2人芝居である。市村正親に藤原竜也。押しも押されぬ大ベテランに、若手のホープ。そんな実生活そのままに、新旧の俳優同士が俳優を演じ、お互いの感情を交わし合い化かし合う本作は、思った程リアルな情感を迸らせることなく、緩急自在の台詞術、押し引きの駆け引きを楽しむエンタテイメントとして、観客を楽しませることに徹していた。
ぶつ切りの断片をかき集めたコラージュのような構成を持つこのディヴィッド・マメット作品は、役者の感情が決して途切れることなく、どう偽りなく気持ちの連鎖に繋げていくことが出来るかが俳優の力量の見せどころだと思うのだが、2人の俳優は、難なくそれをクリアしていたと思う。老練漫才師のボケとツッコミのような丁々発止が、見ていて心地良くすらある。
多分演出の意図はこの戯曲を一片の美しい詩と捉え、その美しさを謳い上げ聞かせることに注力しており、また、その台詞の裏に隠された真意を炙り出していくという構造に作品の深みを見出しているように思えた。しかし、そこには、視覚化されたときにナマの俳優がナマの感情を吐露していくリアルさからは程遠く、アタマの中で作り上げられたプラン通りに舞台を交通整理し、その進行を促すよう、ただただ見守っているだけなのではないかと思ってしまう。
それは、舞台転換にも言えると思う。舞台は、ステージ上にも楽屋にもなり、クルクルと場面は転換する。そして、そのシーンの転換ごとに、アルミの引き戸幕のようなものがいちいち出てくるのだが、これが見ていてうっとうしくてならない。意味は分かる。楽屋のシーンであれば、その楽屋の部屋のセットの上下をその引き戸が覆うのだが、これは、壁なのですよね。また、楽屋が続くシーンでは、その楽屋の部屋の前を、引き戸が覆うのだが、網目なので奥で着替える藤原竜也などは見えており、仕度が整うと幕は横に引かれていくのだ。どういう意味かは分かる。しかし、ちょこちょことこれをやられると、見ている方の集中力が途切れてしまうのだ。いや、集中力を途切れさせるということに意図があるというのならそれも良しとしたいが、そういう意味は全くなさそうである。先日観たPARCO歌舞伎のブレヒト幕の効用とは雲泥の差である。また、動く度に、引き戸の音がするのがとても気になり、かつて、20年位前になるのだが、PARCO劇場で観たニール・サイモンの「ビロクシー・ブルース」の装置、兵舎の二段ベッドが出たり引っ込んだりする度に、ギーギーと不快な音を放ってビックリして以来の、印象を持ってしまった。
舞台奥には、観客の入った様子の客席のシートが掛かっているのだが、そのシートに折り目なのか何だか分からないが、白い線がはっきりと浮かんでいるのだ。誰もが、そこに本当にもうひとつの客席があるなどとは決して思う訳はないのだが、それにしても、いくら嘘だとはいえ、これは無いでしょう。
役者2人が良いだけに、それに集中させて観せて欲しい。また、良いだけに、演出が俳優の力量に頼り過ぎているきらいもある。アタマで描いた演出プランなどは、現場を見て、悪ければ、改めるべきであると思う。そういった決断とか、指導とかが、どこまでコントロールできていたのだろうか?
演出と装置を換えて見直してみたい。そして、この夢の競演が、更に輝くことを期待したい。
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