2018年 12月

フェリーニの名作「道」を舞台化するとは、何と大胆なプロジェクトなのであろう。デヴィッド・ルヴォーはかつて、フェリーニの「8 1/2」を原典とするミュージカル「ナイン」を演出したことがあるが、そんな縁がこの企画実現に結び付いたのであろうか。フェリーニを経験したデヴィッド・ルヴォーが立ち上げた音楽劇に、観る前より期待感が高まっていく。

劇場内に入ると、舞台上に円形のアクティング・エリアが設えられており、その奥には客席が存在しているため、演者は死角を持つことはできない設定だ。しかし、観る者、観られる者がはっきりと分かれていない空間には、何故かしら一体感が立ち上がる空気感が劇場内を覆っていく。

カラフルな色彩がステージを彩り、衣装はリアルさにファンタジーの要素が配されたハッピーな空間がクリエイトされている。フェリーニが描いたネオリアリズムの世界が、音楽劇のメロディも相まって、祝祭空間へと転じていく。舞台化するにあたり、オリジナルのテイストを変換し、独自の世界観を展開していくのだという姿勢が明確に刻印されていく。

ザンパノを演じるは草彅剛。サーカスで怪力をウリとする芸人だ。アンソニー・クインと比較すると大分イメージは違うが、マッチョに身体をつくり上げた存在感は強烈で、作品の中心にしっかりと屹立している。横暴でぶっきらぼうだが、根の優しさが染み出る人物像を重層的に創造し見事である。そして、やはり、華がある。

そのザンパノに金で売られ助手を務める少女ジェルソミーナを担うは蒔田彩珠。舞台初出演というフレッシュさが無垢な役どころとリンクする。ジュリエッタ・マシーナのインパクトは無いが、ザンパノを疎ましく思いながらも、段々と意思を疎通させていくプロセルを丁寧に紡ぎ、観る者の憐れを掬いとる。

海宝直人は閉塞感あるジェルソミーナの世界の傍らに咲く、一輪の花の様な存在、サーカス仲間のイル・マットを演じていく。もしかしたら、この苦しい現実からこの男が救い出してくれるかもしれないという天使の役割を担い、作品に清涼感を付与していく。

映画にはないキャラクター、モリエールを佐藤流司が担っていく。作品の周縁に立ち、物語を脇から支える存在は、同作に於いては重要なファクターとなっていく。映画とは表現を異にするのだというクリエイターの思いが込められたこのモリエールは、哀しさの中にある光明を浮き彫りにし、作品に重層的な奥行きを与えていく。

集客は大半は草彅剛が担っているのだとは思うが、そのことが新鮮な逸材が登用出来るプロジェクトが成立する基盤を醸成している。この新鮮な布陣は、観客に予測不可能なサプライズを与え、俳優と観客とが良い化学反応を起こし、劇場内が沸騰する。

モノクロームの古典的名作を、現代の視点で色鮮やかな音楽劇として蘇えらせたデヴィッド・ルヴォーは、また、新たな地平を開拓することになった。デヴィッド・ルヴォーの作品選びは、独特の感性が光っていると思う。次回はどんな作品を創り上げてくれるのか、期待値は上がる一方だ。

三谷幸喜の新作タイトルは、何と「日本の歴史」。何とも大胆で、挑戦的とも言えるタイトルに観る前からワクワク感が止まらない。しかも、ミュージカルであり、華と実力を兼ね備えた俳優陣が居並んでいる。期待するなという言う方が無理と言うものだ。

さて、幕が切って落とされると、テキサスから物語が始まることに度肝を抜かれた。そうですよね。完全に狙っていますよね、観客の創造を裏切ることを。「日本の歴史」のスタートが、アメリカなんですよ。しかし、日本ではない地点と日本とが照射し合いながら舞台が展開していくことで、日本という存在がくっきりと浮かび上がる効果を発していくのが見事である。

テキサスのパートは、オイルダラーに沸く時代を背景に据え、地主一家と小作人一家との関係性の変遷を描いていく。小作人の次男は、映画「ジャイアンツ」のジェームス・ディーンのようにオイルの源泉を掘り当て、地主との立場が逆転するという展開を示していく。また、家を出た三男が後にエンタテイメント業界で名を馳せるという展開においては、アメリカン・ドリームの一端が描かれていく。成功とその裏に潜む孤独や確執とが綯い交ぜになって観客に提示されていく。

日本の歴史を、歴史の先生が紐解いていくという展開も面白い。テキサスのパートはある一家の物語であるのだが、日本は邪馬台国の時代から近代に至るまでの様々な時代を斬り取って見せていく。作品の構造が幾重もの事象が絡み合って創造されていく様が実にスリリングだ。

それぞれの国や時代をブリッジしていくのは「INGA」という歌唱が肝となる。「大切なのはINGA=因果」と作品の中で最多5回もリフレインされるナンバーに、作品のメッセージが込められている。時や場所は違えども、様々な事象が何らかのカタチで連綿と繋がっているのだというのだという「INGA」を受け入れることで、時代の時間軸がパースペクティブに拡大していくのを体感することになる。

荻野清子の音楽は耳に心地良く、頭の中で後々までリフレインする程印象的だ。三谷幸喜の思わず聞き入ってしまうような詩の世界を、実に丁寧に観客に分かりやすいメロディにして表現していく。生演奏で音楽が奏でられるのもライブ感たっぷりで、ミュージカルの醍醐味を感じさせてくれ何とも楽しい。

7人の俳優が時空を超え、実に様々な役どころを担い、10役近い役柄を演じる俳優も多々いる。観客は楽しんで観ていられるが、俳優陣は瞬時に変転し続けるシーンの段取りをこなすだけでも大変なのではないかと思ってしまう。しかし、そんな大変さを、そうとは見せない歌舞伎の早変わりにも似たパフォーマンスにて、観る者を嬉々とさせていく。

中井貴一の軽妙洒脱な存在感が作品に通底するトーンと共鳴し、歴史の只中で右往左往する人間たちにリアルな存在感を吹き込んでいく。香取慎吾、お元気にやっていらっしゃるんですね。まずは、そのことに少々感慨深く感じ入ってしまった。しかし、流石にエンタテイナー。様々な抽斗を広げながら、作品世界を福与かに押し広げていく。しかも、当然のことながら華がある。

新納慎也があまり格好良くない役割を演じるのが新鮮で、三谷幸喜作品は常連の川平慈英やシルビア・グラブの悲喜劇を超越した卓越したパフォーマンスが作品のクオリティをグッと引き上げ、宮澤エマや秋元才加のフレッシュな存在感が作品に清廉さを与えていく。俳優陣の個性が際立つと同時に、これまでのイメージとは異なる魅力を引き出す三谷幸喜の才には相変わらず驚嘆する。

時空を超えた様々な時代が繰り広げられ展開していくスピード感が楽しく、教条的なものは一切排除された歴史娯楽作として秀逸であると思う。血縁、奇縁、金銭、国家、戦争、神など、生きとし生ける者を覆うファクトが無理なく詰め込まれているのが見事である。個人的に好きなフレーズがある。「人生で大事なことは、人生で大事じゃないこと」。この言葉に何だか勇気づけられるような気がするのだ。

宮藤官九郎がシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を手掛けるという点において興味津々。「マクベス」を換骨奪胎した「メタルマクベス」の記憶も新しいが、「ロミオとジュリエット」をどのように料理するのか嬉々として劇場へと向かうことになった。

キャストにも宮藤官九郎ならではの目利きが効き、期待値が更に高まっていく。ロミオにキャスティングされたのは何と三宅弘城。いわゆる二枚目俳優が担うことが多いロミオであるが、従来のイメージを覆してくれるのが何とも楽しい。ジュリエットは初舞台の森川葵。ここにはフレッシュな印象の新進女優が配されることになった。

物語がスタートすると、原典である「ロミオとジュリエット」のテキストを基本的には遵守する展開に少々驚いてしまった。宮藤官九郎は、松岡和子翻訳の台本をほぼ忠実に再現していく。「メタルマクベス」のアグレッシブな創作の残像が少しづつ取り払われていく。

但し、従来のクドカン演劇と同様に、俳優陣の弾けっ振りは健在だ。皆が、自分の出番を最大の見せ場としてパフォーマンスしていくため、登場人物全員の個性が真正面からごつごつとぶつかり合う、その化学反応が何とも可笑しい。振り切った演技合戦に思わず笑いが零れていく。

また、状況を分かりやすく伝えてくれる演出の術が、作品の戯画化をさらに爆裂させることになる。例えば、モンタギューの者が「モンタギュー!」と、キャピレットの者が「キャピレット!」と一声を発していくなど、一見分かり難い人物関係がパッと明示されるため、作品世界にグッと入っていきやすくなる。また、それがふざけた感じの効果を発していくことももちろん計算済みの演出なのであろうが、違和感なく笑いへと転化させていく役者陣の底知れぬパワーを浴びるのが、また快感なのだ。

あれ、こんなシーン「ロミオとジュリエット」にあったのだろうかという場面にも出くわすことになる。結婚式に訪れる楽士のシーンだ。このくだりはカットされてしまうケースが多かったのではないだろうか。結婚式に呼ばれて来たと思ったら、そこは葬式になっていたという何ともアイロニカルな局面。ロミオとジュリエットが凄まじい勢いで駆け抜けた残滓として、この置いてきぼり感が切ない笑いを生むことにもなる。

観進めていく内に、三宅弘城のロミオはありだなと感じ入ることになる。ジュリエットに対する強烈な思いはぶれることなく、恋する男のいじらしさについつい共鳴してしまう。自らは果たすことが出来ない悲恋の悲劇を、憧憬とはまた違った親近感ある存在感で自分と身近な出来事のように感じさせてくれるのだ。三宅弘城がロミオにキャスティングされることで、従来の「ロミオとジュリエット」像の既成概念が打ち破られたと言えるのではないだろうか。

マキューシオの勝地涼、ティボルトの皆川猿時、大公の今野浩喜の、最大限にバロメーターを振り切ったかのようなパワー全開の弾けっぷりが面白すぎる。また、ベンヴォーリオの小柳友、パリスの阿部力のイケメンもそのパワーの渦に上手く巻き込まれ、連帯感あるスクラムを組んでいる。

森川葵の清楚さ、安藤玉恵のコケティッシュなコメディエンヌ振り、田口トモロヲの安定感あるキレ具合の他、よーかいくん、篠原悠伸、安藤玉恵、池津祥子、大堀こういちなどの強烈な演者の個性も相まって、多様な側面から演技が楽しめるエンタテイメントとして成立している。

従来のシェイクスピア演劇上演の概念を覆す、観客を楽しませることに徹した娯楽作品として大いに楽しめた。自作以外の作品を手掛けることで、更なる才能の片鱗を開陳した宮藤官九郎の次回演劇公演にも大いに期待したい。

ヘンリック・イプセンが著した「民衆の敵」は1882年と今から130年以上も前の時代設定なのであるが、今、観ても何ら古びることのないその内容に驚愕すら覚えてしまう。事実よりも個人的な意見が影響力を持つ“ポスト・トゥルース”の時代、生きとし生ける人間たちを覆う政治的・社会的な閉塞感は、世紀を超えて2018年の観客たちの意識にシンクロする。

舞台は温泉が発見されたノルウェー南部の町。町中が観光誘致の期待に湧いている中、温泉が汚染されている事実を医師が突き止めてしまう。その要因は妻の父が経営する工場の廃液であることが分かってくる。医師は兄である市長に進言するが、公表しないよう説得される。

かなり深刻な社会派ドラマの様相を帯びているが、イプセンの視点は一段高い場所から人間たちが右往左往する様を見つめていくため、悲劇を超えた喜劇的なニュアンスが浮かび上がってくる。物語を善悪という物差しだけでは測らない、いや測ることが出来ない人間社会の矛盾を突いて面白い。その振れ幅をジョナサ・マンビィの演出、堤真一を始めとする役者陣が的確に捉え表現していく。物語に膨らみが生まれてくる。

医師は町の新聞社にこの事実を伝え、編集長や記者は公表しようと奔走するが、町の発展の機会を損ねるという市長の言い分に平伏してしまう。長いものに巻かれた訳だ。市長の様子を伺い忖度するマスコミの姿勢を見て、あれ、これ、現代の話?と思ってしまう位の違和感の無さに自嘲気味な笑いが零れてくる。

民衆の描き方も秀逸だ。ギリシア悲劇のコロスの様な存在の民衆であるが、黒田育世の振付が民衆たちの思いを分かりやすい所作で描いていく。この民衆であるが、医師と対立する立場として描かれていく。この風評に傾斜する民衆の浅薄さは、観ていて何とも胸に痛い。この民衆たちに医師は「民衆の敵」と呼ばれることになる。

配管でステージ周囲を覆ったポール・ウィルスの美術も印象的だ。水の存在を間接的に感じさせる表現が、観る者の創造力を喚起させる効果を発していく。

医師を演じる堤真一が、人間の様々な側面を表出させ楽しませてくれる。隠蔽をディスクロージャーする実直さ、それを声高に謳うある種の正義感の突っ走り具合など、緩急織り交ぜながら重層的な医師像を構築していく。

市長の段田安則の存在が作品に強靭な安定感を付与している。市長は市長なりの信念があるのだということをぶれずに演じていくため、医師との対立構造が実にスリリングなのだ。

コロコロと立場を翻す編集長役を、谷原章介はカリカチュアライズされた演技で挑んでいく。深刻な顛末をフットワーク軽く潜り抜けていくため、可笑しみさえ感じていく。

木場勝己が人間が本来持ち得る良心を、代表して担っているかのようだ。医師を擁護し続ける立場を決して変えることがない。正義感溢れる言動に説得力を持たせ作品に希望を与えていく存在として揺るぎない。

多数派が正しいわけではないのだと分かってはいるのだが、実際その渦中に居ると、ついつい時世に流されてしまう人間の弱さを提示し秀逸である。どの立場や意見に寄り過ぎることのないバランスを保ちながら生きていきたいと切に願う自分に気付かされた作品でもあった。

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