初演当時の評判は聞いてはいたのだが、この井上ひさしの遺作は、やはりズシリと胸にくる傑作であった。
29歳4ヵ月という小林多喜二の生涯の最期の2年9ヵ月を音楽劇として仕立て上げた本作は、人間が尊厳をもって生きるということについて真摯に向き合い、人間が普通に生きる権利を奪取するために、後に続く者たちを信じその生涯を生き抜いた氏の姿をまざまざと提示していく。また、心の奥底にある真情を音楽で歌い上げることで、台詞だけでは言い尽くせない熱い想いもグッと浮かび上がらせていく。多喜二が社会のために生きる信条と、心に抱く心情とが相互に照射し合い、多喜二という人物像を多面的に照らし出す。
若くして死した井上ひさしの父は、農地解放運動を行い、演劇を通じて啓蒙活動をしていたという。井上ひさしの中に潜む父のDNAが見事開花したとも言える本作は、氏の最期の作品として産まれるべくして産まれたのだとも感じ入る。
多喜二は伯父が経営する小樽のパン屋に住み込み働きながら学校へと通っていたが、その頃のシーンなども冒頭に織り込まれながら、幼き時より多喜二が感じていた社会に対する矛盾を突き付けていく。「貧しい人にも買えるように安い“代用パン”を販売しているのに、何故それが売れないのか。貧しい人に回るはずのお金が回っていないのではないのか」と。2009年の初演時よりも、このシンプルなメッセージは、今の私たちにより強く響いてくるのではないだろうか。ある意味、井上ひさしは社会の行く先を予見し、見抜いていたとも言える。
学校卒業後、拓銀で多喜二は働くことになるが、搾取される労働者の立場で小説を書き発表することで銀行を解雇される。そして、大阪へと渡った多喜二は逮捕され特高刑事に尋問を受けることになる。物語はそこからの2年9ヵ月間が綴られていくことになる。
執筆活動をしながら党活動も行う多喜二の身辺は常に慌しく、身を潜めながらも信念を曲げることなく生き続ける姿に心揺さぶられる。井上芳雄が多喜二を演じるが、繊細な気持ちを滲ませながら朗々と謳う様子は観る者の心と共振する。また、井上芳雄のピュアな資質が多喜二の一本木な真っ直ぐさともリンクして、信念に殉じる純真な青年を造形し見事である。
多喜二は、神野三鈴演じる伊藤ふじ子と居を転々と移りながら共に暮らしているが、その隠遁する場に、高畑淳子演じる姉・佐藤チマと、石原さとみ演じる許婚である田口瀧子が度々来訪することになる。神野三鈴はしっかりと多喜二を支える芯の強さを示し、高畑淳子は深刻な状況の中においても弟を一心に思う姉の無償の愛を軽やかに演じていく。石原さとみは、叶わぬ多喜二への思いを宙ぶらりんにさせながらも、多喜二への愛を少女のそれから大人の女へと変遷させていく女っ振りに観客の心が絆されていく。
特高刑事を山本龍二と山崎一が演じるが、多喜二を追い、締め付けるという側面だけではなく、ある意味、多喜二の影響を受け、その後の人生を変転させていくというサイドストーリーが面白い。二人はそんな多義性を孕んだ役どころを嬉々として演じているように見える。コメディリリーフ的な役割を担うことにもなるが、地位にしがみ付くことなく、自らを自由に解放し生きていく様は、殻に覆われて生きている私たちに向けて、井上ひさしが放つ熱いメッセージの様な気がしてならない。
終盤、登場人物たちが円陣となり揉み合いながら笑顔で押し競饅頭をする光景が美しいことこの上ない。既に多喜二が死すことは、観客はあらかじめ知っている訳であるが、立場は違えど、皆が一緒に身体を重ね合わせる姿に、人間は本来同じ生き物であり敵も味方もないのだということを、一瞬にして表現し尽くす。
映像も所々に駆使しながらも、声高にアジテートさせるような外連からは離れ、多喜二と真摯に立ち向かう栗山演出のストイックさが、世の憂いを浮かび上がらせる。小曽根真の音楽も素晴らしい。その人物の気持ちとピッタリと寄り添い、俳優陣の思いや資質をも受け入れながら、ジャージーだが実に叙情的なメロディを紡ぎ上げ、作品に美しい透明感を与えることで、物語に普遍性を獲得させていく。
井上ひさしの遺作にして傑作を、一流の布陣が創り上げた後世に残る秀作であると思う。最後の曲である「胸の映写機」の“カタカタカタ”という言葉が、今でも耳に残って離れない。自分の中にも多喜二はいるのだと、つい信じてみたくなってしまう。
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