宮沢りえが登場した瞬間、ついつい思ってしまったのが、何だか疲れているのではないか、ということ。いや、疲れれているというよりも、やつれているといった感じ。役柄を反映したものと言うよりは、自身の内面から染み出るものの影響が大きいのではないかと感じてしまう。大分、大変なプロジェクトだったのでしょうか。
宮沢りえとは映画「紙の月」でタグを組んだ映画監督・吉田大八が作・演出を手掛ける本作において、吉田大八が演劇というフィールドで何を描こうとしているのかという点が、最大の興味のポイントだ。
クヒオ大佐は、吉田大八がかつて映画でも取り上げた題材である。その素材を今回は、クヒオ大佐の妻を中心に据え描いていくことになるという。この人物を通して表現したいのは、一体何なのであろうか。吉田大八がここまでこの人物に固執するのは何故なのであろうか。
本作を観進めていく内に、吉田大八が描きたいのは、アメリカへの憧憬に心身共に蹂躙されている日本人の姿を炙り出していくことなのではないのかと感じ入ることになる。クヒオ大佐の妻は、そういった日本人の意識を代表しているかのように語られていく。
しかし、宮沢りえという女優を通してクヒオ大佐の妻が表現されると、吉田大八が描こうとしたコンセプトを凌駕し、愛する男を思い続ける女の生々しい生き様をしかと刻印し、やはり、見事だ。思わず惹き付けられてしまうような、魔性のオーラを宮沢りえは放っている。
クヒオ大佐の結婚詐欺にあったという女・佐知江を川面千晶が演じていく。物語がスタートした時には、クヒオ大佐の妻・早川夏子の家の押入れに監禁されている設定だが、何故、監禁までするのか、逃げようと思えば出来たのではないかなどという思いが湧いてくる。観念とリアルさとが上手く融合していないかにも見える。
凛とした意識を保ち続けようとする夏子と、あけっぴろげで奔放に見える佐知江は、女性が持つ異なる側面を表層させていく。こんなタイプの違う女性をたぶらかしたクヒオ大佐の存在がより謎めいてくる。
岩井秀人は宅配便の荷届けで夏子の家にやってくるが、夏子のかつての同窓生であると断じ、物語に侵入してくる。岩井秀人のナチュラルな在り方は健在で、現代日本の男をある意味、象徴している気がする。物腰はきつくはないが、案外自分のことは曲げないというひねくれ具合。本音と本心とが判然としない曖昧さが、観ていて何とも歯痒い感じがするが、そこが面白い。
水澤紳吾は夏子と同じアパートの居住する少年を演じていく。子どもの視点で大人の世界を少々かき回す。少年は大人の秘密を垣間見る。
電話越しにしか会話が出来ないクヒオ大佐との逢瀬に身悶える、宮沢りえの念が観客にも伝播する。生きるよすががクヒオ大佐なのだ。クヒオ大佐がどの国の人間であっても関係はない。多分、夏子はクヒオ大佐がアメリカ人だったから好きになった訳ではないのだという事が、説得力を持って表現される。役者が、物語を超越し、新たな1編を書き添えていくようだ。
アメリカが日本を攻撃するという架空の設定がクライマックスだ。宮沢りえは、まるで、唐十郎作品のヒロインのように、立ちはだかる現実に立ち向かっていく。日本はアメリカにやられてしまっているという見解は否めないが、もはや夏子は世界と対峙しているようなのだ。
吉田大八の意図を宮沢りえが超克した先に、日本人の意識の普遍性が浮かび上がってくる。我々日本人は、アメリカを始めとする世界に向かって、広く生きていかなければならないのではないかという問題を突き付けるコンセンプチュアルな実験作であると思う。アメリカに向けた視座を、世界へと広げた宮沢りえの解釈が作品にしかと刻印された。
最近のコメント