開演前より、舞台上で俳優陣が自主トレをしている。これまで、幾たびか蜷川演出で観た幕開きの光景だ。開演の時間がくると、吉田鋼太郎が中心となって出演者全員が舞台前面に並び、一礼し、舞台の幕は切って落とされた。こちらも、彩の国シェイクスピアシリーズ恒例の演出だ。
蜷川幸雄が芸術監督を担ってきた彩の国シェイクスピアシリーズを、吉田鋼太郎がリスペクトしながら継承しているということが、冒頭から溢れ出ている。蜷川幸雄であったら、ここはどのように演出するであろうかということが、常に前提として据えられているような気がする。それが何故か心地良い。全員が同じ方向に向かっている、迷いのなさが清々しささえ感じられるのだ。
タイモンの家で繰り広げられる華やかな宴のシーンから物語はスタートする。権勢を誇るタイモンの生活が華やかに描かれていく。集う皆が、タイモンから分け前を貰おうとおだて囃し立てる。気のいい散財家タイモンを、吉田鋼太郎が人の良い能天気振りで演じ、物語の中心に聳え立つ。
貴族、宝石商、画家、詩人など、友人と称する様々な来訪者の描き方も、また、微細に渡る。その他大勢として描くのではなく、例え台詞がなくとも一人一人の人格を際立たせ、活き活きと人物造形するのも、蜷川の演出法を継承したことの現れだ。舞台にグッと厚みと深さが増していく。
出番は多くはないのだが、タイモンをシニカルに見つめ、毒舌を吐く哲学者アぺマンタスを藤原竜也が演じ、物語を脇から締めていく。タイモンと対峙するこの役どころは、旧知の仲である吉田鋼太郎が相手役であるが故に、火花の散り具合も半端ない。バトルが昂じてアドリブの様な素を垣間見せるような側面が見え隠れすることで、可笑し味が生まれてくる。深刻に陥らず、軽妙なアクセントを作品に付与していく。
後に運命が転回する武将アルシバイアディーズを、柿澤勇人が高潔さを失わずに生きる人間として造形する。堕ちゆくタイモンとくっきり対を成すようでもある。柿澤勇人の清廉な印象が、アルシバイアディーズに表裏のない誠実さを添えていく。
タイモンの執事であるフレヴィアスを横田栄司が演じるが、主に忠誠を尽くしながら、時にはタイモンの放蕩に進言する姿に、プライベートでの吉田鋼太郎との関係性を彷彿とさせられる気がする。言動の必死の説得力が、絵空事ではなく真にリアルに感じられるのだ。
金を散財し尽くす物語前半の目くるめく展開と反して、破綻し森に隠遁したタイモンに照準を合わせる後半は、人々の様々な感情が交差することになる。アぺマンタスやフレヴィアス、アルシバイアディーズらとの交流からもタイモンは心を絆すことはない。
台詞の応酬の醍醐味を享受しながらも、シーンが均等に並列化されているという印象は免れず、もう少しアクセントある演出が施されても良かったのではと感じてしまう。際立たせたい台詞や行動を、効果音を添え更に強調するなどして、観客の意識をもっと揺さぶって欲しい気もした。
タイモンの生き様は決して古びることなく、今を生きる人々への警鐘を鳴らしているかのようにも思えてくる。上演される機会の少ない戯曲であるが、普遍的なテーマを抱合した含蓄ある戯曲であることを再認識した。蜷川イズムを継承する吉田鋼太郎の意思をしかと感じながら、更なる飛躍の予感を感じさせる佳品であった。
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