2012年 3月

九州の炭鉱で働く人々が住む集落にある、理容店が物語の舞台となる。中央に店舗が設えられ、上手側に畳の小上がりがあり、奥の部屋へと通じる通路がある。ドアは下手側にあり、外には共同井戸などが配されている。それぞれの美術が実に精緻に造られているというこのリアルが、本演目の“意図”を明確化させていく。

抽象ではなく、具象。隠喩や比喩などといった言い回しは排除され、芝居の全てが日常的な会話の積み重ねと、そこで起こる出来事によって構築されていく。意外にも、こういう質感の芝居を観るのは久しぶりだなと感じ入る。オーソドックスではあるのだが、このアプローチは観る人を選ばず、誰にでも理解出来る方法として優れていると思う。

物語は1965年、九州の「アリラン峠」と呼ばれた小さな炭鉱町が舞台となる。理容店を営む次女、スナックを経営する長女、そして結婚したての三女と、それぞれの夫たち、父、子どもという、三世代の在日の人々が織り成す人間模様が描かれていく。

夫たちを含む男たちは皆、何らかの形で炭鉱に関わっているという点に於いて共通している。町は炭鉱によって生まれ、生かされているのだ。皆、苦しい生活を強いられながらも、日々を逞しく生きているのだが、ある日、炭鉱で事故が発生したことにより、生活が徐々に変化を遂げていく。事故現場に遭遇した者たちは、CO中毒=一酸化炭素中毒に襲われてしまったのだ。

長女の連れ添いなど組合の人々が、被災者の保護、権利を勝ち取るために動き始めるのだが、そこには、日本人で構成される第一組合と、在日の人々で構成される第二組合との確執なども感じさせ、事故の奥に潜む根深い問題にまで斬り込んでいく。

病魔が本人のみならず、周りの人々を巻き込んでいく様を、鄭義信は深刻さに筆致を傾け過ぎることなく、あくまでも生活者の視点からリアルに活写していく。大変な状況へと物語は展開していくのだが、そこで生きる人々は常に前向きで、また、皆が肩を寄せ合い助け合いながら暮らしていく、その生き様に心打たれる。個人主義など標榜することなどないこの人々が過ごす日々の営みの中に、人間が本来兼ね備えているであろう逞しさの一片を垣間見せてくれる。人間はどんな状況においても、強く生きていくことができるのだという人間賛歌がここにはある。

しかし鄭義信が描く世界は、表層的な優しさだけを浮き彫りにしたノスタルジーとは一線を画す。登場する度に朽ちていくCO中毒に蝕まれた男たち、次女の夫の弟が抱く恋心とそれを察知した兄との葛藤、その弟が北朝鮮に希望を託し日本を去る展開、事故被害に対する企業側の対応の問題、この地から脱し新天地へと向かう一筋の光明など、抜け切ることの出来ない現実の中であえぐ人間の哀しみをきっちりと描写していく。

次女を逞しく演じる南果歩が、作品全体に明るさを照射していく。決して後ろ向きになることなく、絶えず前進していくパワーがアンサンブルを牽引していく。その夫を演じる松重豊が圧巻だ。自分の力だけでは変えることのできない現実にもがき苦しみながらも、諦観した境地に足を踏み入れたかのような意識との間を逡巡していく中から染み出る無念さが胸を抉る。根岸季衣の小股の切れ上がった女っぷり、星野園美のおおらかさ、森田甘路の洒脱さ、石橋徹郎の純粋さなども心に染み入る。

過ぎた日の昔日の思いをリアルに描いて秀逸である。丁寧に紡がれた人と人との絆は、観る者の誰もが、そのどこかに自分をオーバーラップさせることができるような広がりを持ち得ている。過去でありながら、現代にも通じる、社会の中で生きる人間の悲哀が、ストレートに胸を打つ秀作である。

舞台となるのは、失踪した父に残された、母、姉、弟の一家。母は、姉に早く良い縁談と巡り合えるよう口うるさく、そういう母を煩わしく思っている弟に対しても母基準の常識を押し付け、弟と母との間の溝は深くなっていく。また、姉は自閉気味の内気な性質であり、弟はいつかはこの場所から飛び出したいと考えている。このシチュエーション、まるで、現代日本にも通じる光景ではないか。

「ガラスの動物園」がブロードウェイで初演されたのが1945年。敢えて言うまでもなく、70年近く前に書かれた作品であるが、今、観ても決して褪せることのない戯曲の精度の高さに驚愕した。ギリギリの極限にまで追い詰められた人間の感情を、まるでピンセットで摘まんで標本にするが如く、繊細でヒリヒリとした筆致で描ききり、本作が紛れもない傑作戯曲であることを再認識することになる。

この傑作戯曲の調理を担当するのは、多くの海外戯曲の演出も手掛けてきた長塚圭史。物語は弟が昔日の風景を思い出すという構成で紡がれているのだが、二村周作の手によるグレーの壁に覆われた閉鎖的な空間で展開される本作は、過去を振り返る甘酸っぱい叙情性よりも、登場人物たちのどうしても埋めることが出来ない心の空洞がより強調され、その心情を現代の観客とクロスさせていく。あらかじめ全てを失ってしまっている人々の、行き場のない空虚さがフワリと立ち上がる。

物語は意地悪な展開を示していく。家族だけで完結しているのならまだしも、1人の闖入者が現れるのだ。母は姉の結婚相手を弟に紹介しろと頼み、弟は仕事場を同じくする同僚を、ある晩、食事に招待するのだ。その同僚はかつてハイスクールで姉と同窓であり、また、姉の初恋の相手でもあったということも分かってくる。同僚は姉に好意を抱くのだが、フィアンセがいると立ち去ることになる。夢にすがるような思いは断ち切られ、何処に行くことも出来ずに、家族は昨日と同じような生活を続けることを余儀なくされていく。

母のアマンダを演じる立石凉子は、正気の常識と妄想の暴走が絶妙に織り成され、憎らしいけれども憎みきれない情愛を放ち、また、これまで一家を支えてきた気骨をも感じさせ、物語の中心に聳え立つ。権勢と友愛とが瞬時に転換する感情表現を説得力を持って演じ抜く。

姉を演じる深津絵里が素晴らしい。感情をひたすらに押し隠しながら生活しているのだが、キラリとローラの本心を垣間見せていく、そのさじ加減が繊細だ。そして、観客はその静謐な佇まいに、だんだんと引き込まれていく。驚愕したのは、幼馴染のジムとのシーン。ジムがローラを誉めそやしていくのだが、その話を聞いているローラの顔はだんだんと紅潮していく。そして、キッスをすることでボルテージは最高潮に達する。ローラのジムを見つめる顔は恋する乙女のそれだ。しかし、ジムはフィアンセがいることを語り始めるとローラは凍りつき、天上へと昇った後、奈落の底にまで突き落とされる感情を、一言も発せず表現した姿に戦慄を覚えた。

瑛太は弟のトムを演じるが、ストレートな演技の直球勝負で挑んでいる。声も通り、言葉は明瞭に聞こえてくるのだが、全ての感情を台詞に載せて出してしまっているので、感情の多重性、例えば、トムが抱え込んでいる鬱屈した思いなどが、平坦になってしまうきらいがある。裏も表ない、好青年風に仕上がっているのだ。それを、どう捉えるかは観客次第だが、作品の奥行きを少し狭めている気がした。

ジムは鈴木浩介が演じるが、二枚目過ぎず、人生のピークから少し落ちかけているという諦めも感じさせながらも、深刻にはならないコミカルな軽さがあるため、一家の深刻さと対を成す立ち位置を獲得していく。ジムの適度な軽いスタンス具合が、作品に軽妙さを与えている。

本作には、物語の運命を俯瞰し、登場人物たちの感情に寄り添いながら、その進行を見守る女性の群舞が登場する。まるで、言葉を語らぬコロスの様な存在だ。室内劇をシアターコクーンで上演する際に、800人強の観客に向けて何か仕掛けを施さなければ、戯曲に潜む感情を伝え難いという思惑が長塚演出にはあったのかもしれない。しかし、この群舞は、展開する物語に反応し過ぎであり、また、衣装がブルマ風であったりすることからも、その存在が妙にナマナマしく、異空間の存在として昇華しきれていないため、メインの物語展開の集中力を欠く結果になってしまったと思う。新たな挑戦が仇になる結果となってしまった様なのだ。

役者は見応えタップリでその演技を堪能させていただいたのだが、群舞の演出処理を一考したものを観たいと思った。

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