客席最前列は桟敷席となっていて、開演直前にお客さんが誘導され着席する。そのお客さんに出演俳優も混じって入場し、黒幕の前に列を作り並び始める。ちょっと小競り合いをしたりする中、横田栄司演じるキーとなる男が背中にキーボードケースらしきものを背負いながら会場に入ってくる。そのケースが大きいものだから、動く度に、お辞儀する度に、周りの人をケースで叩いてしまうことになる。そして、下りた黒幕がスポンサーなしの劇場自前であることを称え遮る幕を開けろと叫び幕が振り落とされると、その向こうには30人余りの蛇行した行列が出来ている。その後、男は列に並ぶ人々を嘲笑しながらアジテーションしていく。
この辺までは「真情あふるる軽薄さ」、そのままである。キーボードケースを使ったやりとりなどの演出も、2001年上演版と同様だ。列に並ぶ若者たちのいざこざが続く中、突如、ステージ上下の扉が開け放たれ、霧煙と共にさいたまゴールド・シアターの面々がスローモーションで会場内に入ってくる。60歳以上の御仁が40人余り。生き生きと、そして、溌剌とゆっくりと歩んでいる姿そのものに、ただただ感動してしまった。
ベニサンピットでの初演の記憶はかなり薄れてはいるが、かつてこの物語を演じていた一群が帰ってくるという設定に、この60歳を超えたさいたまゴールド・シアターの方々は、物凄い説得力があった。それぞれの方が積み重ねてきた様々な人生がストレートに伝わってくるからだ。当たり前だが若者には絶対出せない真実が見てとれるのだ。20年近く前に書かれたこの戯曲は、この時を待って上演される運命であったかのように、この人々を得て見事に再生した。
皆、二重に円陣を組んで集まり、そして、男の言葉によって、架空の荷物を担いで歩くことになる。「○○kg!」という言葉により、荷はグッと重みを増し、その重みに耐えながらゆっくりと歩んでいく。時に、若者たちの一群も混じり合いながら、このゲームのようなやりとりは続けられていく。また、若者たちが銃を乱射する真似をして老人たちをなぎ倒す。これは、ごっこ、なのだが、老人たちは伏せったまま起き上がってはこない。心配になった若者たちが近寄っていくと、静かにフツフツとどこからか微かに声が洩れてくる。そしてその声は少しずつ大きくなり笑いとなって爆発する。「真情あふるる軽薄さ」や「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」にも同様のシーンがあったが、虚構と現実の壁を取り払い嘲笑うかのような印象的なシーンである。
「95kgと97kgのあいだ」とタイトルにあるように、この2kgの重みを的確に表現しなければならないのだと、男は執拗に説いていく。このあいだに一体何があるのであろうか。想像力、人生体験、それとも思い続けることが出来る強い心? かつて行動を同じくした者同士が、お互いに現在のポジショニングを確認し合うかのようなゲーム。清水邦夫と蜷川幸雄が、自分たちの今を見つめるための確認作業、という側面を内包している気がしてならない。
さいたまゴールド・シアターの方々が、最後にそれぞれ思いのたけをひとりずつ叫ぶシーンが胸を打つ。人生の中のほんの一部分の吐露なのだが、時間がパースペクティブに一気に透けて見えてくる。走馬灯は回転するが、こちらは時空が大きく振れながら行き来する感じなのだ。
最後は、人間たちが「何か」の脅威にさらされることになる。ポワンとした塊が弾けると、中に潜んでいたのは圧倒的な猛威。戦争とも、環境汚染とも、ウィルスの増殖とも解釈は様々であろうが、その圧倒的な攻撃を前にして、老人と若者がお互いを支え合いながら去っていくシーンは、これからの世界を暗示させ、衝撃的である。寓話をリアルに置き換え、且つ社会性を持って描かれた本作は、稀有な面白さに満ちていた。
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