2006年 4月

2人芝居である。市村正親に藤原竜也。押しも押されぬ大ベテランに、若手のホープ。そんな実生活そのままに、新旧の俳優同士が俳優を演じ、お互いの感情を交わし合い化かし合う本作は、思った程リアルな情感を迸らせることなく、緩急自在の台詞術、押し引きの駆け引きを楽しむエンタテイメントとして、観客を楽しませることに徹していた。

ぶつ切りの断片をかき集めたコラージュのような構成を持つこのディヴィッド・マメット作品は、役者の感情が決して途切れることなく、どう偽りなく気持ちの連鎖に繋げていくことが出来るかが俳優の力量の見せどころだと思うのだが、2人の俳優は、難なくそれをクリアしていたと思う。老練漫才師のボケとツッコミのような丁々発止が、見ていて心地良くすらある。

多分演出の意図はこの戯曲を一片の美しい詩と捉え、その美しさを謳い上げ聞かせることに注力しており、また、その台詞の裏に隠された真意を炙り出していくという構造に作品の深みを見出しているように思えた。しかし、そこには、視覚化されたときにナマの俳優がナマの感情を吐露していくリアルさからは程遠く、アタマの中で作り上げられたプラン通りに舞台を交通整理し、その進行を促すよう、ただただ見守っているだけなのではないかと思ってしまう。

それは、舞台転換にも言えると思う。舞台は、ステージ上にも楽屋にもなり、クルクルと場面は転換する。そして、そのシーンの転換ごとに、アルミの引き戸幕のようなものがいちいち出てくるのだが、これが見ていてうっとうしくてならない。意味は分かる。楽屋のシーンであれば、その楽屋の部屋のセットの上下をその引き戸が覆うのだが、これは、壁なのですよね。また、楽屋が続くシーンでは、その楽屋の部屋の前を、引き戸が覆うのだが、網目なので奥で着替える藤原竜也などは見えており、仕度が整うと幕は横に引かれていくのだ。どういう意味かは分かる。しかし、ちょこちょことこれをやられると、見ている方の集中力が途切れてしまうのだ。いや、集中力を途切れさせるということに意図があるというのならそれも良しとしたいが、そういう意味は全くなさそうである。先日観たPARCO歌舞伎のブレヒト幕の効用とは雲泥の差である。また、動く度に、引き戸の音がするのがとても気になり、かつて、20年位前になるのだが、PARCO劇場で観たニール・サイモンの「ビロクシー・ブルース」の装置、兵舎の二段ベッドが出たり引っ込んだりする度に、ギーギーと不快な音を放ってビックリして以来の、印象を持ってしまった。

舞台奥には、観客の入った様子の客席のシートが掛かっているのだが、そのシートに折り目なのか何だか分からないが、白い線がはっきりと浮かんでいるのだ。誰もが、そこに本当にもうひとつの客席があるなどとは決して思う訳はないのだが、それにしても、いくら嘘だとはいえ、これは無いでしょう。

役者2人が良いだけに、それに集中させて観せて欲しい。また、良いだけに、演出が俳優の力量に頼り過ぎているきらいもある。アタマで描いた演出プランなどは、現場を見て、悪ければ、改めるべきであると思う。そういった決断とか、指導とかが、どこまでコントロールできていたのだろうか?

演出と装置を換えて見直してみたい。そして、この夢の競演が、更に輝くことを期待したい。

ラストシーン、少年ルーシアスがエアロンと王女タモーラとの間に生まれた肌の黒い不義の子を抱え慟哭するシーンに涙した。バッタバッタと次々に登場人物が死す中、この幼な子の嘆きは果てしなく深いが、暴力の連鎖を断ち切る、未来へとつながる希望をそこに見出していく。イコンのように焼き付けられたこのラストは、シェイクスピア作品の中でも、一番残忍な作品と評される本作に、現代の情勢を重ね合わせるがごとく、その殺戮の真意を剥き出して暴いてみせる。

再演を重ね、更に緻密にパワーアップされた本作は、観る者の心を抉る傑作として再び甦った。基本的な演出プランは前回と同じだが、役柄に対するアプローチが更に細かく、流麗な台詞を朗々と謳い上げながらも、業とか欲とか悲しみとか、人間の本能に近い感情をも同時に存在させる術を持ち得ている。故に、将軍であっても、王であっても、ひとりの人間なのであり、そんな何かにもがきながら生きる市井の人々のひとりとして存在するため、台詞の応酬は、人の奥深い部分にまで到達出来るのだ。

2人の役者が入れ替わることで、作品が、更に輝きを増した。小栗旬は、近寄ると殺気で切れるナイフのような研ぎ澄まされた狡猾さで、より鋭利な感覚を付加し、壌晴彦の包容力は、殺戮をも受容し、物語を見守る語り部のように優しく物語を包み込んでいく。

吉田鋼太郎は、父として子を思いながら誉れ高い将軍の哀れと復讐の業火の心を演じ分け、麻美れいは、母であることをしっかりと軸に据え、女王という立場の優遇にもひれ伏さない復讐の刃を終始一貫持ち続け決してぶれることがない。真中瞳の可憐さは依然変わらぬが、生き延び加害者を告発していく過程に強烈な意志が加わった。物語の第一声は、鶴見辰吾で始まるが、育ちのよい表向きとは裏腹の、空虚な内面を埋める嫉妬心に人間臭さを垣間見る。誰もが、父であり母であり子であるという、普遍的な事実を拠りどころにしているため、観る者の心の何処かが共鳴してしまう。何か故あって、殺戮を繰り返すのである。子をかばい、親を思う、その気持ち。そこが抽出されているので、心打つ作品に生り得たのだと思う。

真っ白な舞台が効果的だ。また、流す血は、くもの巣のような赤い糸で表現されこの上なく美しいが、この白と赤の強烈なコントラストの提示が、この物語をリアルに見られることから遊離し、一種寓話化された伝承の顛末でも見るかのように、メッセージのエッセンスを浮き彫りにする効果を奏している。

グレート義太夫演じる道化の衣装は半纏に下駄である。また、ディミートリスとバシエイナスが本性を隠してタイタスを訪ねる際の有り様は、文楽の人形のような出で立ちにも見える。可笑しく東洋をアクセントとして配置する目利きも、この強固な美学に彩られた作品世界をひとつの方向に終焉させないほころびにように思え、その異要素が、また作品をよりふくよかにしていくのだ。

ローマ建立の起源であるカピトリーノの雌狼が、暴力の起源は国家建立にありとでも言いたげに象徴的に舞台上に終始鎮座し、ことの行く末を見続けていた。ローマの時代から、現代へと放射されるこのメッセージは辛く痛いが、思い当たる節が多いこの今の世の中を自覚し、しかと受け止めることとなった。

シェイクスピアのテキストは、蜷川幸雄の手を経て、この現代に見事に息吹を甦らせた。紛れも無い傑作が誕生したと思う。

ピナ・バウシュのダンスを、今回、初めて生で見ることが出来た。しなやかで強靭なその存在感に圧倒されてしまった。ひとつひとつの動きが、ヒリヒリとした心の叫びを代弁して余りあり、溢れ出る感情がとめどなく流れ出して、観客の心を鷲づかみしていく。手や肩や頭や足の細胞それ自体がそれぞれ有機的に作用し合っているため、技術を駆使して踊る他のダンサーたちとは、在り方そのものが違うようなのだ。

今回の演目は、1970年代というピナがまだ若い時期に作られたということもあるのか、ストレートにナマの感情が放出されている。また、その感情は直情的で、ことごとく相手と対峙していく。近年、世界各国で共同制作して作られた作品にある寛容さや、ユーモラスな雰囲気を醸し出す台詞などはそこには無く、相手を理解し受容するに至るまでの、辛い棘の道のりを描いているとも言える。ヨーロッパ知識人の、底知れぬ深い孤独感と悲しみが沈殿している。

「カフェ・ミラー」に登場する人々は、誰もが何かに取り憑かれているのか、盲目的に自分の世界に閉じこもっているように見える。ピナ演じる少女は、まさに盲目、のようである。また、幾度も幾度も同じ動きを繰り返すのは、「過去と現在と未来のこどもたちのために」にもあるように、まるで子供の遊戯である。幼時体験のトラウマから抜け出せないとは心理学的なアプローチだが、現在の自分を形成している要因を探るため心の奥底を切り裂いてみれば、昔の自分に辿り着くというのは至極当然な帰着点とも言える。

しかし、何かに囚われ、抜け出せない人々を見るのは、なかなか辛いことである。日本列島改造論などをぶち上げている時期に、ドイツではこんなものが作られていようとは。一旦ドーンと底辺にまで落ち込み、その地点から這い上がってくるまでの凄まじく痛々しい悲痛な道程に、何としても生きていくのだという強い意志と使命を感じていく。そして、新たな希望を抱いて、心のリスタートを、いつでも切っていくのだ。

「春の祭典」は、舞台上に湿った土が敷かれた上で展開される。土を蹴り上げ、倒れ、身体を汚し、跳躍する。伝承民話にあるように、春を感謝するため、神に差し出されるサクリファイス=犠牲者を選ばなければならないというのが大まかな流れ。男女各20人近いダンサーの群舞は圧巻である。ここでも対立が起こる。男性対女性。犠牲を強いる男の横暴さは、神話の時代から現代にまでワープして、権力の愚かさを露わにしてくる。1枚の赤い布を持った者が犠牲者となるため、女たちは、赤い布を次々と別の女へと手渡していく。そしてひとりの女が選ばれる。その恐怖と疎外感。その感情を、ソロのダンスで一気に表現していく。

人間は個々それぞれが別個の生き物。対立し、そして、和解し、理解しようとするがまだ分からず、また不毛な争いを起こしながらも、自分の中に、相手のことを沁み込ませていく。そんな、繰り返し。人が生きていくということの、在り方そのものを、この2作は提示していた。そして、それは決して受身であってはならないのだ。呪縛から解き放たれることで、真の自由を得ることが出来るのだから。

相変わらずカーテンコールは温かな拍手で満たされる。ピナの凛とした佇まいは、舞台をはけた後でも、舞台上で呼吸し続けているような錯覚を覚えてしまった。

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