2011年 1月

開演時間になると、既に舞台上に出ていた以外の役者たちもステージに登場し、三島由紀夫の「金閣寺」の一説を一人ずつ読み上げ始める。既に原作を読んでいると、どうしても本の世界観がアタマにこびりついているため、こうして三島の言葉が語られていくことにより、現実と劇世界とがブリッジされ、「金閣寺」の物語に入り易くなる効果を生んでいく。

誰もがこの「金閣寺」という作品には、それぞれの思いを抱いていると思うので、色々な意見の向きはあると思うが、オープニングにもある様に、原作の作品世界のイメージを損なうことなくその真髄を上手く掬い出し、クリエイティビティー溢れる秀作に仕上がったと思う。

原作を読んでいない人が、本作の台本のはしょり方で、物語を充分理解出来ているのかどうかはもはや分からない。しかし、1シーンが長過ぎることなく、果断なく積み重ねられていく構成の仕方が実にスピーディーで、物語に溌剌とした勢いを生み出していく。原作翻案はシルクド・ソレイユの「ZED」などの脚本を手掛けたセルジュ・ラモットで、台本は行定勲監督作品の脚本で知られる伊藤ちひろである。どのようなコラボレートの仕方をしたのかは分からないが、二つの視点を持ち寄ることで、より物語が相対化されて見え易くなり、ひいては観客に伝わりやすい客観性を獲得し得ることになったのかもしれない。

美術のボリス・クドゥルチカのワークには初めて接したのだが、実にいい。まるで映画のように、さまざまなシーンが次々と紡がれていくという台本の特徴を掴み、柔軟な発想を持って、まるで魔法のように舞台上をさまざまなシチュエーションへと変貌させていく、その才能に脱帽した。森田剛演じる溝口が舞台上を歩いていくと、その先に、次なる場が既に作られており、スッとそのエリアに役者が入ることでシーンが成立してしまうといった具合だ。照明の沢田祐二との息もピッタリで、絶妙なコンビネーションを見せていく。

また、宮本亜門のアイデアにより、溝口の内なる世界を可視化するために用いられたのが、出演者でもある山川冬樹のホーメイと効果音を含む音の力、そして、小野寺修二振付による大駱駝艦の舞踏家たちによるパフォーマンスの数々だ。三島の強靭なレトリックに対抗するため、生身の芸能をぶつけるというこの戦略は見事成就し、劇化ならではのオリジナリティーを獲得した。

物語は、森田剛演じる溝口を中心に展開していくのだが、柏木と鶴川という同世代の男たちを同時にフューチャーさせることにより、原作の奥底に潜んだ愛憎相混じり合う男たちの心の葛藤を鮮明に浮き立たせることに成功した。そして、その捩れたアンビバレンツな思いを、各人が自ら独自のやり方で決着を付けていくという様に、物語はフォーカスされていくことになる。この心理状態を露見させていく過程が、実に丁寧に描かれていく。

劇と対峙している間に、だんだんと、3人の男たちの在り方自体が、世界の成り立ちと呼応しているようにも思え、どこかでその均衡が崩れると、その世界自体が崩れ落ちるかのような繊細で危ういバランスを保っているようにも感じられてくる。そして、その均衡は、ついぞ、破られることになる訳だ。物語はスリリングな展開を示していく。

森田剛は吃音を巧みに操りながら、溝口という人物の奥底の分け入り、実に繊細にその心の襞までを体現していたと思う。高岡蒼甫はリチャード三世を彷彿とさせるような容貌で、傲慢さと怪奇さを示しながらも、音楽や花を愛でるギャップを行き来しながら、柏木という男の不可解さを明確に演じていく。大東俊介は,陽なる象徴の様な明るい清潔さを振り撒きながらも暗く沈んだ側面も垣間見せ、鶴川という人物像を重層的に造り上げた。中越典子は様々な役柄を演じるが、どれも女の強烈な強さを打ち出し、男の世界観と見事に拮抗していく。そして、瑳川哲朗、高橋長英、岡本麗、花王おさむらベテラン陣がしっかりと脇を支え安定感を示していく。

金閣炎上はどのような表現になるのかは見物であったが、実に想像力を掻き立てられ、しかも、パッショネートだが、静謐ささえ感じさせる珠玉の表現になっていたと思う。そして、ラストシーン、大舞台にぽつねんと佇む溝口の姿に、目標を超越した者の絶望と同時に、その向こう側にある未来をも髣髴とさせられることとなり、生きる覚悟を決めた男のしなやかな強さが、ズシリと胸に響いてきた。

開演時間になると、出演者全員が舞台に登場し、演出と出演を兼ねる長塚圭史が挨拶を始める。挨拶は、芝居の延長でも、演劇的でもない、ごく自然な態度で、来場してくれたことのお礼や、上演時間が長いが気楽に見てくださいなどと語っていく。舞台は箱庭のような設えでその中には砂が敷き詰められている。その舞台の周囲は黒い板張りの廊下で囲まれており、上下のエリアには椅子が常備されている。挨拶を終えた役者たちは、その椅子へと還っていく。

上下に設えられた椅子に座るその役者たちの存在が、演出的に大きなアクセントになっている。砂が敷かれた舞台で演じられている台詞や、ちょっとした行為がきっかけとなり、その役者たちは中央舞台へと登場したり、舞台袖へと引っ込んだり、あるいは、控えていた袖から登場したりと、シーンが壊れないよう、静かに、自然に、行き来をするのだ。

役者たちは椅子に座っている間は舞台をじっと見つめていたり、袖から出てきた役者が隣に座るとそれに反応したりと、観客と同様な視点を持っているため、内へ内へと収斂しがちな物語のベクトルを外へと引き戻す役割を担い、観客の思いがスッと重ね合わせることが出来るエアポケットのような隙間が生まれるのだ。長塚圭史の繊細な手捌きが、作品に深みを与えていく。

三好十郎作の「浮標」は、1940年初演の戯曲である。三好十郎は反体制派の詩人として出発したが、本作は「イッヒドラマ(私戯曲)」と作者自身が位置付けている通り、実際に起こった体験を元に書かれた作品である。戦渦が拡大する中、病床の妻や出征する友と真っ向から対峙し格闘する画家久我五郎には、作者自身の思いが投影されているわけだ。死と向き合う真摯なまでの愚直さが、リアルにズシリと胸を打つ。

演じる役者たちが、一生懸命に真っ直ぐ生きる当時の日本人の在り方を甦えらせていくことで、逆に、今、日本人が失いかけているのかもしれない、礼節や美徳の精神などが染み出してくる。また、砂の箱庭という設定や上下で役者が見守るという入れ子細工があるため、思い悩みながらもとにかく生きるという行動力、熱い情熱みたいなものが、逆に、くっきりと鮮やかに浮かび上がってくる効果を発揮していく。

演じる役者も直球勝負でそれぞれの役柄に挑んでいく。中軸となる久我五郎を田中哲司が演じるが、さまざまな死の予感を前にして、どうしても整理をつけることのできない男の悲しみと、時に直情的に怒りをぶちまけるエゴイスト振りの間を逡巡する様に純粋な愛を挟み込み、大胆かつ繊細に役柄を紡ぎ上げていく。出征する友の大森南朋の迷いを越えた毅然とした姿が、迷いを断ち切れない久我とくっきりと好対照を示し、お互いが照射し合うことで、物語にグッと厚みが加わった。病床の妻の藤谷美紀は、生きるのだ、という人間の力強い魂を感じさせ、終始動かぬ状態でありながら、強烈なパワーを放出する。

佐藤直子の強さとしたたかさ、安藤聖の儚さ、峯村リエの狡猾さと弱さ、江口のりこの冷静なリアリスト振り、遠山悠介の無垢さと無知さ、長塚圭史の無常を受け入れる達観した在り方、そして、中村ゆりの生と性の発露が彩りを添え、山本剛司のコンプレックスと格差を抱合する矛盾を引きずり、深貝大輔の優しさと捕らえどころのないスケール感を感じさせる。役者それぞれが、役柄から生きた真髄を掘り起こし、見事なアンサンブルを繰り広げる。

あらゆる状況が違うので少々大袈裟な言い方になってしまうかもしれないが、ある意味苦難の時代という点においては、先行きの見えない空気感に覆われる現在にシンクロするところがあるのではないだろうか。今、この戯曲を長塚圭史が提示した意味を、強くそこに感じてしまう。そして、現実を直視し逸らさず立ち向かう人間の姿を目の当たりにすることで、今、我々がやらなければならないことは一体何なのかということを、しかと考えさせられることになる。乗り越えなければいけないこと、それは、社会との闘いかもしれないし、常に自分の内なる部分に巣食っている迷いであるのかもしれない。観る者それぞれが自らを顧みることができる、誠実な良作に仕上がっていると思う。

大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実の4人芝居である。この実力派が居並ぶキャスティングに惹かれて劇場へと足を運んだのだが、期待を裏切ることなく円熟の演技合戦をたっぷりと堪能することが出来た。

作はヤスミナ・レザ。「アート」などでも知られるフランスの俊英だ。日常生活の中におけるほんの小さな会話のズレが段々と大きな傷口として開口していき、個々人の中に潜んでいた真情を揺り動かし噴出させていくという人間感情のひだの描き方が絶妙で、抱腹絶倒しながらもズキンと身につまされるという作品世界に、ついつい前のめりでかぶり付いてしまうことになる。

本作は、大竹しのぶと段田安則演じる夫婦の子供が、秋山菜津子と高橋克美演じる夫婦の子供に怪我を負わされ、その喧嘩の調停をするための話し合いの場がその舞台となる。大竹、段田夫妻の家の居間で、90分間ノンストップの演技バトルが繰り広げられていく。

最初は穏やかに話が進んでいくかに思えるのだが、事件の顛末を記した書面を大竹しのぶが読み上げ、その記述の中に相手の子供が「武装していた」という表現があったことから、「それはちょっと大袈裟ではないか」という異論を相手方夫婦が挟み込み、徐々に何かがしっくりとこない違和感が皆に伝播していくことになる。その行き違う微妙で繊細な感情表現が、もう絶品なのだ。

しかし、激情は何も相手方夫婦にだけ、感情の刃を突き付ける訳ではない。時に、自分のパートナーに対しても常日頃から抱いていたストレスや不満を爆発させてもいくし、きっと自分でも思ってもみなかった自分自身の本性をも自ら暴き立てていくことにもなる。その予測不可能な展開の行方が、実にスリリングに描かれていく。

演じる役のほとばしる感情を頼りに役作りが出来る程、生易しい本ではない。台詞には書かれていないが、各人がこれまで生きてきた道のりや、普段の生活スタイルに至るまで、かなり詳細に渡ってその人間像を掘り下げ、リアルにその人物から血肉を掴み取って演じていかなければ、何の説得力もない薄っぺらな人間像が出来上がってしまう怖さを秘めた戯曲なのだ。

演出のマギーを含め4人のベテラン俳優たちは、きっとかなり綿密な作業を積み重ねてきたはずであるが、そんな苦労は微塵も感じられない程、皆が完全に役柄を自分のものとして昇華させ、行為や言葉のずれから生じる笑いを途切れさせることなく、観客に叩き付けてくるそのパワーは圧巻だ。

大竹しのぶは、辛辣で身勝手で高慢ちきで鼻持ちならない女の側面を実に魅力的に演じ、片時も目を離すことが出来ない。段田安則は、一歩引いて静観したスタンスを取るその冷静な視線が作品に深みを与えている。秋山菜津子は、上品に取り繕った体裁をかなぐり捨て、秘めた感情をジワジワと表出させていくその変貌振りが観る者にもスカッとした気持ちをプレゼントしてくれる。高橋克実は、一番俗物的に見せながらも、その実、なかなか達観したクールな男の一面も感じさせ、そのギャップに可笑し味を忍ばせ見事である。

何も、希望や未来を提示することだけが、癒しを与えてくれる要因ではない。本作は、観客が、ごく普通の人間の心の奥底に潜んだ感情を一気に吐き出す光景を目の当たりにすることで、逆に、スカッとした爽快感を得ることが出来るという快作に仕上がっている。

本作はミステリーというカテゴリーに属するとは思うが、安易に殺人事件が起こるような典型的な物語へと、三谷幸喜の筆致が陥ることはない。多分、きっと正解などはない、また、コロコロと変貌を遂げていく人間心理の奥底に分け入り、その真髄を掴み出していく、その過程が実にスリリングに描かれていくのだ。且つ、真相がだんだんと紐解かれていくという展開そのものが、まさにミステリー仕立てになっていく。

役者は3人だけ、設定は東北の温泉旅館という限られたシチュエーションの中で、特に大掛かりな仕掛けを弄することもなく観客の興味を引き付け、最後の最後まで飽きさせることなく謎を投げ掛け続けていく戯曲の精度が実に高い。また、モノローグで物語を進行していくという手法は三谷作品には珍しいが、その客観的視点が、我々観客に対して、登場人物たちと共に「真実の探求」を共有していくという効果を生み出すことにつながっていく。

三谷演出はシンプルなのが常であるが、本作は部屋の襖を開閉させることで場や時間を跳躍させたり、ある果物に人間の記憶の曖昧さを象徴させるポイントをさりげなく配していくなど、戯曲を書いた本人が演出するという強みを最大限に生かした趣向に満ち溢れている。また、音楽が藤原道三ということが、作品にグッと独自のクリエイティビィティを付け加えることになる。ジャージーな旋律が、和でありながらもモダンさを表出させ現代とのブリッジ役を果たしていく。

役者もイキのいい御仁が揃った。本作は、藤原竜也が、三谷幸喜への作品制作を懇願したのがきっかけとなった6年越しの企画だということだが、結果、3人芝居にしたという三谷幸喜の判断に、役者発信の企画への返歌が見て取れる。氏は、とことん役者の力を出し尽くすために、敢えて登場人物を限定したのではないだろうか。共演は盟友・中村勘太郎に、「新撰組!」でも共演していた吹石一恵。気心も知れた若手実力派の競演は、緻密に構築された戯曲世界に、ハチャメチャにパワーを全開させて対峙することで、生き生きとした人物像を立ち上らせていく。

中村勘太郎の軽妙洒脱な立ち振る舞いが絶妙に面白い。弾ける、弾ける! しかし、寸でのところで、グッと魅せる芝居へと引き戻し、観客の目を捉えて離さない。歌舞伎のみならず、さまざまなフィールドで培ってきた切り札を、手を変え品を変えこれでもかと叩き付けてくる。今さらながら、演技の抽斗が実に多いということに、改めて感じ入ることにもなった。勘三郎に近いオーラさえ、放たれている気がした。

藤原竜也は、純粋で実は小心者ではあるのだが、クリエーターの強烈なエゴをも内包するという裏腹な、しかし、物語のキーとなる役柄の核をしっかりと踏まえながら、石川啄木を嬉々として演じ、巧みである。この無垢そうな見た目があってこそ、この物語は成立するという理解の下の高飛車振りが、観ていて気持ちが良い。

吹石一恵は初舞台と思わせない堂々とした存在感を示している。変に舞台慣れしていないということが、逆に新鮮な魅力となって、アンサンブルの1辺をしっかりと担っていく。また、曲者二人を相手に互角に渡り合うその姿に、舞台人としての資質が溢れ出ていることにも気付かされることになる。

細部に至るまで計算し尽くされた三谷幸喜の手捌きは、まるで沢山のピースを当てはめて、1つのパズルを完成させていくかのようであり、観客は、その完成する姿を想像しながら物語を追い掛けていくという知的興奮も味わえることになる。思考を強要されることは決してないのだが、いつの間にか好奇心を掻き立てられているという、作り手の術数にまんまとはまってしまうことになる。その、徐々に巻き込まれていく感じが、また、何とも心地良いのだ。上質なエンタテイメントを、たっぷりと堪能することが出来る逸品であると思う。

映画版を観ていない人は本作を観てどのような衝撃を受けるのかは、キューブリック作品を何度も観ている私にとっては、もはや想像することは出来ない。勿論、映画版と物語は同じな訳だが、本作には舞台版ならではの独自の美学が展開されていることを大いに期待していた。しかし、こと、役者の演技スタイル、美術、衣装、メイクなど、可視的なるものに関しては、映画版のイメージに引きずられているようであり、映画版のオリジナリティーを凌駕することは出来なかったと思う。大きな課題に挑戦したものなのだなあ、と感じ入る。

しかし、映像をふんだんに使った効果は、本作独特の演出である。映像が作品の添え物ではなく、物語の進行を大きくサポートしているのだ。但し、映像を舞台で使うということ自体に新鮮さはなく、観客に強烈なインパクトを与えるまでには至らない。

こういった感想を持つのは、映画版に匹敵するぐらいの衝撃を本作に期待していたからであり、そういう期待がなければ、映画の表現を上手く取り込み、舞台版ならではの味付けがされた「時計じかけのオレンジ」として、まとまりある作品にはなっていたと思う。演出の河原雅彦は、独自のアグレッシブな表現を最優先にして追及していくというより、原典を租借しながら、キャスト、スタッフの中にある才能をアジテートして掴み出し、バランス良く全体をまとめ上げていくことに徹している気がする。

但し、パンクオペラと謳われているように、ミュージカル風の歌曲ナンバーが盛り込まれているのが本作の特徴になっている。その歌が面白い。結構、歌の数はあるのだが、何故か、歌だけ突出して聞こえてくることがないのだ。集団で歌われるアンサンブルナンバーが多いということもその理由の1つであるのだとは思うが、語るようなトーンで歌われるため、前後のシーンと違和感が生じることがない。また、変にショーアップしない演出も功を奏している。独特である。

悪戯を尽くす悪ガキたちの暴力沙汰は、アレックスが逮捕されることで終止符を打たれるが、そこから徐々に本作独自のアイロニーが染み出してきて、物語のブラックな側面を炙り出し本領を発揮していく。「ロドビコ療法」なる人格矯正法をアレックスに施すことにより、内務大臣、牧師、ブロドスキー、ブラノムなど体制側の人間たちの矛盾や滑稽さがだんだんと浮き彫りになり、一体誰が本当の犯罪者であるのかという基準が消滅するという価値観の逆転現象が快感を呼び覚ます。そして、その欺瞞に満ちた矛盾が、じわじわと観る者に伝わってくるのだ。

小栗旬を始めとするドルーグたちには、もっと危険で火の点く位の熱い狂気を感じたかった。今どきの青年がじゃれ合っているかのような軽さがどうしても漂い、一線を越えたキレル瞬間を垣間見ることは遂に出来なかった。脇を固めるベテラン勢は、ズシリと見応えがある。橋本さとしの諧謔さ、吉田鋼太郎の丁々発止な発破の掛け具合、キムラ緑子の逡巡する様子、石川禅の矛盾を包括したやさぐれ具合いが可笑しい。その中でも、武田真治のバラエティーで鍛えたユーモアセンスが一際映え、アイロニカルなアクセントを作品に付け加えていく。山内圭哉の安定感、桜木健一の存在感も印象に残る。

矯正を解かれ元通りになったアレックスに後日談があるというのが、この舞台版の大きな特徴になっている。これは、アンソニー・バージェスがキューブリック版に意を唱えて付け加えたものであるらしい。アレックスがこれまでの全ての悪行は若気の至りであったと歌い上げるのだが、この唐突さ、真っ直ぐな真面目さが、作者の意図に反して、馬鹿馬鹿しくも可笑しいのだ。このエンディングはことさらレビュー仕立ての演出が施されているところに、演出家のシニカルな視点を感じることになる。

バランス良い采配で、参加者たちの才能を美味く引き出した演出の手腕を感じるが、他に追随することのない本作独自の圧倒的なビジュアル・インパクトを感じることは出来なかった。また、作品が孕む狂気の表出が、モダンダンスの様に洗練されているのも気になるところだ。ドルーグたちに全く怖さを感じないのだ。結果、創り手が意図したことではないのかもしれないが、2011年、狂気が見え難い現代日本の時代性や若者像が、如実に現れた舞台になったと思う。舞台は時代の合わせ鏡であるということをひしと痛感することになった。

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