2003年 11月

何よりも、広末涼子の存在がこの作品内容を決定付ける最大の要因となっている。全ての者を魅き付けその欲望を跳ね返す広末のパワーが、この2003年の飛龍伝のコンセプトだ。

広末涼子は凛としてストーリーの渦に巻き込まれることはないが、全共闘30万人を率いる委員長として存在するという独特の存在感で、他の役者を圧倒する。

相手役はベテラン筧利夫。膨大な台詞を舌で回すように滔々と繰り返し続けるそのパワーとパッションが、透明なオーラを放つ広末との丁々発止で絶妙のバランスを発する。在り方の違う役者同士ではあるが、他者の助けを必要としないふたりのバトルゆえ、その攻防はスリリングに展開する。

ステージはこれでもかといわんばかりのサービス精神で飽きることがない。下品なモチーフもさらりとやり過ごし、強烈な熱愛は堂々と謳いあげ、また、全共闘の男たちの熱い思いをそこかしこに噴出させ、終始、ステージはお祭り騒ぎだ。唐突にマイクを持ち広末が歌うとバックでは男たちが群舞で踊り、乱闘シーンはJACばりのアクロバットでアッと言わせ、スモークは出てくるわ、紙吹雪は散るわで、演劇という枠など超えたひとつのショーとして成立している。

但し、日本から発する日米関係の見直し・世界との対峙という内容にリアルタイムの旬を感じ、この2003年に安保闘争をモチーフとした作品を上演するという符号と共に、つか作品の持つ深さと広さに改めて気付かされることとなった。エンターテイメントに徹しながらも、濃厚なメッセージを発しているが、スター広末涼子によって暗さや重さから解放され、自由に視界のきく地点に立脚するという一種の普遍性を獲得している。

表面的な軽さをよそに、根本では強烈なメッセージを発したいという欲望は、ちょうど現代の人々との意識とシンクロしているかもしれない。時代を読み込み、その意識を敏感に反映させてきたつかこうへいの次なる展開が気になるところだ。

むせび泣くジャズの調べが会場を覆うと一幕の始まりだ。そこは、イギリスではなく、ジャパネスク風でもなく、また、無国籍を意識した様式に走ることもない。今、日本の若い俳優が演じる「ハムレット」という物語を、今の私たちが目撃するという、あまりにもシンプルな設定だけが用意されている。蜷川演出はどんどん装飾を削ぎ落とし、戯曲の本質を掴み出すことに集中している。

この際、今までのハムレットのイメージ=固定観念を取り外さなければ、今回の作品の本質を突くことは出来ないであろう。若すぎる、貫禄がないと言った感想は無意味であるということだ。藤原竜也演じるハムレットはハムレットを生きている。多分、彼自身がハムレットなのだ。この世界で一番有名な戯曲の世界に、演じるということを越えて、彼は存在してしまっているようだ。そこが、今まで演じられてきたハムレットと、決定的に違う点である。

ハムレットは柔軟に動き叫ぶ。独白を聞かせた後、台詞の掛け合いにスッと戻る。仰業さや変なアクセントや見得がない分、ナチュラルな感情が際立ち、ハムレットの気持ちが立ち上がってくる。今までみたハムレットの中で、一番台詞が良く聞こえてきた作品である。

鈴木杏のオフェーリアも素晴らしい。狂気のオフェーリアをこんなに納得してしまったのも初めてだ。狂気を演じようというのではなく、精神が壊れてしまったんだよね、ということが凄く伝わってくる。草花を手に狂喜して舞台に駆け出してくるシーンなどは、もう、オフェーリアの純真さゆえ涙せずにはいられない。この、俳優たちの柔軟な軽やかささは一体何なのだろう。

ベテラン西岡徳馬と高橋惠子も人間的だ。特に高橋惠子のガートルートは、母である前に女であるのだという意識が明快で、夫の弟に嫁ぐことを納得させる色気が漂った。

ラストは、今までの蜷川演出と全く違っていた。ハムレットが後継者にフォーティンブラスを指名し、フォーティンブラスは何故か死んだハムレットに口づけをし、良きことの伝承を受け継ぐかのように戴冠する。争いは無意味だというメッセージであろうか。ここでもまた、交錯した思いは純化され、ハムレットの意思が浮かび上がってくるのだ。また、敢えて今の世に問うアンチテーゼとも取れる余韻も残している。

ストレートに見る者の心に突き刺さる、自然体の「ハムレット」として稀有な傑作である。

圧倒的なオリジナリティで、なにものにも例えようのない傑作を送り続けているピナのこの新作もまた、隅々にまで生きる喜びに満ち溢れた豊かな心が染み通ったステージに仕上がっている。

未来は子供のたちのものであるという視点を持ちながら、昔日の想いを馳せるかのような遊戯性あるパフォーマンスや小道具を用いることで、過去の郷愁と未来への期待を掻き立てさせる。変に子供じみた演技をすることはなく、等身大の今の“私”の心象風景が次から次へと飛び出してくる。

テーブルから転げ落ちる男を支える動作を繰り返す冒頭のシーンからもう目が離せない。よく子供って同じ動作を繰り返し繰り返しすることってあるよなあ、などと思いながらも、その強靭なバネのようなその動きに可笑しみと同時にシンプルにインパクトを叩き付けてくる。キャスター付の椅子や板に乗ってステージを滑り、縄跳びで遊び、砂遊びに興じ、風船を膨らませては座って萎ませ、袋を突っつくと一杯の飴が飛び散る、そんな風景がステージ一杯に溢れ出て来る。至福の時に包まれる私たち。

しかし、単純な動作の積み重ねもこと男女の場合であると、行き違いすれ違うその様は、まるで子供の遊びのようなのだな、などと妙に感心してしまったりもしてしまう。純粋な子供心ではなく、また懐かしむと言ったセンチメンタルな感情でもない。ステージを見ながら童心を思い返すことでフッと軽くなる気持ちが立ち現れるが、そこではもはや子供ではない自分を意識することに他ならない。

アメリカ先住民族の言葉が最後近くに語られる。太陽が木に引っ掛かり、それを取ったリスは焦げてしまう。しかし、神は蝙蝠として蘇らせることにした、と。生きるということは、何を得て、何を失うのか、ということなのではないか。変化をし続けることが生きるということなのではないだろうか。童心を弄びながらさり気なく突きつけられるメッセージは、今の私たちに勇気と希望を与えてくれている気がする。“未来の子供”とは、今の私たちの地続きの延長なのである。

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