アーティスティクな刺激に満ち溢れ驚きと感動を与えてくれる本作は、これまでのどの芝居にも似たものがない突出したオリジナリティーと、モダンアートのような傑出したクリエイティビティーを獲得し得た傑作だと思う。ロベール・ルパージュの才能に、完膚無きまでに打ちのめされてしまった。ただただ、眼前で目くるめく展開するシーンを見続けていくこと、それだけで、無上の幸福感に感じ入っていく。
1980年代半ばの上海。登場人物は3人。アートギャラリーを経営するカナダ出身の中年男。恋人でもある中国人のアーティスト、カナダからやって来た男のかつての恋人で広告会社の幹部の女。その彼女は、中国で養子縁組をするという目的があった。それぞれが抱える問題、行き違う感情、大きく変貌しつつある上海の社会状況などを、ピンセットで掬い上げるかのようにピックアップし、丁寧にひとつずつ珠玉のシーンとして立ち上げていく。
物語の展開は一見シンプルに見えるが、そこにある感情は複雑に絡み合い、また、世相にまで斬り込んでいくという重層的な構造になっている。しかし、全ての夾雑物を取り払い、登場人物たちの純化された感情を起点として物語が提示されていくため、心の奥底にあるヒリヒリとした思いがストレートに伝わってくる。
シーンを語る上で、視覚的な要素が重要なギミックとなっていく。何もない空間で観客の想像力を喚起させるという方法とは真逆のアプローチで、徹底してそのシーンの空間の在り方にこだわり、紛れも無いその場所、その時間の、空気感を作り出していくのだ。それは、従来の芝居の、装置、照明、そして映像という概念から大きく逸脱して独特の輝きを放っていく。
まず、照明機材が一切見えることがなく、そのシーンで灯るスタンドなどの明かりが唯一の光源となる設定のため、部屋の造形が実にリアルに見えてくるのだ。当然、はっきりと見える明るいところと、ほんのり暗めな影の部分が混在することになるわけなのだが、その陰影が登場人物の心のヒダとリンクするという関わり方を示していく。
美術や小道具も、そこにあるべき、椅子、扉、テーブルなどのテイストとデザインが的確にチョイスされている。それは、演出コンセプトを表現するために必要な道具としての役割ではなく、その場にあるべきものを、繊細な審美眼でコラージュのように配することで、空間を構成していくのだ。
また、舞い踊る中国人の女が天女のように振り上げる衣の動きの、そのエッジにピッタリと合うようにフワッとそこから花びらが舞い散るかのような映像が投影されていく。映像は別次元へとイメージを飛翔させ、リアルな表現の呪縛から観客を解き放っていく。
バンド近辺だと思しき夜景などにも、まがいものの表現は極力廃するというスピリットが反映されている。電視塔のようなタワーを上に下にと移動するエレベーターの光が、常に不規則性を維持しながら点滅しているのだ。点きっぱなしであるとか、予定調和の規則的な動きを意図して避けているのだ。その背景には、街中の雑踏のざわめきが自然と忍び込んでくる。
全てのシーンで、明かりと、そこに在るものと、音の響きとが、ロベール・ルパージュの視点を通して濾過されることで渾然一体となってひとつに溶け合い、独自のリアルな世界を作り出していく。
物語はアイロニーの効いた結末に向かってひた走る。養子の話は上手く進まず女はダメージを受けるのだが、中国人女性が男の子供を妊娠することになるという展開を示していくのだ。そこで各人が、どのような結論を出すに至るかという幕切れに、ロベール・ルパージュのインテリジェンスを垣間見る。別れの空港でのシーン。男と女と中国人女性とその子供の行方が、全く同じシチュエーションで、最後の選択肢だけが異なるという結論を、3度提示していくのだ。果たして、彼らにとって、どの方法が最大の幸福値であるのか、という判断を観客に委ねていく。この、粋さ、成熟さ。とかく深刻に成りがちなベクトルを、笑いさえ起こるような表現へとシフトチェンジさせ観客を打ちのめす。
観終わった後の、この心地良い感覚は何なのだろう。ポリティカルな要素を孕み、モダンアートの刺激をも感受させてくれながら、リアルな現実も突き付けるという刺激に満ちた展開が、観る者の知的好奇心を満足させてくれるというのが、その要因なのかもしれない。目の肥えた大人が満足できる要素が凝縮されているのだ。それはひとえに、大人の観客が多いという欧米の現状が反映されているともいえる。舞台は観客も共に作り上げているのだということに、改めて気付かされることにもなった。思考をチリチリと刺激される快感、大歓迎である。
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