2007年 9月

10月3日(水) 全国書店にて発売開始!

可愛い本が出来上がりました!

鑑定士・光凛先生の、暖かな愛がぎっしり詰まった人生ナビゲートブックです。
光凛先生独自の視点で、「メルアド」から開運を導いていきます。

まず、今つけている「メルアド」は、どうなの? という診断から、
あなたの今の状態や気持ちを分かり易く説いていきます。

そして、「恋愛」「結婚」「仕事」「人間関係」「容姿」「生活」といった、
身近でとても気になる悩みのケーススタディを光凛先生に答えていただきながら、
自分にピッタリと合った「メルアド」を探っていきます。

へー、こういうことなのか、と、楽しくもあり、また、ちょっと驚きでもあります!

さまざまなケースに答えてくださる光凛先生のお言葉が、これまたイイんですよ。
お母さんの暖かな愛、とでもいいましょうか、
杓子定規でないストレートなアドバイスに思わず、納得、してしまいます。

本のサイズは、新書版を少しだけ長くしたようなコンパクトなサイズなので、
バッグに入れて、持ち歩くにも便利ですよ。

お友達にも、是非、奨めてあげてくださいね。
絶対に、皆にウケて、盛り上がること、必至です!

身近なアイテムで自分を占える、今までにない全く新しい「メルアド診断」です!

クサカワ ハジメ

意外にあっさりとした薄味な印象だった。おどろおどろしいホラーを想像していたのだが、吸血鬼になってしまった男の苦悩が基盤にあるため、現実を超越した絵空事のエンタテイメントへとは機軸がずれていかない。あくまでも、人間ドラマ、が中心にあるのだ。市川海老蔵という、旬の歌舞伎のエンターテナーを得たとしても外連味たっぷりの暴発はさせず、ジワジワと染み出るような哀しみや怒りに焦点を当てていく。そして、ラストでは、その動きを封じるがごとく、小さな檻の中に海老蔵を閉じ込めてしまうくらいなのだ。

この主人公を、想像の産物であるドラキュラではなく、ジャンヌ・ダルクに従う軍人であり貴族であったジル・ド・レ侯をモデルとした発想もまた、リアルである。後に、錬金術に狂い、果てには欲望のために何百人とも言われる少年たちを虐殺し死刑になった男、ジル・ド・レ侯。その破天荒なキャラクターとドラキュラをシンクロさせることで、ブラム・ストーカーが描いた吸血鬼とは、違う地点からスタートすることが出来たのだと思う。その、発想は全くオリジナルなものであり、面白いと思う。

舞台は2幕であり、前半と後半とでは、世界を異にする。1幕は、海老蔵演じるレイと、宮沢りえ演じる妻のリリスが住む家を中心に描かれていく。病弱な妻、そしてその妻を優しく見守るレイ。そして、リリスに恋慕する渡辺哲演じる医者ガミュギル、吸血鬼仲間の山本亨演じるジョンや明星真由美演じるマリーなどが、レイを悩ませる異分子として登場し、皆、それぞれのカタチで命果てていく。過去の陰惨な出来事が時折挟み込まれるが、今はあらゆる誘惑を撥ね退け妻との愛に生きるレイの姿に、これは、超越した愛の物語であるのだと感じさせてくれる。

そんな中、1幕と2幕を行き来する山崎一演じるブランシェの存在が面白い。開幕冒頭がブランシェの語りで始まることからも分かるように、彼は、伝承者なのである。ここで展開される伝説、を伝えていくという役目を担っているのだ。この語り部は、複雑な心境のレイからその胸の内を聞き出し露呈させる役割も持つため、物語は、事実と気持ちとを混然として伝えながら、より重層的になっていく。

2幕はがらりと様相を変える。勝村政信演じる領主であるアダムが、黒死病から人々を救うため、かつての妻であったリリスを屋敷に連れて来させるところから始まる。この事件を契機に、今まで沈殿していた出来事が、一気に露わになってくる。妻を連れ去られたレイは抑えていた悪を蘇らせ、またリリスの過去が炙り出されることで、前半の穏やかな日々の奥底に隠されていた毒がジワジワと染み出してくる。超越した愛には、実は訳があったのだ! それは、純粋な愛と言うよりも、贖罪に近い祈りのようなものであったのかもしれない。また、この策略を練ったのはアダムに愛されない現在の妻・永作博美演じるエヴァであり、それぞれ皆が抱える哀しみが、悪という方法をとりながら、複雑に絡み合ってくる。

皆が本性を剥き出しにしていくのだが、アダムの家臣・中山祐一郎演じるプットの存在がユニークだ。アダムの命を受けリリスを呼びに行くが、市川しんぺー演じる上役ラームが強引に連れ去るのを制止出来ず、また、息絶えた吸血鬼の血をうっかり飲んでしまったことで、図らずも自分も吸血鬼になってしまう。手塚とおる演じる司教も謀りごとに加担していた訳で、唯一、回りの出来事に翻弄されているという滑稽な役回りである。語り部は周辺で目撃していくのだが、プットは中にいて自滅し、物語全体を自家中毒から解毒してくれるような存在なのだ。中山祐一郎の軽妙さにも大いに支えられている。

冒頭、意外にあっさりとした印象であると記したが、これは長塚圭史の意図なのであろう。物語を決して大上段に構えたりしない描き方をすることが、奇妙で逸脱した者たちであっても、どこか我々と等身大な感じがしてしまうのだ。舞台で描かれることを特別視しない視点の強固な貫き方が、面白くもあり新たな可能性を感じることにもなった。

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