2005年 6月

イスタンブールをテーマに作り上げられた本作「ネフェス」は、そのタイトルの意味が“呼気”とあるように、人を含めた自然界の全てのものの一呼吸一呼吸に神が宿るかのような、繊細さと強さを併せ持った身体表現にて、ピナ・バウシュ独自の世界観を繰り広げていく。

人間そのもののような作品である。愛があり、恋があり、社会があり、駆け引きがあり、そして時に、語り、遊び、笑い始める。まさに、喜怒哀楽の感情がそこかしこで迸るのだ。また、物語性を排除しストーリーの制約を一切受けないことが、よりストレートに情感を伝えることとなった。観客は物語を追わず、ダンサーの動きを追っていくのだ。そこで起こる出来事に、一喜一憂していれば良いのだ。ステージに完全に身を任せている状態である。

ボスポラス海峡などからインスパイアされたか、今作は水が大きなファクターとなっている。床から湧き出た水で舞台中央に池が出来たりする。その脇にシートを敷いて座るカップル。あるいは、その水溜りにジャブジャブと入り踊る人々。また、ある時には、天より滝のように水が降り落ちてきてその水に打たれながら踊るソロダンサー。またあるシーンでは舞台脇に束ねてあったカーテンを中央に引っ張ってきてスクリーンのように設えると、海の水面を舐めるように走り映していくダイナミックな映像が流れ、人々はその前でパーティーに興じているといった具合だ。自然と共生する人間の姿はなんて優しく、そして、まさしく、自然、なのだろうと感じさせてくれる。

但し、スタンブールは自然ばかりではない! 先程のスクリーンには、街中の道路の中央に備えつけられたであろうカメラが、交互に行き交う無数の車を映し出し、その前でダンサーが右往左往して翻弄されたりもする。深刻ではなく滑稽な演出で観客に微笑みを与えてくれる。文明批判をする気などサラサラなく、そこにあるものとして、全てのものが捉えられていく。

ハマムでのシーン。石鹸水に浸した布を吹くと出る細かな泡で、男たちの身体が洗われる。
女たちはうつ伏せに寝転んだ男たちの上に立ち、それぞれが長い髪を梳かし始める。マリオン・スィートーの美しいフォルムの衣装が微かに揺れ、官能、が立ち昇る。舞台前面で丁寧に爪の手入れをする女。池の脇で楽しそうに蜂蜜を舐める2人の女。頭の上に長い棒を載せその両脇に水の入ったビニール袋でバランスをとって歩く女が、男2人に足を持たれ宙に上げられて少しずつ階段を昇るかのような仕草をしていく。数限りなくある珠玉のシーンたちが折り重なってひとつの作品へと昇華していくというこの強靭さ。

フィナーレのポロネーズも圧巻だ。下手手前より男たちが腰を床につけたままひとりひとり現れ、這うように少しずつ上手へと動いていく。それと呼応するかのように、下手奥から女たちもひとりひとり現れ、同じく床に腰をつけまま魚のような可愛らしい手の動き見せながら、下手へと移動していく。中央には水が満々とたたえられている。人類発生にまで遡る記憶をも髣髴とさせ、生きているということ、そのものを、表現している気がする。

カーテンコールが待ちどおしい。微笑みを浮かべたピナに会えるからだ。どうやら、完全にピナに恋をしてしまっているようなのだ!

3回目の「近代能楽集」である。固唾を呑んだ前2回の感動を期待し席に着いた。

「卒塔婆小町」は、震えるようなパバーヌの調べに乗り、プロセニアム前面に貼り付くようにビッシリと生えた椿の樹木から、かなり連続してポタポタとその椿の花を天空より落下させる。その椿は落ちる時に音がするのであるが、その音は、三島の美しい言葉のレトリックの迷宮に迷い込ませないための一種の異化効果となって、観客に冷静さを取り戻させてくれる。

舞台中央を囲むように設えた白いベンチに座る恋人たちが抱き合う夜の公園に、壌晴彦演じる卒塔婆小町が現れる。シケもくを拾い、ベンチから恋人たちを追い出し、99歳の小町は語り始める。昔、私は、美しかった、のだと。そこに、青年が迷い込んでくる。彼はそんな話に耳を傾けつつも相槌は打たない。しかし、詩人である彼にはイマジネーションというものが感覚的に備わっていた。彼は老婆の話に吸い込まれていく。

鹿鳴館時代に小町が甦るシーンは圧巻だ。ボロボロの小汚い服装はそのままに、髪も白髪、顔も皺だらけなのだが、ワルツの音色が奏でられると、壌晴彦の背筋がすこしずつ伸び始め、顔も正面を向きシャンとして緩やかな曲線を描きながら舞い踊る姿は、もはや、老婆ではない。何故か、美しい、と思えてしまうのだ。声の張りも勿論違う。ふっと、全身全霊という言葉を思い出していた。全身で表現するその役者の内側にはその役の魂までもが存在しているのだ! 己の魂を役にぶつけて芝居をしているのだ。

詩人は幻にはまり現実に戻って来れなくなって、私に恋すると皆死ぬの、という小町の予言通り、死に至ってしまう。今見えていることが全てなのではない。強烈な思いが時には人を狂わせてしまうこともあるのだ。三島のメッセージは、壌晴彦という役者の魂と、蜷川幸雄の美醜を混在させた強烈な場作りを得て、ひたひたと心の内側に侵食してくる。

「弱法師」である。藤原竜也から何かが消えていた。確かに、声のバリエーションは増え、緩急自在に台詞を操るテクニックは進化したのかもしれない。しかし、ポキンと折れてしまいそうな未熟さが無くなってしまっていたのだ。故に、少年の恐怖と我と虚勢と孤独が、堂々としたものになってしまっているのだ。加えて、声を張ることが多いのも興を削がれる一因だ。そこまで、何度も、叫ばなくても良いのではと感じてしまう。愛されているかが不安な少年が、愛されていることを利用する大人へと、まるで藤原竜也自身が成長したかのように、役自身にもそれが反映されてしまったということか。

夏木マリの妖艶さは特筆すべきだ。黒髪をひっつめ粋に着物を着こなす級子は、育ちの良さからも、美貌の持ち主であることからも、俊徳に一歩も引けを取らず、堂々と渡り合う。また、夏木マリのハッキリとした顔立ちもあって、主人公の無垢を否定する悪女にも見え、泣き叫ぶ俊徳を一喝するシーンなどは、少年のパワーに対し、女の魔性で真っ向勝負に挑んでいる。

最後の演出は俊徳の孤独をこの上なく増幅させると同時に、三島にも思いを馳せる仕掛けが秀悦である。それまで、裁判所の1室であったそのギャップが一層驚きを掻き起こすが、この台本には書かれていない演出は、文学として完全に成立している三島戯曲に対する蜷川の反逆にも思え、格好良い大人のアジテーションとしての魅力も感じてしまった。

両作共、可視的なるものを否定し、物事の本質や真実を掬い出そうとする点において共通しているかもしれない。2005年の今だからこそ、何十年もの時を経て現代を予告していたかのようなこのメッセージを、個々が問い直さなければならないのではないだろうか。三島はやはり天才であった。

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