2017年 5月

宮沢りえが登場した瞬間、ついつい思ってしまったのが、何だか疲れているのではないか、ということ。いや、疲れれているというよりも、やつれているといった感じ。役柄を反映したものと言うよりは、自身の内面から染み出るものの影響が大きいのではないかと感じてしまう。大分、大変なプロジェクトだったのでしょうか。

宮沢りえとは映画「紙の月」でタグを組んだ映画監督・吉田大八が作・演出を手掛ける本作において、吉田大八が演劇というフィールドで何を描こうとしているのかという点が、最大の興味のポイントだ。

クヒオ大佐は、吉田大八がかつて映画でも取り上げた題材である。その素材を今回は、クヒオ大佐の妻を中心に据え描いていくことになるという。この人物を通して表現したいのは、一体何なのであろうか。吉田大八がここまでこの人物に固執するのは何故なのであろうか。

本作を観進めていく内に、吉田大八が描きたいのは、アメリカへの憧憬に心身共に蹂躙されている日本人の姿を炙り出していくことなのではないのかと感じ入ることになる。クヒオ大佐の妻は、そういった日本人の意識を代表しているかのように語られていく。

しかし、宮沢りえという女優を通してクヒオ大佐の妻が表現されると、吉田大八が描こうとしたコンセプトを凌駕し、愛する男を思い続ける女の生々しい生き様をしかと刻印し、やはり、見事だ。思わず惹き付けられてしまうような、魔性のオーラを宮沢りえは放っている。

クヒオ大佐の結婚詐欺にあったという女・佐知江を川面千晶が演じていく。物語がスタートした時には、クヒオ大佐の妻・早川夏子の家の押入れに監禁されている設定だが、何故、監禁までするのか、逃げようと思えば出来たのではないかなどという思いが湧いてくる。観念とリアルさとが上手く融合していないかにも見える。

凛とした意識を保ち続けようとする夏子と、あけっぴろげで奔放に見える佐知江は、女性が持つ異なる側面を表層させていく。こんなタイプの違う女性をたぶらかしたクヒオ大佐の存在がより謎めいてくる。

岩井秀人は宅配便の荷届けで夏子の家にやってくるが、夏子のかつての同窓生であると断じ、物語に侵入してくる。岩井秀人のナチュラルな在り方は健在で、現代日本の男をある意味、象徴している気がする。物腰はきつくはないが、案外自分のことは曲げないというひねくれ具合。本音と本心とが判然としない曖昧さが、観ていて何とも歯痒い感じがするが、そこが面白い。

水澤紳吾は夏子と同じアパートの居住する少年を演じていく。子どもの視点で大人の世界を少々かき回す。少年は大人の秘密を垣間見る。

電話越しにしか会話が出来ないクヒオ大佐との逢瀬に身悶える、宮沢りえの念が観客にも伝播する。生きるよすががクヒオ大佐なのだ。クヒオ大佐がどの国の人間であっても関係はない。多分、夏子はクヒオ大佐がアメリカ人だったから好きになった訳ではないのだという事が、説得力を持って表現される。役者が、物語を超越し、新たな1編を書き添えていくようだ。

アメリカが日本を攻撃するという架空の設定がクライマックスだ。宮沢りえは、まるで、唐十郎作品のヒロインのように、立ちはだかる現実に立ち向かっていく。日本はアメリカにやられてしまっているという見解は否めないが、もはや夏子は世界と対峙しているようなのだ。

吉田大八の意図を宮沢りえが超克した先に、日本人の意識の普遍性が浮かび上がってくる。我々日本人は、アメリカを始めとする世界に向かって、広く生きていかなければならないのではないかという問題を突き付けるコンセンプチュアルな実験作であると思う。アメリカに向けた視座を、世界へと広げた宮沢りえの解釈が作品にしかと刻印された。

ジョン・パトリック・シャンリィは、映画「月の輝く夜に」や「ダウト」などでも有名な作家でもあるが、詩人として活動を開始させ、その後、劇作を手掛けていくことになった作家である。本作は1983年にケンタッキーで初演され、その翌年、ニューヨークで上演されている。

戯曲が筆致する1980年代のアメリカに生きる男と女は、30数年前に生きた過去の人物では決してない。ヒリヒリとした孤独を抱えた人間が描かれる人物造形は、いつの時代に共通する普遍的な心情を描ききっているため古びることはない。また、そんな男女の心情を戯曲の奥底から掴み取り、時代に左右されることのない人間の核心を抽出させたクリエイターたちの才気に酔い痴れることにもなる。

松岡昌宏が演じるダニーは、他人にも自分にも苛立っている。そして、その苛立ちを目に入る全てのものに叩き付けて生きている。この焦燥感は、若者が持ち得る特権だとも見てとれるが、このダニーのストレートな感情表現が新鮮に映るのが面白い。現代に生きる人々は、忸怩たる思いはどうやらオブラートに包んで表現している時代なのかもれないとも感じ入る。

バーで一人飲みをしているダニーと、やはり同じ店で一人で飲んでいる女ロバータは、席が少し離れてはいるのだが、少しづつお互いが気になっていく。ダニーにシンパシーを感じるロバータである。彼女もまた、心の内壁に堆く積もった孤独を抱えながら生きている女であった。

ロバータを演じるのは土井ケイト。「彩の国さいたま芸術劇場ネクストシアター」で研鑽を積んだ実力派だ。蜷川幸雄の演出助手であった本作の演出家である藤田俊太郎とは、旧知の仲なのであろう。土井ケイトの才能を熟知したこのキャスティングは、松岡昌宏と互角に対峙し、スターに決して引けを取ることのない存在感を示し、大成功だ。また、意図的なのではあろうが、二人のバタ臭いルックスのバランスも、また良しである。

反発し合いながらも、だんだんと惹かれ合っていくダニーとロバータ。ロバータの住む実家の1室へと場を移した後、結婚をしようと気持ちがヒートアップしていく。ダニーはとことん本気だ。しかし、ロバータの気持ちはだんだんと萎えていく。過去に囚われ、幸福になる自分を忌避しているようなきらいがある。すれ違う二人の何とも言えぬもどかしさが観る者の心にもグサグサと突き刺さる。

藤田俊太郎は、男女の機微を実に繊細に紡いでいく。松岡昌宏と土井ケイトの心身の奥底から、ダニーとロバータが秘めた心情を掴み出しスパークさせるサポートを見事に成し遂げている。二人芝居であるが、決して緩むことのない緊張感を終始舞台上に刻印していく。

避けることなくお互いが徹底的に向き合い、激しい台詞の応酬で気持ちをぶつけ合った先に開けてくる光景に、心が救われるようだ。信じ合い、希望を持つことの強靭さに胸が打たれる。生きることに不器用な男女が細やかな救いを見出す希望に満ちた秀逸さが、観た後も心に沈殿する作品であった。

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