2012年 12月

初演当時の評判は聞いてはいたのだが、この井上ひさしの遺作は、やはりズシリと胸にくる傑作であった。

29歳4ヵ月という小林多喜二の生涯の最期の2年9ヵ月を音楽劇として仕立て上げた本作は、人間が尊厳をもって生きるということについて真摯に向き合い、人間が普通に生きる権利を奪取するために、後に続く者たちを信じその生涯を生き抜いた氏の姿をまざまざと提示していく。また、心の奥底にある真情を音楽で歌い上げることで、台詞だけでは言い尽くせない熱い想いもグッと浮かび上がらせていく。多喜二が社会のために生きる信条と、心に抱く心情とが相互に照射し合い、多喜二という人物像を多面的に照らし出す。

若くして死した井上ひさしの父は、農地解放運動を行い、演劇を通じて啓蒙活動をしていたという。井上ひさしの中に潜む父のDNAが見事開花したとも言える本作は、氏の最期の作品として産まれるべくして産まれたのだとも感じ入る。

多喜二は伯父が経営する小樽のパン屋に住み込み働きながら学校へと通っていたが、その頃のシーンなども冒頭に織り込まれながら、幼き時より多喜二が感じていた社会に対する矛盾を突き付けていく。「貧しい人にも買えるように安い“代用パン”を販売しているのに、何故それが売れないのか。貧しい人に回るはずのお金が回っていないのではないのか」と。2009年の初演時よりも、このシンプルなメッセージは、今の私たちにより強く響いてくるのではないだろうか。ある意味、井上ひさしは社会の行く先を予見し、見抜いていたとも言える。

学校卒業後、拓銀で多喜二は働くことになるが、搾取される労働者の立場で小説を書き発表することで銀行を解雇される。そして、大阪へと渡った多喜二は逮捕され特高刑事に尋問を受けることになる。物語はそこからの2年9ヵ月間が綴られていくことになる。

執筆活動をしながら党活動も行う多喜二の身辺は常に慌しく、身を潜めながらも信念を曲げることなく生き続ける姿に心揺さぶられる。井上芳雄が多喜二を演じるが、繊細な気持ちを滲ませながら朗々と謳う様子は観る者の心と共振する。また、井上芳雄のピュアな資質が多喜二の一本木な真っ直ぐさともリンクして、信念に殉じる純真な青年を造形し見事である。

多喜二は、神野三鈴演じる伊藤ふじ子と居を転々と移りながら共に暮らしているが、その隠遁する場に、高畑淳子演じる姉・佐藤チマと、石原さとみ演じる許婚である田口瀧子が度々来訪することになる。神野三鈴はしっかりと多喜二を支える芯の強さを示し、高畑淳子は深刻な状況の中においても弟を一心に思う姉の無償の愛を軽やかに演じていく。石原さとみは、叶わぬ多喜二への思いを宙ぶらりんにさせながらも、多喜二への愛を少女のそれから大人の女へと変遷させていく女っ振りに観客の心が絆されていく。

特高刑事を山本龍二と山崎一が演じるが、多喜二を追い、締め付けるという側面だけではなく、ある意味、多喜二の影響を受け、その後の人生を変転させていくというサイドストーリーが面白い。二人はそんな多義性を孕んだ役どころを嬉々として演じているように見える。コメディリリーフ的な役割を担うことにもなるが、地位にしがみ付くことなく、自らを自由に解放し生きていく様は、殻に覆われて生きている私たちに向けて、井上ひさしが放つ熱いメッセージの様な気がしてならない。

終盤、登場人物たちが円陣となり揉み合いながら笑顔で押し競饅頭をする光景が美しいことこの上ない。既に多喜二が死すことは、観客はあらかじめ知っている訳であるが、立場は違えど、皆が一緒に身体を重ね合わせる姿に、人間は本来同じ生き物であり敵も味方もないのだということを、一瞬にして表現し尽くす。

映像も所々に駆使しながらも、声高にアジテートさせるような外連からは離れ、多喜二と真摯に立ち向かう栗山演出のストイックさが、世の憂いを浮かび上がらせる。小曽根真の音楽も素晴らしい。その人物の気持ちとピッタリと寄り添い、俳優陣の思いや資質をも受け入れながら、ジャージーだが実に叙情的なメロディを紡ぎ上げ、作品に美しい透明感を与えることで、物語に普遍性を獲得させていく。

井上ひさしの遺作にして傑作を、一流の布陣が創り上げた後世に残る秀作であると思う。最後の曲である「胸の映写機」の“カタカタカタ”という言葉が、今でも耳に残って離れない。自分の中にも多喜二はいるのだと、つい信じてみたくなってしまう。

吹越満は、実にスリリングでエッジの効いた数々の手法を駆使しながら、まるでモダンアートのエキシビションのような、刺激に溢れ、知的興奮を掻き立てる作品を創り上げた。

物語を生身の俳優が演じ表現するという概念において、本作は演劇というジャンルに括られるのかもしれない。しかし、時間軸がことごとく入れ替わり、また、今ここで起こっている現実と過去、そして、幻想を常にシャッフルし続けることで、物語自体が虚構の世界の出来事なのかもしれないという錯覚を観客に引き起こさせていく創りにおいて、演劇の範疇を軽々と逸脱しているとも言える。

しかし、演劇というライブの特質を活かし、人間の感情を全面に押し出していくため、決してクールなテイストに陥ることはない。どのようにシーンを構成していくのかという“意図”を感じさせない技を繰り出していくのだ。シークエンス同士の繋がりが自然に融合したり、言葉と言葉のつなぎ目が登場人物たちのヒリヒリとした思いで紡がれたりしていくため、観客は、その都度、登場人物たちの想いに深く共鳴することになる仕掛けだ。

殺人容疑で<ポリグラフ=嘘発見器>で取り調べられた過去のあるゲイの男を森山開次が演じ、その隣人で女優でもある女を太田緑ロランスが演じる。吹越満は自殺現場を目撃してしまったその女を自宅に連れ帰ることで、彼女と付き合い始めることになる犯罪学者を演じるが、後に、かつて男を取り調べたのがこの学者であることが露見していく。

学者は男に、容疑者リストからは外れた旨を彼に伝えていなかったため、男は未だ容疑者というレッテルのトラウマを抱えており、その歪みが物語に染み出していく。もしかしたら、自分は殺人者なのかもしれないという男の思いが其処此処に散逸し、一種の幻想にも似た奇妙でいびつな感情をステージに放り込んでいく。また、学者はかつて妻子を置き、ベルリンの壁を越えてカナダへ亡命してきたという過去を持っている。女優は、その過去の殺人事件をモチーフにした映画に出演しており、未解決の猟奇事件の被害者を演じることに、沸々と生理的に受け入れられない感覚を身に纏い始めている。

皆はまるで、見えない透明の壁の中に感情を閉じ込められた、囚われ人のような孤独を背負って生きているのだ。その膜を決して超えることの出来ない思い、繋がることなく逡巡する心の叫びが、痛い程観る者に叩き付けられてくる。

全裸の女に被さる人体解剖図のような映像、書庫がベルリンの壁へと転じる映像、猟奇事件を再現したシーンとその場を映像として壁に投影するなど、映像と、生身の役者と、語られる台詞とがリンクしながら、趣向を凝らした方法で物語を繰り広げていく様は、これまでに観た何物にも似ていないアーティスティックなオリジナリティーを獲得している。

森山開次はダンサーであるその資質を大いに活かし、立ち回るその連続した動き自体が華麗なのだが、不安定な椅子に乗りながらマゾとしてエアーの鞭打たれるシーンなどの動きには思わず感嘆せざるを得ない。凄い。

フラッシュが瞬いているので詳細は勿論はっきりと視認出来ないのだが、3人が全裸で、ちょこまかと日常のやりとりをマイムで演じるシーンも印象的だ。美しく儚い。そして、何よりも、人間の営みって、まるで、チャップリンの映画のように、可笑しくて、また、滑稽なものなのだということが心に染み入るように訴えかけてくる。

オープニングでは、吹越満が諸注意を話した後、「では、始めます」と言って場を一変させたが、最後も「終わりです」と言って終幕するそのセンスも抜群に格好イイ。演劇は所詮作りものであるということを踏まえ、頑張ったことを、カーテンコールで見せないクールさが、より、作品の真髄を作品の中に封じ込めることに貢献している。

人の存在の曖昧さ、心に内省する想いの不確かさ、知らず知らずの内に見えない壁に覆われている現実、しかし、それを超えようともがいている日常、そして、その滑稽さなど、事象と感情が綯い交ぜになって混沌とした“現実”を、クレバーにアートに描いて秀逸である。

日本人、イスラエル国籍のユダヤ系、アラブ系の俳優たちが同じステージに立ち、戦いの犠牲となった女たちを描くギリシア悲劇「トロイアの女たち」を演じるというこの企画そのものがテーマであり、今、演じられるべき意味を観る者に叩き付けてくる。

2012年11月14日、イスラエル軍がガザに空爆を行い紛争が激化するという事態となった。1週間後に合意に至ることになるのだが、まさにリアルタイムに起こった出来事と本作とが二重映しとなる様な“現実”を乗り越え、上演にまで漕ぎ着けたのだという軌跡を思うと、心に込み上げてくる熱い感情を封じ込めることは出来ない。

現実とシンクロしてしまった本作の上演は、奇しくも当初目論んでいた意図を凌駕してしまったのではないだろうか。ライブ・メディアである演劇の特質を、グッと浮かび上がらせることにもなった。

本作では、コロスが各国の言語で台詞を語るという手法を取るが、こういう演出は初めて観た。日本語、ヘブライ語、アラビア語の順で言葉は放たれ、俳優が内包する感情をそれぞれの在り方で表現していくのだ。女たちの慟哭が多面性を持って表現されていくため、各国の女たちが抱えた思いが舞台上でクロスし、哀しみが増幅していく。

コロス以外は、自国語で台詞が語られるため字幕が入るのだが、混在する言語をそのまま提出することこそが、今の世界をそのまま体現することに繋がっていく。

物語の中軸に立つトロイアの王妃ヘカベを演じる白石加代子が圧巻だ。女たちの哀しみを一身に受け止め、襲い来る悲劇を怒りと熱いパッションとで跳ね返すパワーを全開させる。また、腰を落とし滔々と詠唱する様式性ある表現が、神を仰ぎ天空へと放つ思いにスケール感を付与させていく。想いを伝える技術が秀でているため、感情だけに流されることなく、物語の枠組みをもクッキリと透かし見せていく。

アンドロマケを演じるラウダ・スリマンが圧倒的な存在感を示す。幼い息子を引き離される母の哀しみを気品を持って演じきる。カッサンドラを演じるオーラ・シュウール・セレクターは達観した視点を保ちつつ、決して市井の人々と相まみれることのないアプローチで予言者の悲哀を滲み出させる。

タルテュビオスを演じるマフムード・アブ・ジャズイは強健な中にも慈愛を沁み込ませ、この男の人間的な側面をフューチャーしていく。メネラオスを演じるモティ・カッツは男の弱い部分を抉り出すが、哀しみに陥ることなく軽快さを保ちつつ壮健な存在感を示していく。

和央ようかの演じるヘレネは、戦争の原因ともなった稀代の悪女ともいえる役どころだが、自分を否定することのない堂々とした佇まいに説得力を欠く気がした。スリムな体躯は男を翻弄する魅力に満ち満ちてはいるのだが、男を手玉に取る女の妖気さがもっと欲しいと感じた。

物語後半で、「地震が街を崩壊させた」との台詞のドキッとした。トロイアはギリシア軍が放った業火で焼き尽くされることになるのだが、そこに蜷川演出は、津波の音を被せてくる。紀元前の悲劇の物語と現代の悲劇とがぴたりとリンクする。

カーテンコール。国を違える俳優陣が、同じステージで観客に向かい挨拶をする現実の光景が、物語世界を上回る感動を与えてくれた。この人々が共同で一つの作品を創り上げ、共に同じステージに立っているという、ある種の奇跡に涙してしまう自分がいた。演劇を通じて、愛を持って信じ合うことの大切さと深さ、そして、戦争が及ぼす過大な惨禍に思いを馳せ、どう生きるべきなのかという印籠を手渡された気がした。現代を映し出す、独自の緊迫感溢れる秀逸で稀有な逸品であった。

ケラリーノ・サンドロヴィッチの新作戯曲を、ケラ本人と、蜷川幸雄が演出を執る話題の競作である。以前、野田秀樹と同様な公演を行った蜷川ではあるが、演劇界を牽引する御仁が、こういう賑々しい企画に果敢に取り組むのは、何とも楽しく嬉しい事だと思う。

本戯曲は、ケラが役者に宛書せずに書かれたものだというが、蜷川が演出するということは当然念頭にあったに違いない。タイトルにもある三姉妹は「三人姉妹」や「リア王」が想起させられ、民衆はコロスの様に仕立て上げられる。シェイクスピア、チェーホフ、ギリシア悲劇と、蜷川がこれまで手掛けてきた演出作品の要素が其処此処に散りばめられ、ケラが蜷川へのオマージュを捧げているには明らかだ。

両作の醍醐味は、何といってもキャスティングにある。ケラバージョンは、今、演劇界で活躍する旬の実力派俳優を揃えたオールスターキャストにある。蜷川バージョンももちろんスターが顔を揃えるが、主演の森田剛は人気アイドル、注目の若手・染谷将太などの他、映像でも活躍する原田美枝子や中島朋子、そして、三田和代、伊藤蘭、古谷一行といったベテラン俳優なども居並び、出自や活動フィールド、年齢層が幅広い印象がある。どの役者陣も適材適所に配されており、競作に相応しい顔見世興行的な華やかさが堪能出来る。

役柄の全てに均等に思い入れを込め、よくもこれだけの俳優陣が集ったなと思わせるケラのキャスティングと、意外性とアクセントを盛り込み、俳優同士の化学反応を期待する蜷川の思いが如実に現れた選択だ。

話は、架空の町「ウィルヴィル」の支配者一家と、その町に住む被支配者である住民たちが織り成す愛憎や死、そして連鎖する血縁の契りなどが語られ、閉塞感が充満する町の出来事の中に、不具、差別、宗教、呪術、錬金術、テロ、闖入者といったスペックが散りばめられていく。一見、中世の古典的な大河ドラマの様相にも見えるが、ケラは人間の暗部をシニカルに切開し、まるで顕微鏡で覗き見るがごとく微細な感情を抽出した、ブラックなファンタジー・ワールドを展開させていく。

ケラバージョンは舞台にしっかりとウィルヴィルの町を造り出す。精緻な町の造形、時間がはっきりと示される明かりの色や注ぎ方、西洋の何処かであることが想起させられる衣装など、細部に渡るまでケラが思い描く世界が隙間なく構築されていく。蜷川は、そのケラの意図を推測したのであろうか、素舞台に近い美術に、意味性を排除した明かりの在り方、東洋と西洋が入り混じったテイストの衣装といった、全く正反対のコンセプトで参戦する。演出家によって、同じ戯曲がここ迄違うものになるのだという見本のような両作である。

ケラバージョンは映像を駆使し、物語の世界観を押し拡げていく。閉じた町の澱んだ空気が、映像によって一気にパースペクティブに飛翔する。しかし、何と言っても一番驚いたのが、蜷川バージョンのコロスの扱い方だ。なんと、コロスの台詞を全てラップのリズムで語っていくのだ。ラップはこの物語が帯びた神話性を剥ぎ取り、そこに生きる人間の本質を抉り出そうという気概を叩き付けてくる。また、戯曲に書かれた場面を表すト書きが、テロップとなって表示されるのも面白い。この手法を採ることにより、舞台が俯瞰した視点を獲得し、逆に、物語に神話性を付与していくことになるのだ。

ケラバージョンは、まるで上質なゴブラン織りのように見た目に美しいが故に、その奥底に蠢くダークな部分が浮き彫りにされていく。表裏の美醜が共鳴し合い、人間の、そして、世界の矛盾に満ちた成り立ちの有り様がユーモアを交えて提示されていく。蜷川バージョンでは、その町に生きる人々のリアルな生き様を微細に描ききる。人間世界を徹底的に人間臭く描くことにより、マクロ=神の視点との対比をクッキリと照射させ、人間の贖うことの出来ない命運を提示していく。ケラがマクロとミクロを物語上に共存させていたアプローチとは意を異にする。

演出に正解はない。それ故に、この2作品は壮大なる格好な実験上演だったと思う。そして、その試みは、見事に成功した。同じ戯曲が描く世界は全く異なり、その世界で生きる人々が抱く思いのニュアンスも微妙に異なって現れてくる。しかし、両者に共通することがある。それは、人間の“生きる”という欲望の強烈な意志だ。町中に死臭が漂う中、それでも人は生きようと必死にもがいていく。何があっても生き抜こうとする人々の姿に、ケラがこの作品に込めた思いを、しかと感じることが出来た。

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