開場中から劇場内は、ポップコーン・ガールによって温かな雰囲気が醸し出され、観客との間に妙な一体感が生まれているが、その空気感は、ステージがスタートしても途切れることなく、舞台の進行と共に更にボルテージをアップさせていくことになる。観客がもう、既に前のめりで楽しもうという思いで来場しているのだ。こういうプログラムは、有りそうで、なかなか無い。
1973年にロンドンで産声を上げた本作は、その翌々年には、日本でも来日公演が行われ、映画版も公開されている。以降、今日に至るまで、コンスタントに日本版キャストでの上演が繰り返され、映画版も度々レイトショーなどで上映されるなどして、「ロッキー・ホラー・ショー」は、確実に日本におけるファン層を広げてきたのだろう。作品の観方、楽しみ方などが、脈々と伝授されてきたに違いない。
嵐の晩、恩師に婚約を知らせるため車を走らせていたブラッドとジャネットだが、車がパンクしてしまい、雨の中、走行中に見かけた古城まで電話を借りに歩いて戻ることになる。その車が走る光景や、二人が歩く回りの風景が映像で表現されるのだが、この手法がいい意味で作り物の世界へと観客を自然に誘うこととなり、また、映画版のイメージも彷彿とさせられ、実に効果的に作用していく。スッと作品世界に入り込んでいくことが出来るのだ。
ブラッドとジャネットが新聞紙を頭に被り、雨の中を歩くシーンでは、観客たちも客席で用意しておいた新聞紙を頭の上に載せていく。もう、滅茶苦茶ドップリと作品に参加しているではないか! この後、古城で何が待っているのかは、観客の大半の人は分かっている。リチャード・オブライエンの秀逸なメロディーに乗り、嫌が上でも期待感が盛り上がっていく。
岡本健一演じる執事のリフラフに古城に招き入れられ、不気味な使用人たちが登場していく中、古田新太演じるフランクン・フルターの登場で、興奮はピークに達していく。身体を絞ったのか、黒のガーターベルトもしっくりと馴染み、妖しさにコミカルなテイストを掛け合わせながら、観客のハートを鷲摑みにしていく古田新太。
作品を、変にセクシャルな方向に傾きさせ過ぎず、ギリギリのところで品性を保っているのは、この古田新太の存在に他ならない。身体から発するオーラには、常にユーモアがまぶされ放熱しているため、観客は、この物語を楽しんで笑い飛ばすことが出来るのだ。
演出のいのうえひでのりの手腕も見所である。映像を駆使しながら映像慣れした観客のつぼを抑えつつ、装置や衣装や小道具など、舞台上に集積されたあらゆるガジェットたちをPOPに色付けし、存在するもの全てをエンタテイメントとして昇華させていく。多種多様な切り口から、作品が楽しめる工夫は施されているのだ。更には、ガジェットと称するのは大いにははばかれるが、初代フランクン・フルターの藤木孝、そして、前回までのフランクン・フルターで役であるROLLYが同じ舞台に存在していること、そのセンス自体がちょっとした驚きであり、事件であると思う。
名曲揃いの楽曲が弾けまくる中、ステージはエンディングまで一気呵成に雪崩れ込んでいく。観客のパワーとの相互作用で、テンションは下がることなくヒートアップし続けていった。何だか、信者の集会に参加したような気分だ。しかし、観客として居ながらも、大いにパワーを発散出来たことで、もの凄い爽快感が襲ってくるのだ。こんな観劇体験、そうそうあるものではない。コンサートに近い感覚かもしれない。理屈抜きで、大いに楽しませてもらえる、稀有なプログラムだと思う。
観劇当日は、クリスマス・イヴ。カーテンコールでは、クリスマスソングを演奏するという粋な計らいもあった。また、ブラッド役に中村倫也が誕生日だということで、ステージ上でお祝いも開かれた。最後の最後まで、楽しさ満載のエンタテイメントでした!
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