2011年 12月

開場中から劇場内は、ポップコーン・ガールによって温かな雰囲気が醸し出され、観客との間に妙な一体感が生まれているが、その空気感は、ステージがスタートしても途切れることなく、舞台の進行と共に更にボルテージをアップさせていくことになる。観客がもう、既に前のめりで楽しもうという思いで来場しているのだ。こういうプログラムは、有りそうで、なかなか無い。

1973年にロンドンで産声を上げた本作は、その翌々年には、日本でも来日公演が行われ、映画版も公開されている。以降、今日に至るまで、コンスタントに日本版キャストでの上演が繰り返され、映画版も度々レイトショーなどで上映されるなどして、「ロッキー・ホラー・ショー」は、確実に日本におけるファン層を広げてきたのだろう。作品の観方、楽しみ方などが、脈々と伝授されてきたに違いない。

嵐の晩、恩師に婚約を知らせるため車を走らせていたブラッドとジャネットだが、車がパンクしてしまい、雨の中、走行中に見かけた古城まで電話を借りに歩いて戻ることになる。その車が走る光景や、二人が歩く回りの風景が映像で表現されるのだが、この手法がいい意味で作り物の世界へと観客を自然に誘うこととなり、また、映画版のイメージも彷彿とさせられ、実に効果的に作用していく。スッと作品世界に入り込んでいくことが出来るのだ。

ブラッドとジャネットが新聞紙を頭に被り、雨の中を歩くシーンでは、観客たちも客席で用意しておいた新聞紙を頭の上に載せていく。もう、滅茶苦茶ドップリと作品に参加しているではないか! この後、古城で何が待っているのかは、観客の大半の人は分かっている。リチャード・オブライエンの秀逸なメロディーに乗り、嫌が上でも期待感が盛り上がっていく。

岡本健一演じる執事のリフラフに古城に招き入れられ、不気味な使用人たちが登場していく中、古田新太演じるフランクン・フルターの登場で、興奮はピークに達していく。身体を絞ったのか、黒のガーターベルトもしっくりと馴染み、妖しさにコミカルなテイストを掛け合わせながら、観客のハートを鷲摑みにしていく古田新太。

作品を、変にセクシャルな方向に傾きさせ過ぎず、ギリギリのところで品性を保っているのは、この古田新太の存在に他ならない。身体から発するオーラには、常にユーモアがまぶされ放熱しているため、観客は、この物語を楽しんで笑い飛ばすことが出来るのだ。

演出のいのうえひでのりの手腕も見所である。映像を駆使しながら映像慣れした観客のつぼを抑えつつ、装置や衣装や小道具など、舞台上に集積されたあらゆるガジェットたちをPOPに色付けし、存在するもの全てをエンタテイメントとして昇華させていく。多種多様な切り口から、作品が楽しめる工夫は施されているのだ。更には、ガジェットと称するのは大いにははばかれるが、初代フランクン・フルターの藤木孝、そして、前回までのフランクン・フルターで役であるROLLYが同じ舞台に存在していること、そのセンス自体がちょっとした驚きであり、事件であると思う。

名曲揃いの楽曲が弾けまくる中、ステージはエンディングまで一気呵成に雪崩れ込んでいく。観客のパワーとの相互作用で、テンションは下がることなくヒートアップし続けていった。何だか、信者の集会に参加したような気分だ。しかし、観客として居ながらも、大いにパワーを発散出来たことで、もの凄い爽快感が襲ってくるのだ。こんな観劇体験、そうそうあるものではない。コンサートに近い感覚かもしれない。理屈抜きで、大いに楽しませてもらえる、稀有なプログラムだと思う。

観劇当日は、クリスマス・イヴ。カーテンコールでは、クリスマスソングを演奏するという粋な計らいもあった。また、ブラッド役に中村倫也が誕生日だということで、ステージ上でお祝いも開かれた。最後の最後まで、楽しさ満載のエンタテイメントでした!

岩松了がさいたまゴールド・シアターに戯曲を書き下ろすのは4年振り、「船上のピクニック」以来となる。今まで名だたる作家が同劇団にオリジナル新作を提供してきているが、それには何か訳があるに違いない。蜷川幸雄に請われてということもあるのだろうが、平均年齢72歳の42人のメンバーが積み重ねてきた人生のリアルが、この上なく創作意欲を掻き立てるのではないだろうか。

それは、観客として作品を観守る私たちも、きっと同じ様な思いを抱いて劇場へと足を運んでいるのだと思う。所詮、芝居は、作りごとであるという前提に成立しているものではあるのだが、本当の人生が詰め込まれているのだと感じ入ってしまう魅力が同劇団には存在するのだ。公演として成立させるまでの苦労は計り知れないものがあるのだと思うが、他のどんな演劇公演でも味わうことの出来ない芳醇な味わいが楽しめるという点において、唯一無二であると思う。

今回、岩松了が選んだ舞台は「基地」である。沖縄を彷彿とさせる地において、様々な立場にある人々が、それぞれの立脚点に立ち、正面切って自分の意見を主張し、議論を展開していく。そこに、本土から招いた劇団の人々が忠臣蔵をテーマに取った演劇公演を行うというエピソードが挟み込まれることにより、さいたまゴールド・シアターの面々が芝居を演じているのだと言う二重構造の枠組みという設定が、さらに作品にリアルさを付け加えていくことになる。実に面白い設定だ。

物語は基地内部の撮影を許された地元の男たちが、基地内でカメラマンとして写真を撮るシーンからスタートする。基地内に入るには、パスポートが必要で、その中の一人は期限切れのパスポートを提示したが気が付かれなかったと語る。冒頭から、くっきりと、基地とその外との境界線の刻印を押していく。

そして、物語は、不安な予感を孕んだ展開を示していく。基地のフェンスに沿って島の南北を貫く「ルート99」に、地元の名菓がばらまかれるという事件が勃発したというのだ。そして、その犯人としてトラック運転手ヨシユキが逮捕されたらしい。また、タチバナという青年映写技師もその事件に関係しているらしく、今は失踪中だという。場は、島の住民と基地内で働く日本人が車座になり、起こった事件について議論と交わすシーンへと移行していくことになる。

皆は意見をぶつけ合うのだが、何かの思想に考えが集約されていく気配は微塵もない。どうやら、作者は、物語を展開させていくことよりも、人間が集うことでくっきりと浮かび上がる、人間の“差異”を顕わにさせていくことにより、世の混沌の真因を突き止めようとしているかのようでもある。結論を急ぐことなく、物事を開陳して、陳列してみせることで、我々に問うていくのだ。あなたは、どう考えますか、と。

基地がそこにあるということが、そこに住む人々にどのような影響を及ぼしていくのか? そこで働く人と外部で働く人の相違、地元と本土の人々の相克、高齢者と若者との温度差、劇団内部の確執や演出家との対峙、予知とリアルな現実などなど、相対する様々なアイコンを据え置いていく。また、土地を奪われた精霊たちも立ち現れ、時空間も錯綜していく。

思いを抱いているだけでは何も伝わらない、声に出さなければ理解すらしてもらえない。そのことを伝えるためには、老成した肉体という楽器が実に有効に機能を発揮していく。衝突を恐れる若い御仁とは、そのコミュニケーション手段を異にするが、これは先人たちからのエールとも叱咤とも受け取ることが出来るのではないか。

終盤、地元の若い巫女姉妹の姉が白い布を前に吐血するシーンがあるのだが、その血の赤い染みがまるで日章旗のようになり、その赤い部分が朽ちていくリアルを見て絶句する。言葉にすることが出来ない実に複雑な要因を、実にシンボリックに視覚化したこの秀逸さ。連綿と流され続けてきた血の上に今が成り立っているのだと感じ入ると同時に、今、この2011年に起きた惨事なども、未来永劫に渡るまで断ち切れることが出来ないのだという事実を突き付けられ愕然ともする。

人間のそれぞれの在り方を認め合い、そこの在るものとして認識していく、その容認するという行為が、世の不寛容さを少しでも消滅させていくことに役立つのではないかという熱い思いを感じることが出来た。

最後まで姿を現さないタチバナであるが、不在の者が影響を行使する不思議を感じつつ、劇団の演出家が「タチバナと呼んでみてくれ」と問う姿を見て、この物語は演劇の力を再認識するための大きな仕掛けでもあったのだと気付くことにもなる。秀作であると思う。

三谷幸喜は発表する作品ごとに、新たにチャレンジするテーマを自ら設定していくが、本作は題名に堂々と謳っているように、「90ミニッツ」という時間内で物語が完結するという命題に取り組むことになる。キャストも同様であるため、「笑の大学」に倣った構成で展開されるのかと思いきや、一度も暗転を挟むことなく、90分ノンストップで舞台は進行していく。西村雅彦と近藤芳正は、一度も舞台を外れることがない。

90分間、ドップリと作品世界に没入した。唸った。自分の倫理観がグラグラと揺り動かされた。観る者を安住させることのない究極の問題を矢継ぎ早に繰り出しながら、自分だったら一体そこでどういう決断をするのかを常に問われ続けていくため、観ていて気の休まる状態が訪れることはない。

西村雅彦が医者、近藤芳正は子どもが事故で瀕死の状態にある父という役回りを演じる。90分とは上演時間そのものと、その子どもの命が維持出来るであろう、ぎりぎりのリミットを表す時間双方の意味が掛かっていることが、次第に分かってくる。何故、ぎりぎりなのか? その理由は、手術に同意する書類に父親が承諾のサインをしないと主張しているからだ。手術をすれば生還出来る状態だと言うのだが、時間は刻々と過ぎていく。

手術をしたくない理由は、他人の血が子どもの体内に入るからだと父は言う。それは信奉する宗教に因るもののようだが、こうして冒頭から、価値観による見解の相違が観客に叩き突けられる。自らの血肉を他者と交わらせないことが、来世の幸福へと繋がるのだと信じる人に、手術の効能を説くことは困難を極める。折り合う接点のないまま、論議は平行線を辿っていく。

終始、舞台前面の上方から、まるで砂時計のように、一筋砂が落ち続けている。このシンボリックな仕掛けは物語に客観性を与え、静謐さの中にも、贖えぬ神秘性をも醸し出すことになる。

生死を賭けた攻防は、決して止むことなく、徐々に二人の心理的内面へとダイブしていく。頭の中とは裏腹に、子どもを助けたいと思う父が繰り出す舌鋒。あるプライベートの状況が、患者を助けるという使命を凌駕していると語る医師。精密に書かれた地図を辿っていくがごとく一分の隙もない両者の応酬に、目が釘付けになっていく。張り詰めた緊張感は解かれることなく、ますます緊密さを増していく。

西村雅彦が、高潔な使命と個人的な思いとの間で逡巡する医師を、実に人間臭く演じており、作品にふくよかな温かさを与えている。近藤芳正は、一見狂信的とも見える役どころだが、心の奥底に秘められた本心との間で揺れ動く様が、緊迫感を更に増幅させていく。

ずっと落ち続けていた砂が、ある瞬間、スッと引いていく。子どもの命が限界にまで追い詰められていることが、視覚的に飛び込んできて、ドキッとさせられる。二人は、果たしてどのような判断を下すのか、固唾を呑んで見守ることになる。そして、自らにも問うていくことになる。自分が医師の立場だったら、父の立場だったら、この状況でどんな結論を導き出すのであろうかと。

どんどんと虚飾の体裁が剥ぎ取られ、核となる真情だけが舞台に浮き彫りにされていく。そして、登場人物のみならず、観客の真情をも剥き出しにしていく、この凄さ。助けなくてもいい命は、一体あるのであろうか? 理詰めで追い込まれていくので、もはや逃げ道は何処にもない。この感覚は、体感しないと分からない。

最終局面で、ある決断が下されることになる。人間の良心が問われた結果が露わになった瞬間だ。ホッと胸を撫で下ろしもするが、それは、実にビターで、心残りの残滓が零れる結果でもあった。生きているその一瞬一瞬を、後悔することなく判断をしていかなければならないのだという痛烈なメッセージを叩き突けられ、リアル世界へとその思いを持ち越していくことになる。

観ている者全ての心を終始鷲掴みにし、否応なく作品と対峙させ、胸を抉り、捕らえて離すことがない、秀作だと思う。

オープニング、出演者全員が音楽に合わせてゆったりと身体をくゆらせながら踊る、あの、独特の浮遊感ある群舞で幕を開ける。あー、第三舞台が還ってきたのだという感慨が胸を突く。多分、かつての舞台を観ていたのであろう劇場に馳せ参じた観客たちも、同じ様な思いを共有しているのだということは、会場内に立ち上る空気感から容易に察することができる。演劇公演というよりは、信者の集会のような感じさえ漂ってくる。

現代から物語はスタートする。取引先の息子が自殺してことで葬儀に集まった大人たち。出演者は全員が喪服だ。そこで、亡くなった青年がWEB上に書き残したブログが話題となるが、そこで舞台は一気に時空を超え、遠い未来の地球が支配する惑星へとその場を移すことになる。どうやら、その惑星の人間も、そのブログを読んでいたらしいのだ。その後、その内容に深く言及することはないのだが、WEB上に残された言葉が生き続けるというその1点に於いて、鴻上尚史がこの「封印解除&解散公演」に託した思いが見て取れる。

惑星には、大高洋夫演じる地球の軍人、小須田康人演じる惑星の首相、筧利夫演じる記憶を無くした地球の墓守&反乱者が存在する。そこに、長野里美演じる地球の研究者が到着する。その世話を焼くのが山下裕子演じる惑星人で、その息子を高橋一生が演じる。その息子は、後に首相の秘書となる。筒井真理子は、他の惑星から来た謎の女として登場する。

研究者は、この惑星に訪れた地球人が見る幻想が、自殺率を高めているその理由を探りに来たのだということが分かってくる。何週間後かに地球の支配者が訪問するまでに、その原因を解明できなければ、この惑星から地球は撤退する決断を下すらしいのだ。だんだんと「支配者」と「被支配者」という関係性が浮き彫りになってくる。そして、支配が始まって60年というキーワードから、この状況が「アメリカ」と「日本」のメタファーだと気付かされることになる。

そうした社会的な枠組みの中に、幻想という個々人の想念が織り交ざられていく。この想念はあくまでも、個人史に組み込まれている主観的なものであり、度々訪れては、心の片隅に追いやられていた苦い思い出を開陳させられることになる。そのスポットにはまると、人は、現実と幻想の区別が付かなくなり、自殺へと導かれていくことになるのだ。忘れようとしていた過去と向き合い、それを整理し、そして、それを乗り越えようとする、今を生きる自分たちの姿が合わせ鏡のように、隠喩として差し挟まれていく。

「日本」の在り方と、「個人史」=“これまでの活動”を、クロスさせることで、鴻上尚史は、これからの自分たちの行方を模索しているようにも思えてくる。そして、それは、正解のない永遠の問いかけのような気さえしてくるのだ。表層的な擬態の奥に潜む思想が零れ落ちていく様は、まさに第三舞台独特のアプローチ方法である。

また、演じ手の表現手段も、この劇団ならではのオリジナリティーを獲得していたということに、改めて気付かされることにもなる。コントかとも思えるようなセッションを積み重ねていく内に、ある瞬間、物語の根幹とスパークして、その真髄部分を謳い上げるという様な鮮やかな飛翔を魅せていくその力技は、もはや、お家芸とさえ言えるのではないだろうか。

自殺の要因は、遂に突き止められる。深呼吸をして、“あるもの”を吸い込んでしまうことが、そのきっかけを作り出してしまうのだ。その“あるもの”に託されたのは、「アメリカ」の文化? あるいは、2011年に起こった未曾有の惨事の代償? 様々な事柄が、頭の中を駆け巡る。

かつて時代を牽引した寵児は、冷静に時代と人間を捉え、自らの“想い”を吐露し、観客に提示していく。敢えてSFというシチュエーションを創り出すことにより、ノスタルジックな「封印解除&解散公演」という思惑を取り払おうとする意思は感じられるのだが、物語の奥底に秘められているのは、やはり、過去との決別と、そして、これからの半生をどう生き抜いていこうかという決意宣言に思えてならない。

我々はその“想い”をしかと受け取り、明日からの生き様に活を入れ直す準備をしなければならないのかもしれない。もはや、世の中は単純な構造物でないことは重々承知の年代だ。タンクにチャージする燃料は、希望と共に、きっと、絶望をも抱合して背負っていかなければならないのだろう。背負う荷物も、皆、様々なのだろう。でも、しなやかに生きていこう。そんなことが思えたステージだった。お疲れ様でした。そして、これからもヨロシク。

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