が封じ込められ、濃密な時間が立ち上がってくる。

名声を博す巨匠でありながらも、逡巡し思い悩みながら作品の創作に立ち向かうロスコの姿は、痛々しささえ感じる程、自分で自分を追い詰めているかのように見える。自分のクリエイティブを理解出来ないであろう人々に対して湧き上がる一種の“怒り”のようなものを、助手であるケンに叩き付けるかの如く、顎で使うことで発散しているようにも感じられる。

しかし、その根底では、主従という関係性だけでは片付けられない、捩れたコミュニケーションが成立している。お互いがどんな生活をしているかなど、プライベートの出来事が会話に出てくることは全くない。二人は、作品を創るという1点のみで繋がっているのだ。しかし、ケンはそこにフラストレーションを募らせ、全く取り合わない様にも見えるロスコは、感覚的にそんな感情を察知しているようなのだ。知らず知らずの内に、お互いが必要不可欠な存在へと変転していく。

二人が食事をしながら、芸術論を交わすシーンが楽しい。躊躇することなく、料理を口にほおばり、台詞が言えるか言えないかのギリギリのラインを保ちながら会話を続けていくパフォーマンスに、思わず舞台に目が釘付けになる。そこには可笑し味と共に親和性も生まれ、ステージと観客席とが一体化していく。

小川絵梨子の演出は台詞を丁寧に深く考察し、演じ手がお互いの感情の発破により万華鏡の様に変化していく関係性を繊細に掬い取っていく。また、音楽の使い方であるが、暗転の際、背景音のように流れていた音楽が、舞台が溶明すると、アトリエの片隅にあるレコード・プレーヤーの音であったことが分かり、室内で鳴る音へと変転するなど、特徴的な使い方が成されている。閉じられた空間に、グッと奥行きが増していく。

ロスコを演じる田中哲司は、頂点に上り詰めた者が、そのクオリティを維持していかなければならない苦悩と、自己の表現がどれだけ理解し得るものなのかに揺れる葛藤を大胆に表現していく。ケンを演じる小栗旬は決して大家に媚びることなく、創作過程を通して、しっかりと芸術に向き合っていく姿が清々しい。

二人の俳優の個性は際立っていくのだが、その二人が合い見えた時のパワー・バランスの描かれ方が微妙な感じがした。ロスコはもっと尊大な部分があって欲しいし、ケンはロスコに対してリスペクトしている感情をもう少し放熱してくれると、更に重層的で複雑な人間ドラマが織り成されたと思う。実力派俳優と人気スターという構図が、作品にスライドして見えたのは私だけであろうか。

最後の顛末には納得の部分があり、そうか、青年の成長物語でもあったのだなと感じ入る。アートを突き詰める者の苦悩を浮き彫りにしながら、新旧交代の哀感を筆致した見応えある作品であったと思う。

寺山修司生誕80年、蜷川幸雄80歳のアニバーサリー公演である。寺山修司が1963年に書いた本作は、なんと音楽劇。本公演では、音楽に松任谷正隆が迎えられた。しかも舞台は、蜷川幸雄初登板のオーチャードホール。主演の亀梨和也の高畑充希も、蜷川作品初出演。初手合わせが多い豪華な布陣に、観る前から期待感が高まっていく。

開演すると、まだ戦後の雰囲気を湛える茫漠とした荒野の様な地平が現れ、そこに、まるで、ボッシュやブリューゲルの画から抜け出てきたかのような異形な群集やシュールな光景が立ち現れ、人々は、歌い、踊る。その時代を生きる民衆たちが抱く渇望感が舞台上から溢れ出し、充足を希求するパワーが衝撃波の如く観客を襲ってくる。

腹の底から湧き出るような、人々のこういう満たされない気持ちをダイナミックに描ける演出家は、蜷川幸雄以降、出てこないのではないかと、オープニングのシーンを見ながら思いを馳せることになる。戦後の日本を覆っていた閉塞感とその隙間から覗く未来という構図が、奇しくも、現代の日本の社会状況とシンクロしている気がしたのは私だけであろうか。隔たる時空をスパークさせ、リアリティを打ち出せる説得力は、それぞれの時代を生き抜いてきた経験に裏打ちされたものに他ならない。

混沌とした猥雑さを湛えた高度成長期の日本の中に咲いた一輪の花の如く、亀梨和也と高畑充希が演じる賢治と弓子の二人にほのかな恋が芽生えるが、寺山修司の筆致は若者の恋を純粋に昇華させることはない。発展を遂げていく世の中の裏側にひっそりと隠された惨事が若い二人を捲き込み、その負の側面に購うことが出来ずに、大きな潮流に飲み込まれていく哀しみが叩き突けられてくる。

黙って従うか、声を大にしてアジテートし行動していくのかは、いつの世でも問われるであろう普遍的な問題であると思う。奇しくも、2015年夏の今、日本国民に突き付けられている事象でもあり、演劇が現実と地続きなメディアであることを実感することになる。

松任谷正隆が創り出す音楽は、ポップなメロディラインが耳に心地良い。予想を裏切らない節回しが、既にスタンダードナンバーのような馴染み良さを感じさせてくれる。亀梨和也は心の中で煮えたぎる沸々とした若者特有の屈折感をしかと曲に滲ませ、繊細に謳い上げていく。高畑充希の伸びやかな歌声は、作品に明るい希望を付与していく。大劇場の隅々にまで行き渡るミュージカルで鍛えられた声量が、観客を席巻していく。

まさか、戸川昌子に出くわすとは思ってもみなかった。浮浪者の長老おりんを演じるのだが、切々と語るように絶唱する楽曲「日招き」は、もう絶品だ。このシーンが目撃出来たことの幸福に感じ入る至福の瞬間だ。マルシアが群集の中の一人サリーを演じ、ソロバラード「子守唄」を謳い上げる。その哀感ある歌声に惹き付けられ、女の真情に思わず涙してしまう。

オーディションで選ばれたというマリーを演じる花菜は、ストレートに心に響く歌声で観客を魅了する。六平直政が亀梨和也の父親を演じ、安定感ある洒脱な存在感が作品に福与かなアクセントを添えていく。山谷初男が情けない優柔不断な男をコミカルな味付けで演じ、渡辺真起子が放つ女の色香や、鳥山昌克のカリカチュアライズされた大物代議士振りも楽しく、様々な個性がぶつかり合う異種格闘技戦が、たっぷりと堪能出来る。

物語は悲劇を迎えることになるのだが、その哀しみを浄化させるような美しい光景に舞台は彩られる。本作は、社会の裏面で生きてきた者たちに向けた希望を一身に受け、それと引き換えに殉死した者たちに贈られた、パワー溢れる鎮魂歌だ。民衆たちの物語は、神話へと昇華されたのだ。作品が書かれてから52年の時を経て、日本は今、果たして幸福になっているのであろうかと自問自答する機会を得たのだと思う。

本作は、1992年の日本初演以来の観劇となる。幾たびかの再演の他、映画化もされた人気の作品であるが、世界初演となるロンドンでは、1989年以来27年間上演され続けているのだという。上演され続けているその理由は何なのかと考えると、幾つかの要因が浮かび上がってくる。

出演者が男優二人であるという点は、上演の身軽さを後押しする最大の要因だ。年配と若手の俳優とがガッツリと相まみえることができる、絶好のテキストだ。しかも、内容はミステリー。人間ドラマだけに留まることのないエンタテイメント性が抱合されており、観客を飽きさせることがない仕掛けに満ち満ちているのだ。

また、大仰な装置などもなく、小道具を駆使して、観客の創造力を喚起させるアプローチ方法なども、通をも唸らせることになる。全てをリアルに可視化すればいいのではないことが、しかと伝わってくる。創り手の、この、観客に対する厚い信頼感が、ロングランとなった秘訣なのかもしれない。

物語は、かつて、ある恐怖体験をした男が、その出来事を芝居仕立てにして表現することで、過去と決別しようと画策するところからスタートしていく。その男を勝村政信が演じ、演技を指導しながら相手役を受けて立つ若手の俳優を岡田将生が担っていく。

岡田将生は初舞台「皆既食」で放っていた初々しさを残しつつも、旬の俳優のオーラを放ち華やかだ。百戦錬磨の勝村政信は、素直な資質の岡田将生をシカと受け止めながら、その球に変化を加えて投げ返していく様は、まさに熟練の技。しかも、真面目に受け答えをしていく中にもユーモアを忍び込ませ、会話に可笑し味が付与されていく。キャスティングが一新されたことにより、俳優二人のコンビネーションは観る者にも新鮮さを与えてくれる。

物語が展開していくに従い、恐怖の理由が段々と暴かれていくことになるのだが、時折挟み込まれるユーモアがしっかりと物語に溶け込んでいくため、その恐怖を逆に増幅する効果を発していく。また、二重、三重の感情が重層的に積み重ねられていくことで、あらゆる局面において、ふくよかな感情も織り込まれていく。

幽霊と称される存在が、彼岸の物体としてではなく、此岸との岸辺を行き来する浮遊感を漂わせながら、作品全体を覆っていく。その独特の世界観が、オリジナリティあるミステリーのラビリンスを織り成し見事である。作品が怖さに収焉することなく、その怖さの原因である怨念の権化の気持ちが、今を生きる人間たちの感情とシンクロしていく様は、何だか感動的ですらあると思う。

演出のロビン・ハーフォードは、本作で、この二人の俳優を得て、いい意味での軽妙さを獲得することが出来たのではないだろうか。勿論、物語のクライマックスの、背筋がゾクッとさせられる仕掛けには、充分怖がらせて頂いたが、そこに至るまでのプロセスが、アメージング・ジャーニーとして成立しているのだ。

シンプルだからこそ、面白さがストレートに伝わる。そこに、あらゆる感情が交錯することで、彼岸の領域に足を踏み入れながらも、何故か深刻にならずに温かさを保持していく。本戯曲が、ある種、理想的なカタチで具現化された本作は、テーマパークのワクワク感が沸き起こるエンタテイメントとして成立し、真夏の世の夢を観客と共に共有出来る作品に仕上がった。

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