2014年 6月

三谷幸喜が、18世紀に生きたイタリアの劇作家ゴルドーニーの同名作の翻案と演出を兼ねた本作。原作は、ヴェネチアの金持ちの未亡人が、イギリス、フランス、イタリア、スペインの貴族の求婚を受けるが、一計を案じて皆の真意を暴いていくという喜劇。三谷幸喜は、未亡人を結婚して引退していた女優に、貴族たちを各国の映画監督たちへ、舞台をヴェネチア映画祭開催時へと翻案した。

新国立中劇場のなだらかな段差がある客席の下方には、ホテルの石畳のパティオを模した空間が広がっている。パティオの向こうには運河が設えられ、彼方には対岸のあるホテルの明かりが明滅している。まるで、野外劇場で観劇しているかの様な開放感ある美術を目の前にすることで、観る者の感覚も既に、海外へとショート・トリップしてしまうかのようだ。

物語は、ただ、ひたすらに旬の役者たちが疾走しまくる可笑しな光景が連綿と続いていく。この作品を通して、何を伝えたいとか、こういう人間の生き様を見て欲しいというような、創り手のエゴは一切排され、観客を楽しませることに徹したエンタテイメントとして爽快だ。

しかも、居並ぶ俳優陣の豪華さもまた一興だ。様々な出自だが、その誰もが今、舞台で活躍している実力派揃い。よくもここまでのキャスティングが組めたなと感じ入る。ひとえに、三谷幸喜の求心力の成せる技か。シスカンパニーのプロデュース力、故か。

中心に聳立するのは、年端のいった女優役も板についた大竹しのぶ。ほぼ出ずっぱりで、物語を中心から牽引していく。4人の求婚者からのアプローチに対するそれぞれに異なる対応に一喜一憂する姿を目くるめくように演じていく。特に後半、変装した大竹しのぶが、それぞれの映画監督から真意を穿り出す丁々発止のやり取りは爆笑ものだ。大竹しのぶがキャスティングされたからこそ、この物語が成立したのだと感じ入る。

段田安則が女優と昔馴染みのイタリア映画監督を飄々と演じていく。変に媚びることなく、女優に真摯に思いのたけを伝える様を、コミカルな風合いで生真面目に演じる様が可笑し味を醸し出す。

岡本健一が女ったらしのフランス人映画監督を、カリカチュアライズした表現も愉快に洒脱に演じていく。中川晃教はイギリス人のジェントルマンさを装いつつ、情愛にほだされない冷静な映画監督を造形する。時に、美声も披露し、観客を湧かせていく。スペイン人の映画監督を高橋克美が演じるが、このホテルに滞在しておらず、運河からやって来て運河に帰るという際物的な感じが、作品に可笑しい味を付与していく。情熱と冷静を混在させながら、楽しんで演じているのが、観る者にも心地良い。

八嶋智人が狂言回し的な役回りで、手綱裁きもよろしく居並ぶ猛者たちをいなしていく演劇は創りものなのだという、いい意味での器作りを八嶋智人は担い、弾けまくり心地良い。浅野和之が絶品だ。時速3メートルで歩く老爺が、何とも愛らしく、馬鹿馬鹿しくも面白いのだ。まさに、怪演である。

女優の父を演じる小野武彦のちゃらんぽらんな優しさ、木村佳乃のコケティッシュでちょっと天然な美人妹振りが、大竹しのぶを側面から支えていくことにより、それぞれの人物像にも、ひいては作品にもふくよかさを加味させていく。仕事と女であることのバランスの取り方が揺れ動く峯村リエ。段田安則演じる映画監督の秘書を演じる遠山俊也のぶれることのない師弟愛が作品に安定感を与え、業界人のミーハーな側面を表現するイギリス人プロデューサーを春海四方が軽妙に演じていく。

まるで、夏の夜に打ち上げられた大輪の花火のような賑々しい楽しさに満ちたコメディであった。三谷幸喜の夏の顔見世興行は、観る者に幸福感を与える娯楽作として傑出していた。

マームとジプシーの舞台には、独特の肌触りがある。物語を語っていくのではなく、人々の記憶にある出来事の断片を紡いでいく内に、自然と物語が立ち上っていく感じなのだ。登場する家族たちのシーンの断片が連綿と展開してくのだが、感情が途切れず繋がっていくため、観客が、舞台上で生きる家族に上手く感情を載せていき易いのだ。

時間軸もなかなか壮大だ。幼少期から成人後までの20年位なのであろうか、その時空間をスルスルと行き来しながら、家族たちが共有する思い出を全て取り込んでいくのだ。身体の奥底に沈殿していた幼い頃に体験した様々な感情が、知らず知らずの内に掘り起こされていく。抒情詩でありながら、叙事詩的な風合いを併せ持つ、その肌触りが実に身体に馴染み心地良い。

胸の中で湧き起こる、このノスタルジックな感情は一体何に起因するのかと思いを巡らせてみると、“喪失感”に行き当たった。父を亡くし、成長した皆が離れ離れになることで家族の形態を失くし、区画整理で家を失くすことにもなっていく。その象徴がタイトルにもある「食卓」だ。ステージ後方に吊り下げられたスクリーンは、舞台脇で調理されている料理を作る過程が度々映し出されていく。

地域の役所などから夕方流れてきていた「夕焼け小焼け」などの、かえりの合図。そのメロディーを聞いて帰宅すると、そこにあるのは家族皆で囲む食卓。その食卓があった頃と、喪失してしまった今の自分とのエア・ポケットの狭間に、心がストンと嵌っていく。

同じシーンが繰り返し何度もリフレインされていく。俳優陣がグルリと身体をでんぐり返しさせ変転させると、再び、その光景が立ち現れてくる。飽きるかと思えば、その都度、全く新鮮な気持ちで舞台に接することが出来るのだ。“記憶”なのであろう。心に残っている“あの時”のことが、まるで頭の中で逡巡しているかのような感じなのだ。沁みてくるのだ。ジワジワと心の隙間に、架空の記憶が忍び込んでくる。

木組みで造作された枠組みが、シーンごとにマジックのようにコロコロと変化していく様も、同劇団の醍醐味だ。巣舞台に立ち上がる、木組みで構築された世界が目くるめく現出する様にグイグイと意識が取り込まれていく。この物凄い数の段取りの連続を澱みなく展開させること自体が驚異だが、まるで万華鏡の如く瞬時に変化し繰り広げられる刺激的な演出に一時も目が離せない。

俳優陣は皆、生成りの衣装に身を包み、その役柄の個性を一見取り去っているかに見えるが、逆に、沸々と湧き上がる感情が、パースペクティブに見通すことが出来る効果を生み出している。男優陣に関してだけであるが、しゃがんだりした際に、その穿いているパンツからアンダーウエアが少し見えるのだが、皆が、濃紺のものを身に付けているようなのだ。そこまで、演出家は統制しているのかと、少々、驚きが隠せない。美意識の徹底振りの一端が、こういうところにも伺える。

演じ手たちがクリエイトする、役柄に対するアプローチも実に繊細だ。声高に台詞を謳い上げることなく、淡々とでありながらも、しっかりとした技術に裏打ちされた表現で、感情の襞が丁寧に紡がれていく。個が表出しないことが、普遍性を獲得することに繋がっていくのだ。そこに、観る者の共感性がシンクロしていく。成田亜佑美演じる長女が呟く「そっか、そっか」という言葉が頭にこびりついて離れない。全てを受容してくれているかのようなその温かさに心が絆されていく。

仰業さを一切廃した中に生まれる日常を描いて白眉である。藤田貴大の才気に身を委ねることの幸福が甘受できる傑出した逸品であると思う。

野田秀樹の「赤鬼」である。初演以来、数々のバージョンを観てきている。タイ人公演をバンコクにまで観に行ったことなどを思い出す。本作は、「赤鬼」というタイトルにも似て、野田秀樹作品の中において、“鬼っこ”というか、少々異色な位置付けにある作品だと感じてきた。

その逸品を、新鋭・中屋敷法仁が演出を担うという。どうやらオファーは、中屋敷法仁から野田秀樹に成されたらしい。今、この“鬼っこ”を世に問う意義を、何に、何処に求めていくのか? その興味は観る前から尽きることはない。

客入れの時点から、出演者が円形劇場のセンターに設えられたステージに幾たびか登場し、闊歩していく。知らず知らずの内に、観客の視線を舞台に注視させていく。俳優陣の俊敏な動きに、創り手の瑞々しさを感じ取っていく。幕は切って落とされた。

物語は堰を切ったように、観客席へと迸り出る。クルクルと転回するシーンを、中屋敷法仁は、しっかりと確実に刻印していく。様々な村人たちを演じ分けていく3人の俳優陣に台詞はないが、彼らが造り出す人物像が状況を雄弁に物語るため、そのシーンが何を示すのかは瞬時に明らかになる。その中に、3人の登場人物、あの女、とんび、水銀が、飛び込み、縦横無尽に動き回ることになる。

黒木華、柄本時生、玉置玲央ら俳優陣が、跳梁跋扈する様が活き活きと生命力を持って描かれていく。ストレートに発せられる意気軒昂さなオーラに、ついつい翻弄されていってしまう。その若いパッションが、本作の大きな魅力となっている。

異分子である赤鬼を演じるのは、小野寺修二。特別な装いを施すこともなく自然体なままで存在するため、当たり前だが見た目は日本人だ。3人の若者たちと、ルックス的には変わることがない。此処が、本作のポイントだ。よそ者とそうではない者との隔絶を、外側からではなく、共同体の内側から暴いて見せていく試みが成されていく。

小野寺修二演じる赤鬼は、日本語を解せるようでもあり、まるで分かっていないようにも見える。その曖昧さ。異分子ではあるのだが、明確にその相違が露見しない。“何となく違う”に、今の空気感を感じることになる。これが、2014年の「赤鬼」なのだ。

小野寺修二は、振付に於いてもその手腕を発揮する。役者をキビキビと、まるでダンサーのように動き回させる。そこに瞬発力ある勢いと、ある種のスタイルが生まれてくる。あくまでも破天荒に散逸していくのではなく、物語にある種の行動規範な様なものを載せていくところが、また、中屋敷法仁の特徴である気がする。

黒木華は、勘三郎と野田秀樹との共演作品も観ているが、格段に演技力と貫禄と華を身に付けてきているなと感じ入る。芯に立つ主役としての存在感が確実に増している。しかも、観る者の共感性を誘う柔らかさを併せ持っているところが魅惑的だ。

柄本時生は特異な演じ手だ。茫洋とした見た目を個性として活かしながら、飄々と役柄を凌駕していく様が心地良い。玉置玲央の、観客に真情をリーチさせる技もまた、作品の成果の一翼を担い目が離せない魅力に満ちている。作品のクオリティを左右するキャスティングは、見事に成功したと思う。

和をモチーフとした高木阿友子の衣装や、物語のうねりを表現した土岐研一の美術、さりげなく場面転換を魅せた松本大介の照明、日本を起点とするルーツを上手く掬い取る阿部海太郎の音楽も、新鮮な驚きを与えてくれた。

中屋敷法仁が意図した「赤鬼」の世界観は、確実に観客にリーチした。知力ある若さと、野田秀樹が描いた問題提起とが、見事にブレンドされ、現代の「赤鬼」が誕生したと思う。若手クリエイターの筆致による、こうした刺激的な作品が享受できることも、今後、大いに期待したいと思わせる見事な出来映えだと思う。

客席のセンター部分にまで迫り出したステージには、邸宅の居間の様な設えが凝らされている。舞台奥の上下幅一杯には、暖炉やピアノやダイニング・テーブルなど、過去を何かしら彷彿とさせられるような物が据え置かれている。

開演を前に、暖炉に火が灯る。そして、物語が動き出すと同時に、センターのステージに四方より壁が迫ってきて、瞬く間に背景の物たちは壁の向こうに姿を消すことになる。また、壁のエッジには白色に発光したネオンが仕込まれているため、舞台は、ぼんやりと光を放つラインに囲まれた能舞台の様な光景を呈することになる。この一連の流れが、あっという間に展開されるため、その展開のスピーディーさとモダンな格好良さとが相まって、まずは冒頭より度肝を抜かれることになる。

グッと舞台に観客の意識を注視させる演出に舌を巻きながらも、日生劇場という大箱で展開される3人芝居という命題が、まずはクリアされていく光景を目の当たりにすることになる。後は、ただただ、実力派俳優たちの演技に翻弄されればよいというお膳立てが仕立て上げられた。

ハロルド・ピンターが描く世界は、此岸と彼岸との境界線を彷徨いながら、幽玄さを湛えたオリジナリティある世界を構築していく。このある種の難攻不落さが、なかなか手強い強靭さを誇り、取り組む演出家や俳優陣のキャパシティが問われる戯曲であると思う。デヴィット・ルヴォーが日本で上演する演目に、この戯曲を選んだ理由が透けて見えてくる。ステージを能舞台の様に設定したことからも、その事由の一端が垣間見れる気がする。デヴィット・ルヴォーは、日本の観客のイマジネーションを信じてくれているのではないだろうか。

ある夫婦のもとに、昔、妻と同居していた女性が久し振りに訪ねてくるというシンプルな物語である。しかし、そこで語られる過去の出来事の曖昧さが露見し、虚実が入り混じる記憶も錯綜していく。語られるどのエピソードが真実なのかが定かではなくなっていき、事実であることの意味性が消滅し、自分が覚えていることこそ真実なのだと突き付けられる瞬間と対峙することになる。

しかし、物語が展開していくに従い、3人は、本当にそこに存在しているのか、もしかしたら観念の中の創造物なのかもしれないという、虚実の境目が定かではなくなっていく。散逸する重なる次元を分け隔てる薄い皮膜を観念が行き来する。その謎めいた展開に脳髄が刺激されていく。

夫婦を堀部圭亮と若村真由美が、妻の友人を麻美れいが演じていく。所有権に拘る男のエゴと浅薄さを堀部圭亮が軽妙に造形し、夫と友人との間で翻弄されるに従い本性を沁み出させる妻の心の表裏を若村真由美がスリリングに抉り出す。麻美れいは、ソフトさと強烈な自我とを緩急自在に駆使しながら、物語の奥底に潜む真実を垣間見させる強靭な導き手として存在し圧巻だ。

丁寧に紡がれていく上質な室内劇であることに間違いはないのだが、いかんせん、日生劇場という大箱でこの戯曲を上演するのには、少々無理があったのではないかとも思う。かつてのベニサン・ピットであれば、濃密で密やかな幽玄の世界が自然と立ち現れてきたに相違ない。1000人に向けてハロルド・ピンターの3人芝居を観客に届けるには、もう一つ、何か大きな仕掛けやスペクタクルを施さなければならなかったのではないだろうか。

デヴィット・ルヴォーの手により、ハロルド・ピンターの傑出した戯曲が上演された機会を幸福に思う。ベニサン・ピットとは言わないが、せめてPARCO劇場ぐらいのキャパの劇場で見直してみたいなとも思う逸品であった。

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