2010年 11月

アーティスティクな刺激に満ち溢れ驚きと感動を与えてくれる本作は、これまでのどの芝居にも似たものがない突出したオリジナリティーと、モダンアートのような傑出したクリエイティビティーを獲得し得た傑作だと思う。ロベール・ルパージュの才能に、完膚無きまでに打ちのめされてしまった。ただただ、眼前で目くるめく展開するシーンを見続けていくこと、それだけで、無上の幸福感に感じ入っていく。

1980年代半ばの上海。登場人物は3人。アートギャラリーを経営するカナダ出身の中年男。恋人でもある中国人のアーティスト、カナダからやって来た男のかつての恋人で広告会社の幹部の女。その彼女は、中国で養子縁組をするという目的があった。それぞれが抱える問題、行き違う感情、大きく変貌しつつある上海の社会状況などを、ピンセットで掬い上げるかのようにピックアップし、丁寧にひとつずつ珠玉のシーンとして立ち上げていく。

物語の展開は一見シンプルに見えるが、そこにある感情は複雑に絡み合い、また、世相にまで斬り込んでいくという重層的な構造になっている。しかし、全ての夾雑物を取り払い、登場人物たちの純化された感情を起点として物語が提示されていくため、心の奥底にあるヒリヒリとした思いがストレートに伝わってくる。

シーンを語る上で、視覚的な要素が重要なギミックとなっていく。何もない空間で観客の想像力を喚起させるという方法とは真逆のアプローチで、徹底してそのシーンの空間の在り方にこだわり、紛れも無いその場所、その時間の、空気感を作り出していくのだ。それは、従来の芝居の、装置、照明、そして映像という概念から大きく逸脱して独特の輝きを放っていく。

まず、照明機材が一切見えることがなく、そのシーンで灯るスタンドなどの明かりが唯一の光源となる設定のため、部屋の造形が実にリアルに見えてくるのだ。当然、はっきりと見える明るいところと、ほんのり暗めな影の部分が混在することになるわけなのだが、その陰影が登場人物の心のヒダとリンクするという関わり方を示していく。

美術や小道具も、そこにあるべき、椅子、扉、テーブルなどのテイストとデザインが的確にチョイスされている。それは、演出コンセプトを表現するために必要な道具としての役割ではなく、その場にあるべきものを、繊細な審美眼でコラージュのように配することで、空間を構成していくのだ。

また、舞い踊る中国人の女が天女のように振り上げる衣の動きの、そのエッジにピッタリと合うようにフワッとそこから花びらが舞い散るかのような映像が投影されていく。映像は別次元へとイメージを飛翔させ、リアルな表現の呪縛から観客を解き放っていく。

バンド近辺だと思しき夜景などにも、まがいものの表現は極力廃するというスピリットが反映されている。電視塔のようなタワーを上に下にと移動するエレベーターの光が、常に不規則性を維持しながら点滅しているのだ。点きっぱなしであるとか、予定調和の規則的な動きを意図して避けているのだ。その背景には、街中の雑踏のざわめきが自然と忍び込んでくる。

全てのシーンで、明かりと、そこに在るものと、音の響きとが、ロベール・ルパージュの視点を通して濾過されることで渾然一体となってひとつに溶け合い、独自のリアルな世界を作り出していく。

物語はアイロニーの効いた結末に向かってひた走る。養子の話は上手く進まず女はダメージを受けるのだが、中国人女性が男の子供を妊娠することになるという展開を示していくのだ。そこで各人が、どのような結論を出すに至るかという幕切れに、ロベール・ルパージュのインテリジェンスを垣間見る。別れの空港でのシーン。男と女と中国人女性とその子供の行方が、全く同じシチュエーションで、最後の選択肢だけが異なるという結論を、3度提示していくのだ。果たして、彼らにとって、どの方法が最大の幸福値であるのか、という判断を観客に委ねていく。この、粋さ、成熟さ。とかく深刻に成りがちなベクトルを、笑いさえ起こるような表現へとシフトチェンジさせ観客を打ちのめす。

観終わった後の、この心地良い感覚は何なのだろう。ポリティカルな要素を孕み、モダンアートの刺激をも感受させてくれながら、リアルな現実も突き付けるという刺激に満ちた展開が、観る者の知的好奇心を満足させてくれるというのが、その要因なのかもしれない。目の肥えた大人が満足できる要素が凝縮されているのだ。それはひとえに、大人の観客が多いという欧米の現状が反映されているともいえる。舞台は観客も共に作り上げているのだということに、改めて気付かされることにもなった。思考をチリチリと刺激される快感、大歓迎である。

1965年にポーランド人劇作家スワボミール・ムロジェックによって書かれた本作は、当時の社会情勢や政治思想が織り込まれた時代性の濃い戯曲であるが、半世紀近くを経た今接しても、決して古びることなく新鮮な驚きを与えてくれた。

世の中の旧態依然とした体制の有り様や、自由を旗頭に意識改革を試みる大人たちの欺瞞に満ちた言動に対して、若者がアジテートしていくというスタイルを戯曲は取っていくのだが、その若者も体制側のシステムに組み込まれながら皆を支配していくというアイロニーや、その後に待ち構える支配の転覆に、現代社会にも通じる普遍性を感じ取っていく。その時代を改革しようと生きてきた人々は、これまでにはない自由を享受することにもなったと思うが、結局は倒そうとしていた体制側へと自らをシフトチェンジし支配する立場に納まることで、改革を推進することなく、逆に、体制を堅持し続けてきたという事実がこの作品を通して露見することになったと思う。

この戯曲選定の絶妙さはロンドン帰りの長塚圭史にあるかと思いきや、文化村のプロデューサー氏からの提案であったというが、その慧眼には驚くばかりだ。同劇場がアーティストとの良きコラボレーションが適っていることが良く分かるエピソードだ。

長塚圭史はこの寓意に満ちた物語を、一種の人間喜劇として描き出す。自由に生きたいともがき苦しむ登場人物たちの姿を、俯瞰した視点で冷徹に切り取っていく。そして、作品をさらに重層的に捉えていく手法として、演出家・長塚圭史が自ら舞台に登場し、作品の展開の行方を見守っていくという演出を施していく。まるで、「ベルリン・天使の詩」の、ブルーノ・ガンツのようだ。

しかし、この提案は、本作品の美術を担当する串田和美に拠るところが大きかったようだ。演出プランにまで浸食するこの御大の知恵が、作品世界をさらに広げ、クオリティーアップを図ることに大きく貢献している。舞台美術も、また、さまざまな趣向に満ちていて刺激的だ。アクリルのパーテーションで括られた部屋3室が基本ベースで設えられているが、そのパーテーションは物語の展開に合わせて変幻自在に移動し、観る者の視点をクルクルと変えていく。また、その場に必要な椅子や、小道具などは、役者陣が出し入れしたりもする。本当に美術が演出の領域にまで、グイグイと踏み込んでいく。しかし、舞台は作り事であるという虚像を、こうしたリアルな行為で剥ぎ取っていくことが、観客の視点とシンクロしていくことにもなる。実に面白い。

役者陣もベテラン勢が居並び、その実力を伯仲させる。森山未来は繊細さを合わせ持った青二才アルトゥルを嬉々として演じ、作品のトーンを決定付け、グイグイと物語を牽引していく。父である吉田鋼太郎の弾け具合が最高に楽しい。大人の面子や弱さや卑屈さを、まさに裸体をさらしながら体を張って表現していく。母の秋山菜津子は、使用人の橋本さとしと愛人関係にあるのだが、まるで何事もないかのような擬態をゲーム感覚で続けていく二人の滑稽な様が面白い。片桐はいりの祖母はオーバーアクションと独特の個性で異彩を放ち、辻萬長の叔父は唯一まともな常識人にも見えるが、一族に寄生した生活をしているためその場の流れに従い自己主張しないという役処をしっかりと押さえていく。奥村佳恵の恋人は、変人アルトゥルと拮抗できる個性を持ちながらも、その清楚な存在感は一服の清涼剤になっている。この家族は、まさに社会そのものを写し取った小宇宙のような在り様にも見えてくる。

題名にもなっている「タンゴ」は最後に最後になってやってくる。この一家の中で階級の転覆が行われた後、生還したある男二人が、ラ・クンパルシータの旋律に合わせて、舞い踊るのだ。この奇怪なる支配層たちのダンスは、現在の世界状況を照射する合わせ鏡だ。戯曲が持つ力強い批判精神が時空を越えて2010年の観客に訴えてくる。この、今の世界の有様を見よと。刺激的なメッセージを掬い出し、見事に具現化することに成功した長塚圭史の才能が一際輝く作品に仕上がったと思う。

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