2017年 8月

かつて観た夢の遊眠社の「桜の森の満開の下」が、歌舞伎となって生まれ変わるとは夢にも思っていなかった。縁は繋がり、18代目中村勘三郎亡き後、野田秀樹の歌舞伎座公演は初となる。本作の歌舞伎化は、勘三郎との間で企画されていたようでもあり、念願の公演となるわけだ。

「桜の森の満開の下」は天智天皇の治世下を舞台に取り、ヒトが住む世界と鬼が住む世界とが分かれていた頃という設定が、まず、面白い。此岸と別の次元との対峙が物語を紡ぎ、ダイナミズムを生んでいく。時代性と外連味が歌舞伎という様式の中に違和感なく収焉していく。

時代設定もあり衣装は和だが、ひびのこづえの手に掛かるとオリジナリティある装いとなり独特だ。しかし、歌舞伎の衣装はそもそもナチュラルとは一線を画す仕上がりではないかと思いを巡らせる。堀尾幸男の美術は書割ではなく立体的だ。演目にパースペクティブな奥行が付加され歌舞伎の様式をグッと押し拡げていく。

台本は修正が加えられたようで、七五調の言葉が聞く耳にも心地良い。音楽・作詞を担う田中傳佐衛門の調べが歌舞伎の様式を踏襲するなど、歌舞伎と現代劇とが違和感なく融和する。視覚と聴覚がヒリヒリと刺激される。

中心に聳えるは、勘九郎。父である勘三郎の姿をオーバーラップさせて観てしまうのは私だけであろうか。勘九郎の個性でもある憎めぬ愛嬌の良さが万人を引き付ける磁力を放熱し、物語を牽引していく。運命に振りまされる役どころであるが、右往左往しながらも自力で未来を切り拓いていく強靭さに観る者もエンパワーされていく。

七之助は残虐さを隠さず放出する狂気の姫という役どころに色香漂う生気を与えていく。エッジの効いたキレ具合は可愛くもあり怖さをも秘めている。回りにいる者全てを翻弄しながらも決して悪びれることのない姫を、七之助は嬉々として演じていく。幽玄さと欲望とが一緒くたになることで生まれる魔性の女振りが、何とも魅惑的だ。

染五郎は、この8月の歌舞伎座公演は3部共出ずっぱりの八面六臂の活躍振りだが、本作では、姫に恋される二枚目な役どころを担っていく。しかし、魂胆をしっかり溜め込んだ複層的な心情を華やかな立ち振る舞いで外連味たっぷりに造形する。

野田歌舞伎は連続登板となる扇雀は威厳ある存在感で王を、猿弥が流転する運命の山賊を軽妙に演じていく。彌十郎の偉丈夫なエンマ、芝のぶのコミカルな艶っぽさも印象的だ。

傑作現代劇が美しさに磨きをかけ歌舞伎として蘇った。既に古典とも感じられるような仕上がりだと感じられるのは、演目の相性が歌舞伎とピッタリとマッチしたからに相違ない。どんなものが出てくるのかが予測できない楽しみを与えてくれる野田歌舞伎の次回作にも多いに期待したい。

メル・ブルックスの映画作品がミュージカル化されるのは「プロデューサーズ」に続いてのこと。「ヤングフランケンシュタイン」は2007年に初演され、トニー賞にもノミネートされた作品だ。映画版は観ていたのだが、どのようなミュージカルになるのか全く想像出来ないため、観る前からワクワク感が募っていく。

メル・ブルックス作品が、ミュージカル化される理由は何なのだろうか。アイロニカルな設定とブラックユーモアとの融合。そして、オリジナリティ溢れるヴィジュアル的な外連味がパフォーマンスの素材として打って付けなのかもしれないと思いを巡らせる。

舞台のオリジナル版は未見であるが、本作は福田雄一の手により、日本人にも親近感を抱かせる工夫が凝らされているのだと思われる。福田雄一のシニカルなコメディ・センスは、メル・ブルックスとの相性も良かったのかもしれない。肩ひじ張らずに観れる、日本的なミュージカルへと「ヤングフランケンシュタイン」は変貌した。

笑いの基軸を担うのはムロツヨシ。もはや、物語の展開とは直接関係ないアドリブとも思えるギャグを連発し、観客を大いに沸かせていく。少々、クドイかなとも思えるぐらいのインパクトを発していくのだが、やはり旬の御仁だけあって観客と舞台とを一体化させる強烈なパワーを発していくのは見事である。普段、舞台とはあまり縁のないであろう観客のハートもガッチリと掴んでみせる。

小栗旬は、NYで脳外科医として名を馳せているフランケンシュタイン伯爵の孫フレデリックを演じていく。小栗旬が登場すると舞台から華やかなオーラが振り撒かれていくのは、スターが成せる技であろう。祖父が亡くなり城と遺産を継がなければなならなくなったフレデリックが、トランシルヴァニアに帰還することをきっかけに物語は大きく動き始める。

登場人物たち全員がクレイジーなのは、メル・ブルックス印そのもので惹起してしまう。瀧本美織がトランシルヴァニアでのフレデリックの助手を演じるが、テンションが高まると何故かヨーデルを歌い上げるというのが奇想天外だ。ムロツヨシは代わる代わる何役も演じるという設定がそもそも面白く、役を演じるというよりもムロツヨシの七変化を楽しむという様な趣向が何とも楽しい。

フランケンシュタイン家に仕えてきた、背中にこぶのあるイゴールを賀来賢人が演じるのは意外なキャスティングだ。しかし、美形を覆い隠しクセある役どころを嬉々として演じる賀来賢人は、コメディもいける抽斗を持っているのだと確信する。フランケンシュタイン家の家政婦ブリュッハー夫人を保坂知寿の、ふてぶてしさと可愛さとが相まった存在感は強烈だ。

フレデリックが造形するモンスターを吉田メタルが担い、作品後半の物語を牽引していく。モンスターの動静が、他の人々に影響を及ぼすという儲け役をユーモアを持って演じインパクト大だ。フランケンシュタイン博士が登場するシーンは多くはないが、宮川浩は貫禄ある偉丈夫さでくっきりと博士の姿を印象付ける。フレデリックの婚約者エリザベスを瀬名じゅんが高飛車に演じる導入があることで、後に変転するエリザベスの二面性がくっきりと浮き彫りになる楽しみを観客に味合わせてくれる。

福田雄一は日本の観客が喜ぶコメディのツボをしっかりと押さえながら、俳優陣のポテンシャルを最大限に引き出すことで、オリジナリティあるエンタテイメントを造形することに成功した。ミュージカルや演劇は苦手という人も、気軽に楽しめる作品を提供できる稀有な存在であると思う。

前川知大と長塚圭史が初めてタグを組んで、一体、どのような作品が生まれるのか。才能と才能とのぶつかり合いを、しかと見届けたいという思いで劇場へと馳せ参じた。登場人物も、実力派俳優が集結した。果たして、どのような世界が現出するのかと、目を凝らし舞台を注視することになる。

物語は、地方の劇場がプロデュースする演劇を創り上げていく稽古場が舞台となる。演劇を創る過程を演劇で見せるという入子細工の構成が面白い。演劇好きの観客のハートを、グッと掴む設定に思わず前のめりになっていく。

死者の言葉が生きている人間を通して再生されるという物語を、俳優というプレイヤーが演じていくのだが、そこには、プレイ=“祈る”という意味合いも抱合されているのだということが、次第に分かってくる。演じる、そして、祈る。スピリッチュアルな領域に、物語は踏み込んでいくことになる。

演劇という虚構に、此岸と彼岸とがクロスオーバーすることで立ち上がる独特な世界は、前川知大の真骨頂だ。その物語設定を、長塚圭史が観客へと、確実にブリッジしていく。物語の奇異性に引っ張られ過ぎることなく、居並ぶ猛者たちの魅力を全開に引き出す手腕に目を見張る。

俳優陣が虚実の被膜を超越しフリーパスで行き来する光景が、脳内をヒリヒリと刺激する。観客を安穏と客席に座らせてはおかない発破を、幽玄的なニュアンスを含ませながら発していくオリジナリティある表現が新鮮だ。

稽古場が舞台という地味な設定であるが、パイプ椅子を多用したシーンを美しく現出させた乗峯雅寛の美術が大いに目を惹く。足し過ぎないシンプルさが、俳優陣の存在をくっきりと印象付けることになる。

俳優陣は、様々な出自の面々が居並ぶが、誰が突出し過ぎることないアンサンブルが見事に機能する。舞台経験が多い俳優だからこそ可能とさせる、自分と自身とが演じる役柄との距離感の取り方が、実に絶妙なのだ。

藤原竜也が醸し出す売れない俳優の燻り具合が面白い。仲村トオルが地方の俳優という役どころと劇中劇のセミナー主宰者の存在を融合させ、メインストリームから少し外れたアウトロー感を作品に沁み込ませていく。木場勝己が国民的俳優という役どころを貫禄を持って演じていく。演出家を担う真飛聖の立ち振る舞いは、イメージする演出家そのものであり、物語を脇から支える存在感を示していく。

物語の歩を進めていくに従い、成海璃子の清廉さの中に潜む妄信や、シルビア・グラブが抱える葛藤、劇場プロデューサーを演じる峯村リエの過去と真意なども絡み合い、ステージで展開される物語と、その世界に生きる登場人物たちの現実世界との間にあるであろう壁が徐々に曖昧になっていく。

創りものだと承知でその舞台を見つめる私たち観客の視点がそこに投射されることで出来上がる独特の作品世界が、本作の魅せどころだ。自らの身の置き所を模索しながら、劇世界と対峙することのスリリングさをたっぷりと味合わせてくれる。

観る者の観念を否応なしに攪拌する刺激的な逸品に仕上がったと思う。分かりやすさに重きを置かない創り手たちの果敢な挑戦が何とも心地良い余韻を残すことになった。

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