開演時間になると、既に舞台上に出ていた以外の役者たちもステージに登場し、三島由紀夫の「金閣寺」の一説を一人ずつ読み上げ始める。既に原作を読んでいると、どうしても本の世界観がアタマにこびりついているため、こうして三島の言葉が語られていくことにより、現実と劇世界とがブリッジされ、「金閣寺」の物語に入り易くなる効果を生んでいく。
誰もがこの「金閣寺」という作品には、それぞれの思いを抱いていると思うので、色々な意見の向きはあると思うが、オープニングにもある様に、原作の作品世界のイメージを損なうことなくその真髄を上手く掬い出し、クリエイティビティー溢れる秀作に仕上がったと思う。
原作を読んでいない人が、本作の台本のはしょり方で、物語を充分理解出来ているのかどうかはもはや分からない。しかし、1シーンが長過ぎることなく、果断なく積み重ねられていく構成の仕方が実にスピーディーで、物語に溌剌とした勢いを生み出していく。原作翻案はシルクド・ソレイユの「ZED」などの脚本を手掛けたセルジュ・ラモットで、台本は行定勲監督作品の脚本で知られる伊藤ちひろである。どのようなコラボレートの仕方をしたのかは分からないが、二つの視点を持ち寄ることで、より物語が相対化されて見え易くなり、ひいては観客に伝わりやすい客観性を獲得し得ることになったのかもしれない。
美術のボリス・クドゥルチカのワークには初めて接したのだが、実にいい。まるで映画のように、さまざまなシーンが次々と紡がれていくという台本の特徴を掴み、柔軟な発想を持って、まるで魔法のように舞台上をさまざまなシチュエーションへと変貌させていく、その才能に脱帽した。森田剛演じる溝口が舞台上を歩いていくと、その先に、次なる場が既に作られており、スッとそのエリアに役者が入ることでシーンが成立してしまうといった具合だ。照明の沢田祐二との息もピッタリで、絶妙なコンビネーションを見せていく。
また、宮本亜門のアイデアにより、溝口の内なる世界を可視化するために用いられたのが、出演者でもある山川冬樹のホーメイと効果音を含む音の力、そして、小野寺修二振付による大駱駝艦の舞踏家たちによるパフォーマンスの数々だ。三島の強靭なレトリックに対抗するため、生身の芸能をぶつけるというこの戦略は見事成就し、劇化ならではのオリジナリティーを獲得した。
物語は、森田剛演じる溝口を中心に展開していくのだが、柏木と鶴川という同世代の男たちを同時にフューチャーさせることにより、原作の奥底に潜んだ愛憎相混じり合う男たちの心の葛藤を鮮明に浮き立たせることに成功した。そして、その捩れたアンビバレンツな思いを、各人が自ら独自のやり方で決着を付けていくという様に、物語はフォーカスされていくことになる。この心理状態を露見させていく過程が、実に丁寧に描かれていく。
劇と対峙している間に、だんだんと、3人の男たちの在り方自体が、世界の成り立ちと呼応しているようにも思え、どこかでその均衡が崩れると、その世界自体が崩れ落ちるかのような繊細で危ういバランスを保っているようにも感じられてくる。そして、その均衡は、ついぞ、破られることになる訳だ。物語はスリリングな展開を示していく。
森田剛は吃音を巧みに操りながら、溝口という人物の奥底の分け入り、実に繊細にその心の襞までを体現していたと思う。高岡蒼甫はリチャード三世を彷彿とさせるような容貌で、傲慢さと怪奇さを示しながらも、音楽や花を愛でるギャップを行き来しながら、柏木という男の不可解さを明確に演じていく。大東俊介は,陽なる象徴の様な明るい清潔さを振り撒きながらも暗く沈んだ側面も垣間見せ、鶴川という人物像を重層的に造り上げた。中越典子は様々な役柄を演じるが、どれも女の強烈な強さを打ち出し、男の世界観と見事に拮抗していく。そして、瑳川哲朗、高橋長英、岡本麗、花王おさむらベテラン陣がしっかりと脇を支え安定感を示していく。
金閣炎上はどのような表現になるのかは見物であったが、実に想像力を掻き立てられ、しかも、パッショネートだが、静謐ささえ感じさせる珠玉の表現になっていたと思う。そして、ラストシーン、大舞台にぽつねんと佇む溝口の姿に、目標を超越した者の絶望と同時に、その向こう側にある未来をも髣髴とさせられることとなり、生きる覚悟を決めた男のしなやかな強さが、ズシリと胸に響いてきた。
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