2017年 12月

開演前より、舞台上で俳優陣が自主トレをしている。これまで、幾たびか蜷川演出で観た幕開きの光景だ。開演の時間がくると、吉田鋼太郎が中心となって出演者全員が舞台前面に並び、一礼し、舞台の幕は切って落とされた。こちらも、彩の国シェイクスピアシリーズ恒例の演出だ。

蜷川幸雄が芸術監督を担ってきた彩の国シェイクスピアシリーズを、吉田鋼太郎がリスペクトしながら継承しているということが、冒頭から溢れ出ている。蜷川幸雄であったら、ここはどのように演出するであろうかということが、常に前提として据えられているような気がする。それが何故か心地良い。全員が同じ方向に向かっている、迷いのなさが清々しささえ感じられるのだ。

タイモンの家で繰り広げられる華やかな宴のシーンから物語はスタートする。権勢を誇るタイモンの生活が華やかに描かれていく。集う皆が、タイモンから分け前を貰おうとおだて囃し立てる。気のいい散財家タイモンを、吉田鋼太郎が人の良い能天気振りで演じ、物語の中心に聳え立つ。

貴族、宝石商、画家、詩人など、友人と称する様々な来訪者の描き方も、また、微細に渡る。その他大勢として描くのではなく、例え台詞がなくとも一人一人の人格を際立たせ、活き活きと人物造形するのも、蜷川の演出法を継承したことの現れだ。舞台にグッと厚みと深さが増していく。

出番は多くはないのだが、タイモンをシニカルに見つめ、毒舌を吐く哲学者アぺマンタスを藤原竜也が演じ、物語を脇から締めていく。タイモンと対峙するこの役どころは、旧知の仲である吉田鋼太郎が相手役であるが故に、火花の散り具合も半端ない。バトルが昂じてアドリブの様な素を垣間見せるような側面が見え隠れすることで、可笑し味が生まれてくる。深刻に陥らず、軽妙なアクセントを作品に付与していく。

後に運命が転回する武将アルシバイアディーズを、柿澤勇人が高潔さを失わずに生きる人間として造形する。堕ちゆくタイモンとくっきり対を成すようでもある。柿澤勇人の清廉な印象が、アルシバイアディーズに表裏のない誠実さを添えていく。

タイモンの執事であるフレヴィアスを横田栄司が演じるが、主に忠誠を尽くしながら、時にはタイモンの放蕩に進言する姿に、プライベートでの吉田鋼太郎との関係性を彷彿とさせられる気がする。言動の必死の説得力が、絵空事ではなく真にリアルに感じられるのだ。

金を散財し尽くす物語前半の目くるめく展開と反して、破綻し森に隠遁したタイモンに照準を合わせる後半は、人々の様々な感情が交差することになる。アぺマンタスやフレヴィアス、アルシバイアディーズらとの交流からもタイモンは心を絆すことはない。

台詞の応酬の醍醐味を享受しながらも、シーンが均等に並列化されているという印象は免れず、もう少しアクセントある演出が施されても良かったのではと感じてしまう。際立たせたい台詞や行動を、効果音を添え更に強調するなどして、観客の意識をもっと揺さぶって欲しい気もした。

タイモンの生き様は決して古びることなく、今を生きる人々への警鐘を鳴らしているかのようにも思えてくる。上演される機会の少ない戯曲であるが、普遍的なテーマを抱合した含蓄ある戯曲であることを再認識した。蜷川イズムを継承する吉田鋼太郎の意思をしかと感じながら、更なる飛躍の予感を感じさせる佳品であった。

19世紀に書かれたヘンリック・イプセンの「ペール・ギュント」は、大好きな戯曲であり、さまざまな演出家の作品を拝見してきた。世界各国を放浪するこのペール・ギュントの物語は、演出家のクリエイティビティが大いに刺激される素材なのかもしれない。

同作の演出家は、平昌冬季オリンピックの開・閉会式の総合演出なども務めたヤン・ジョンウン。世田谷パブリックシアターの開場20周年記念の日韓文化交流企画として、本作は上演された。2009年、ヤン・ジョンウン演出による本作が初演され数々の演劇賞を受賞しているが、同作は韓国版をなぞるのではなく日韓版として新たな演出が施されたという。

ヤン・ジョンウン作品は初見だが、舞台美術、衣装、ヘアメイクなど視覚的なものを提示することに非常に長けている演出家なのだと感じ入る。世界を股にかけて活躍する理由が分かる気がする。納得のビジュアル表現だ。言語を超越して観客の感性に訴求する術を熟知した語り口に酔い痴れることになる。

また、本作は聴覚にも大いなる刺激を与えてくれる。日韓の俳優が、それぞれ自国語で台詞を発していくのだ。日本語と韓国語、どちらにも寄ることなくナチュラルに物語が展開していく様に、全く不自然さを感じることはない。言語が交錯するのが当たり前が、今の世の中。世界をリアルに感じさせるこの手法は、世界を放浪する物語展開にも妙にしっくり馴染むことになる。

タイトルロールを演じるのは浦井健治。ポジティブで溌剌とした存在感が、物語をグイグイと牽引していく。表裏を感じさせない氏の純粋な資質が、作品に清潔感を与えていく。ヤン・ジョンウンの演出が、人間の暗部を抉る様なアプローチも取っていくのだが、浦井健治の明るさと上手く中和され、リアルとファンタジーが見事に織り成されていく。

ペール・ギュントを故郷で待ち続けるソールヴェイを趣里が演じていく。もはや二世という看板は、彼女の場合必要ない。たおやかなのだが強靭な許嫁を魅力的に表現していく。個性ある風貌と身体の内側から放つ強烈なパワーに、思わず目が釘付けになってしまう。

乗峯雅寛の美術は、ヤン・ジョンウンの才能と見事にコラボレーションする。壁を上手く活用したシーンの切り取り方、鏡をアクセントとして使うアイデア、衣装とのバランスが考慮された色彩設計など、ハッとさせられるような驚きに満ちた視覚的展開が独特である。大いに楽しませてもらった。

音楽は演奏者がライブで伴奏する。国広和毅が創造する音楽は、世界を放浪するペール・ギュントに寄り添う様に、何処の国にも寄らないのだが、何処かの民族音楽として聞こえてくる感覚を享受できる。

独特のクリエイティビティが突出したパワー満載の日韓コラボの秀作である。ヤン・ジョンウン演出作品は、これからもチェックしていきたいなという思いを強く感じた本作であった。

大竹しのぶのブランチを観るのは、約15年振りになるであろうか。当時の演出は蜷川幸雄で、作品自体がかなりパッショネイトなパワーを放熱していたと記憶している。本作の演出は、2年前、同作と同じくテネシー・ウィリアムズ作の「地獄のオルフェイス」で大竹しのぶとタグを組んだフィリップ・ブーリン。年齢を経て円熟の安定感を示す大竹しのぶが、一体どのようなブランチを魅せてくれるのか、観る前より、大いに期待感が高まっていく。

精神のバランスを欠き壊れかかった女が、精一杯に虚勢を張る痛々しい姿を、大竹しのぶが見事に体現する。高貴なレディを装い登場する序盤から、不穏な空気感を徐々に作品に滲ませていく。

ブランチの妹ステラを鈴木杏が演じていく。思えば大竹しのぶとは、2003年の「奇跡の人」での初舞台以来の共演となるはずだ。様々な舞台出演経験を経て、かつての先生とインティメイトな関係性をガッツリと構築していく様が、何ともワクワクする。

スタンリーは北村一輝が担い、男が持つマッチョな性質をくっきりと刻印していく。このスタンリーの、男とはかくあるべきという言動は、今となってみると少々懐かしさすら感じてしまう。執筆時より約70年の時を経て、人間の在り方が、大きく変化を遂げたことを実感することにもなる。

ミッチを演じるのは、藤岡正明。ミッチ役は、朴訥とした地味なイメージがあったのだが、長身のイケメンである藤岡正明というキャスティングは新鮮な印象がある。ルックスに引けを取らないミッチの存在は、ブランチがしな垂れかかろうとする思いに説得力を持たせていく。

1幕が終わり、2幕が始まるまでの幕間には、舞台の壁面に蛾が羽ばたく映像が投影され、羽音を響かせていく。本作の執筆課程におけるタイトルが「蛾」であったということを、フィリップ・ブーリンは反映させたのであろうか。いみじくも、1988年に舞台を日本に翻案した「欲望という名の市電」で、演出の蜷川幸雄が作品自体を蛾の標本箱に見立てていたことが彷彿とさせられる。

ブランチの過去が徐々に暴かれ、段々と物語は錯乱を極めていくのだが、ブランチが囚われている妄執が、メキシコの“死者の祭り”のような様相とも、ポランスキーの「反撥」の世界とも呼応しているかに見えてくる。精神の混乱が可視化されていく。

ニューオーリンズの日常世界と、ブランチの精神世界とが、しかと対峙していく。大竹しのぶが現実世界全てを敵に回しながらも、それを一人で確実に受け止めることが出来るのは、何とも凄まじい存在感だとしか言いようがない。

精神病院からの迎えが来る段になると、観客は、何者にも寄ることなく、ブランチと市井の人々、その双方の気持ちが汲んで取れる様になっている。ブランチを、決して異形の人と捉えることのない状態になっているのだ。これは、精神の混乱を可視化し提示した演出に拠るところが大きいと感じ入る。

蛾は標本箱から飛び出し、観客の心に舞い降りた。大竹しのぶのブランチは、瓦解する女の生き様を普遍化させ創造し絶品である。そのブランチにリアルさを付与し盛り立てた、熟練の俳優陣や演出家などの底力もヒシと感じさせる逸品に仕上がった。

1985年、1986年、1988年と、木野花は同作の演出を担ってきたが、約30年振りに大人計画のモチロンプロデュースにより、4度目の演出を手掛けることになった。初演と再演を拝見しているが、木野花が所属する女性だけの劇団青い鳥のプロデュース公演で、男優を客演に招いての公演だった。

そこで繰り広げられる、男優が女性を、女優が男性を演じる役どころが織り交ぜられたジェンダーレスな設定が、何とも衝撃的であったと記憶している。しかも、話の展開にも、LGBTが違和感なく折り込まれていく。LGBTが、現在よりも浸透していなかった時代、同作の上演はなかなか衝撃的であった。30年という時を経て、同作はどのような驚きを与えてくれるのかと、わくわくしながら開演を待つことになる。

男女の性差を超越した物語展開は、30年前の衝撃とはまた別種の感慨を与えてくれることになる。人間は様々な個性を持っているものであるという事実を、違和感なく受け入れている自分を発見した。しかし、人とは違う点を意識してしまうということは、逆に、無意識下の何処かで、他人との差異を意識しているとも言えるのではないだろうかと気付くことにもなる。

第1幕はヴィクトリア朝時代のアフリカ英領植民地という時代であるが、現代の視点から見ると、リアルに成り過ぎずに郷愁すら感じられてしまうのが面白い。男は男らしく、女は女らしく生きることが美徳とされていた時代を、絵空事としても捉えることが出来る設定に、観る者の感情がスッと入り込んでしまうようなのだ。

イギリスからアフリカへと赴任している一家の閉じられた世界で起こる、性差、人種、階級が入り乱れたドロドロな状況を軽妙に筆致するキャリル・チャーチルの世界を、あっけらかんとした明るささえ感じられる表現で創造する、俳優陣のクレバーさが心地良い。

第2幕の設定が、また、奇妙に捻じれており、第1幕との合わせ鏡になっている構成が面白い。第1幕から100年後のロンドンなのであるが、登場人物たちは25年しか歳を取っていないのだ。しかし、登場人物の役どころは、全てが入れ替わる構成になっている。少々思考を要するが、知的好奇心を喚起させられ、グッと前のめりになっていく。

登場人物たちはそれぞれ色々な運命を背負っているが、皆、全く否定することなく常に前向きに生きているその姿が清々しい。しかし、それとは裏腹に、人間の奥底から滲み出る哀しみや孤独感も同時に感じられるという一筋縄でいかない表現に心惹かれていく。

高島政宏が偉丈夫さと繊細さとを見事に使い分け見事である。迷いのないように見える2つの役どころを三浦貴大はストレートに演じるが、時折見せる哀感が印象的だ。正名僕蔵は物語にシニカルな刻印を押す役どころで強烈な存在感を示している。平岩紙はこんなにも芸の抽斗があったのかとビックリした。終始、目が離せない魅惑的な俳優であることを再認識させられた。宍戸美和公は、あまりにもかけ離れている2役に真実味を付加していく。2幕の少年は言葉すら話さないのだ。個性的な御仁に囲まれた石橋けいは、そのピュアな資質が上手く活かされホッと心和ませてくれる。入江雅人はごく自然に役を生き、演じていることを感じさせない熟練のスキルは特筆すべきだと思う。

時を経た2つの時代が照射し合いながらも、我が子を慈しむようにぴったりと寄り添う、その光景が何とも愛おしい。個として生きるが孤ではない。誰かが必ず見つめてくれているのだという温かな思いを確信することが出来る優しさに満ちた作品に仕上がったと思う。

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