2010年 3月

面白いタイトルだなと思って興味が惹かれ、そのタイトルからしてどんな話であろうと想像していたのだが、この世とあの世のボーダーがスコンと抜け落ちたシーンが綴られていくというシチュエーション・ドラマであった。かつて亡くなった弟とその友人が会いたいということで、その兄と友人が公園墓地の東屋にやってくるところから物語は始まり、終始舞台はその東屋で展開されることになる。

時空を凌駕して現れる弟とその友人には、亡者の哀しさや苦しみは一切感じられず、学生時代のクラブ活動中、部室で煙草の不審火により焼死する寸前の、クラブ活動の装いのままの爽やかさだ。そして、とつとつと会話が交わされ始めるが、それぞれの役者の立ち位置や台詞の投げ掛け具合などが、丁寧に演出され展開していく。あの世の仕組みなどを台詞のそこここに織り交ぜながら、だんだんと皆が心に空いた隙間を埋めていくことになる。この導入は、ある種のシチュエーション・コメディのようなテイストだ。

そして、時空を俯瞰して見ることができる死す者は、兄と友人が現在抱えている大きな問題を知っており、それを解決してあげようということになる。横領と、教え子に手を付けたという問題だ。当人たちにとっては、棚からぼた餅状態である。ところが、この対応が後に、コメディの要素を消し去るような新たな火種となっていく。

誰もが大きく声を荒げることもなく、当人たち同士の会話は、実に淡々と進んでいく。実に沸点の低い、低温度の感情が行き交うのだ。この沸点の低さは何に所以するのだろうと感じ入るが、私たちの日常生活は、実はこんな感じで粛々と廻っているのではないだろうかと気付き、この戯曲に対する演出のアプローチ方法が、日常のリアルを再現しているのだと感じることになる。視覚的な仕掛けが少ない分、戯曲が仕掛けた罠が浮き彫りになる結果となる。

解決した問題は、あの世の世界のガイドラインに則さない越権行為であったことが、亡きふたりを監視するこちらもまた死した初老の男に指摘されることになる。このことが分かると、もうこのような邂逅が叶わなくなるというのだ。元に戻すか戻さないか、会うか会わないか、大きな決断に迫られることになる。そして、このことが、かつての事件を呼び覚ますこととなり、亡き者はその胸中を生きるふたりにぶちまけることになり、シリアス・モードのスイッチが点灯する。事件の現場で何が起こっていたのかが、露見していく。

弟の平岡祐太は、ピュアな資質をとことん徹底させて貫徹させていく。兄の袴田吉彦は、ガッチリとした体躯ながら繊細な感情表現を紡いでいく。主に映像で活躍するそのふたりのソフトな印象を、ベテラン勢がエッジを効かせることで、バランス良く並び立つことになる。兄の友人の安田顕は、教え子との関係性から抜けきれないダメさ加減が全体の中で良いアクセントとなっており、弟の友人の内田滋は、秘めた思いをストレートに叩き突ける直球演技が作品の感情の幅を広げることに貢献する。そして、初老の男の西岡徳馬は、真正直な演技合戦を少し引いたポジションで、ユーモアな感覚すら感じさせるアクセントを付加し、作品にふくよかな印象を与えていた。

結果、事の顛末が爽やかな印象を残すこととなり、作品としては決して派手さはないのだが、登場人物たちが抱えていたしこりみたいなものが、何故か観る者の心の片隅に知らない内に沈殿しているという、じんわりと心に残る作品に仕上がっていたと思う。

開場時から既にステージの上には、おびただしい数の生々しい肉片がそこ此処にと転がっている。観客はその光景を見ながら開演を待つことになる。これから闘いの舌戦芝居の幕が切って落とされることになるわけだが、冒頭から、闘いとは人の死の集積でしかないという戦争の本質を突き付けられたような気がして、愕然とする。

しずしずと数人の老婦人たちが桶とモップを持って現れてくる。そして舞台上に転がった肉片を黙々と桶に入れて片付け闘いの後始末をしていく。そして舞台にはドッと人がなだれ込み、ヘンリー五世逝去後の、イギリス王室の混乱振りが見て取れる状況から物語はスタートする。

13開演、21時30分終演の正味7時間の長尺芝居だが、飽きることなく最後までたっぷりと堪能することができた。その理由はシンプルだが3つあると思う。まず史実に基づいた物語の圧倒的な筆致の面白さ。そして、腕のある役者たちの実力が遺憾なく発揮されていたということ。そして、戯曲や役者から最大限の面白味を抽出し、複雑な人物関係を実に分かり易く可視的にも工夫した演出が冴えていたということ。演劇に必要な要素全てが、偶然にも合致したため、15世紀の歴史物語が、現代に生き生きと甦ることとなったのだ。

本来なら9時間かかる三部作を、7時間の前後編として整理した台本での上演というのが、本公演の大きな特徴である。翻訳を松岡和子が、構成を河合祥一郎が手掛けるという文学者同士がタグを組んだということも珍しい出来事であると思う。本作は、第二部と第三部が好評だったため、後にその前史として第一部が書かれたとも伝承されているシェイクスピア初の戯曲である。そのため本戯曲は、だんだんと肥大化していったというきらいがあったのではないかとも推察される。英断ではあったと思うが、結果、まさに超訳とも言えるようなスピーディーさが加味され、物語の展開に勢いがついたとも思う。

またシーンごとのエピソードがなかなかいい。後の名作につながるような、珠玉の名シーンがそこここに散りばめられている。処女作というのは、荒削りな部分もあるが、才能の萌芽も垣間見れる興味深いテキストでもあることを感じさせてくれた。

役者陣の高度な実力が、この複雑に入り組んだ物語に息吹を吹き込み、決して過去の偉人像をなぞることなく、悩めば嫉みもする等身大の人間を造形していて絶品である。大竹しのぶが、ジャンヌ・ダルクとマーガレット妃の狂気と女を演じ分けて目を離すことができない。この作品に疾走感を与えた大きな要因は、大竹しのぶに因る所が大きいと思う。また闘いが日常の地獄の沙汰のような環境の中で、ひとり孤高の域にいるヘンリー六世を演じる上川隆也も、計算されたピュアさから抜けることのできない王の諦めが、逆に吸引力となって強烈な印象を残す。

吉田鋼太郎のヨーク侯、瑳川哲朗のグロスター侯の立ち振る舞いと朗々と繰り出される台詞には惚れ惚れしてしまう。ガッチリと脇から支えるこうした確かな才能が、作品に一層ふくよかな感情を吹き込んでいく。また池内博之の愚直なストレートさや、長谷川博己の品ある豪腕さなども新鮮な空気を吹き込むが、後編にしか登場しないリチャードを演じる高岡蒼甫のコンプレックスに裏打ちされた切っ先鋭い反逆心が、負の感情が渦巻く本作の中でも最右翼のポジションを上手く捉えていて大いに目立つ。

物語は複雑に展開するのだが、ランカスター侯陣営が出てくると赤い薔薇が、ヨーク侯陣営が出てくると白い薔薇が天上より舞い落ちてくるという手法は、物語を目でも感じさせてくれると同時に、展開が平坦にならない大きなアクセントともなっている。場面転換もスピーディーなので、古に書かれた大河小説を読むという感覚よりは、現代の作家が過去の史実にアプローチした感覚であり、今起こっているいろいろな出来事や回りの人々とだぶらせて観ることができるため長尺でも飽きがこないのだ。蜷川演出の特徴でもあり、面白さのポイントでもある。

歴史物語を見るというより、時代に翻弄されて生きる人々の辛苦を感じる人間性が強く打ち出された作品である。舞台上で、生きることと、死することを目の当たりにすることで、心の中に何かふっとある感情が喚起させられてきた。とにかく、生きる、ということであった。秀作であると思う。

野田戯曲を野田自身が演出をしないメジャー公演は、蜷川演出以外ではこれまであまり無かったのではないだろうか。今回演出をするのは松尾スズキ。松尾自身も、「キャバレー」を手掛けたことはあるが、演出だけに徹するにはこれまた珍しいことであると思う。まずは、このなかなか魅力的なタッグに、期待感が高まる。

「農業少女」は昨年タイ人バージョンの作品も観ており、バンコクに憧れる田舎の少女という設定自体に、妙なリアリティを感じたことは記憶に新しいが、本作は原本通り日本が舞台であり、比較すると地方と東京との落差というものがタイ程の隔たりではないような気がする。そういう視点で観ているということもあるだろうが、本作はリアルさを追求するというよりは、物語を一種の寓話として捉えていこうとする意図があるような気がする。同じ戯曲でも、状況が変わると語り口が変質するということが、演劇という生モノの面白さであると感じ入る。

4人の役者の個性が見事にバラバラで、良い意味で拮抗しているところが本作の大きな見所であると思う。それは既にキャスティングの時点で立てられた戦略であったのだろうが、役者でもある松尾スズキがその役者個々人の資質を丁寧に引き出しているのだと思う。

当たり前のことだが通常は展開されるストーリーに舞台は先導され、その世界の中でどう生きていくかというのが役者の在り方であると思うのだが、本作は役者がまず在り、物語を牽引していくことになる。役者が物語や役柄に入り込み過ぎず、生身の自分と役柄との位置を対等に保つよう、繊細なバランスが取られている。役者を見せることが最も優先されるポイントであり、野田戯曲はその実に良い素材となっている気がする。悪い意味ではなく、演劇的というよりも、コント喜劇的な様相とでも言ったら言いであろうか。

物語の中心に立つ多部未華子の存在が本作のキーとなってくる。彼女はまるで人形のように華やかで誰をも魅了するのだが、その無垢さがかえって人の心を翻弄もさせるというやっかいな存在だ。彼女がリアルで無ければ無い程、周りの男たちが右往左往する様がクッキリと浮かび上がってくる仕掛けだ。

多部未華子の資質を見抜き、ピュアな次元へとその役柄を導いた演出が成功したのだと思う。だから無理なく寓話へと物語は昇華したのだ。後は芸達者な御仁に任せておけば、クルクルと物語は展開していく運びだ。中年男の山崎一が多部未華子に恋慕するロリータ的要素の軸と、吹越満と江本純子が象徴する社会の欺瞞を凝縮した側面が、結果、前作よりもさらにカリカチュアライズされ、面白可笑しく強調されることになった。

会場に潜む役者、箱に囁いている光景がモニターに映し出される仕掛け、映像として映し出される虚像など、松尾演出は、現実と虚構を行き来させる仕掛けを其処此処に散りばめているため、物語が進めば進む程物語の核心へと近付いてはいくのだが、それは本質とはドンドンと乖離しているのではないかというような違和感を味わうことにもなるのだ。相反する観念が同時に存在する、不可思議さと悪夢とが現出することになる。面白い。

松尾スズキの才能が野田戯曲に潜んでいた新たな鉱脈を発見し、これまでとは全く違う研磨方法で磨いて見せた本作は、見る角度によって光の放ち方をまるで異にする、新しい発見に満ち満ちた快作に仕上がったと思う。

前回の公演はもう18年前になるんですね。確か、アートスフィアの開館記念プログラムだったと思う。主演は宮本亜門。既に演出家として売り出していた氏が、役者として出演するというのが新鮮だったことが思い起こされる。今回の主役は、森山未来。彼は宮本亜門演出の「ボーイズ・タイム」のオーディションに勝ち残りデビューした経歴を持っているが、たまたまなのであろうか、DNAを受け継ぐがごとく、ザムザ役がバトンタッチされることになった。

緞帳が下りたまま会場は暗転し、そして舞台に照明が入る。すると一瞬にして舞台上に、日常とは全くかけ離れたモダンアートのような世界が突如として現出する。鉄枠だけで象徴的に造られたザムザの部屋。その場がどういう状況であるかという状況説明を一切排した照明プラン。そして役者たちがまとう、衣装、ヘアスタイル、メイクは、例えば、パリコレのごとく、その装い方自体がひとつのプレゼンテーションとして成立するようなクオリティに満ちていて、これもまた物語の内容や社会状況を説明する役割は一切担っていない。可視的なるもの全てがスティーブン・バーコフの美意識で構築されており、それが圧倒的なパワーとなって観客に押し寄せてくる。

クリエイティビティの総合力とでも言ったら良いのであろうか。演技の所作ひとつに至るまで、バーコフの目が配られているようだ。それは世界最先端の切っ先を持つエッジの効いた美しさを表現するのと同時に、いつ脆くも崩れ去るがごとく危うい退廃さを秘めた感覚も持ち合わせるという、退廃したヨーロッパ的な感性とも言えるような滅びの美学が染み出してくる。ここでは内側から腐りかける一歩手前の果実の美味さを堪能するが如く、ただただその世界観に酔い痴れるのが得策だ。

また情感を最優先しない演技、ある意味ストイックとも捉えられるこの独特な手法で、役者それぞれに自らの役柄のスピリットを掘り起こさせ、その核を肉体を通してシンボリックに表現することをバーコフは求めていく。そこではことの本質をカリカチュアライズさせ、モダンダンスと融合させた表現とでも言うべきパフォーマンスが繰り広げられる。可笑し味と、オーバーアクションとの緩急が独自のリズムを生み、また登場人物の感情を拾い上げ押し広げる役割を担うキーボードとパーカッションの生演奏が、作品全体にふくよかなアクセントを付加させていく。

この綿密に構築された世界に放たれた役者陣は、初日で少々硬い印象があったが、スティーブン・バーコフが求める世界観を十分に搾り出していたと思う。特に、ザムザは難役だ。もちろん特に扮装のないまま、虫となった自分を表現していかなければならないのだから。ここで大きな役割を持つのが、肉体の動き。ダンスを体得する森山未来がそのスキルを最大限に活かし、静謐なアクロバットのような表現でザムザを造形していく。舞台上には、虫になったザムザがしっかりと存在していた。

丸尾丸一郎の下宿人がもうけ役だ。異分子としてこの劇空間に侵入し、虫になったザムザを抱える家族の秘め事を暴いてみせる。中世の貴族とも醜悪なパンクともとれる出で立ちが滑稽で面白い。永島敏行演じる厳格だがだがこすい父、瞬間瞬間の状況に対応するしか術がない久世星佳演じる母、またそんな父母と兄ザムザに翻弄されつつも自分のスタンスは守り抜く妹・穂のか、そして福井貴一演じる規律に縛られたザムザの上司。この絶対的な世界観に呑み込まれることなく、何故か役者それぞれの個性が際立ってくるのが不思議で面白い。型を演じることで、役に息吹を吹き込むことを可能にさせているのだ。バレエや歌舞伎などにも通じる域に、創作のベクトルが向けられているのだと思う。

他に例えようのないこの世界観は一見の価値はあると思う。現代の日本人の感覚では多分創ることが困難な表現の一種だと思う。美醜両者は紙一重に共存するという混沌が、まるで世界の本質であるとでも言わんばかりにアジテーションしてくる本作は、傑作アートに触れた時のような刺激に満ち溢れていて、唯一無二の表現手段を獲得していたと思う。

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