カリギュラは冷静だ。自らが手に入れた権力というものを、果たしてどこまで世の中に伝播させることが出来るのか、トップ・オブ・トップの座をどこまで維持させることが可能なのかというヴィジョンを、権力を行使した圧制下で臣下を蹂躙することにより、大いなる実験をしているのかのようなその冷静な狂喜乱舞振りが怖しくも痛々しい。
カミュが筆致する孤高の狂王は、持ち得る者だけが内包する孤独感の上に聳え立つ、まるで脆弱なオベリスクの様な存在だ。何処からでもその姿は誰の眼にも見えているのだが、近くに寄るとあまりにも高過ぎて、その突端を拝むことが出来ず、ましてや自力で昇ることなど難解不落の代物。しかも、近付いてくる者を跳ね除け、その右往左往する様を高みの見物ときている。しかし、その様を決して心から楽しんでいるわけではないことが、行き着く先のない不毛感に満ち溢れているという哀しみ。暴走し始めたその時から、静粛されるしかない運命を、カリギュラは背負っていたともいえる。
演出の蜷川幸雄は、2007年に小栗旬主演で同作を上演したが、その舞台との印象が全く違っている。当時の小栗旬の忙殺とカリギュラの苦悩とがシンクロしたポイントにフォーカスされた前作と比べ、本作はカリギュラが志向した権力の構造というものを突き詰め、切っ先鋭い視点で開陳していく点において戯曲の核心肉迫していく。そのアプローチが、さいたまネクスト・シアターの俳優陣の清冽さと相まって、様々な人間の種々の苦悩が染み出し、そこに観客の心がシンクロしていくといった具合だ。
舞台装置は背景にミラーが聳えるだけの、至極シンプルな設定だ。俳優の存在そのものが観客の前に露わに提示され、戯曲の真髄が直球で叩き付けられてくる。貴族たちが纏う真紅の衣装は、前作ハムレットからの転用であろうか。しかし、色合い、質感ともに美しく、作品を色鮮やかに彩っていく。
カリギュラを演じる内田健司は、カリスマ性ある王を造形するのではなく、また、単なる一介の若者に陥ることもない。己の内臓を自ら素手で抉っていくかのようなアプローチにて、決して辿り着くことのない高みを目指して逡巡しながら彷徨う、まるで探求者の様な在り様だ。そうなのだ、探っているのだ、探り続けているのだ。それを自らに課しながらも傍若無人に振舞う表層と、真情との歪みとの狭間に巣食う膿とが、最高権力者の苦悩とオーバーラップしスパークする。
忠臣エリコンを演じる小久保寿人の、世を拗ねながらも権力に追随する才長けた客観性が、カリギュラの中に存在する、ある種の無垢さを際立たせることになる。しかし、エリコンもまだ幼さを感じさせる側面を持っており、浅野望演じるセゾニアのカリギュラへの思い入れ度の高い知略と相まって、御しがたい荒馬のごとく暴走していく。その幼さが、人間の柔らかな、か弱い部分と呼応していく。
白川大演じるシピオンは、カリギュラの悪事をきちんと正視する。そして、父を殺された憎しみを抱えながらも、何故か狂王に惹かれていってしまうアンビバレンツな己の純粋な想いを表出させることで、理屈には適わぬ矛盾だらけの人間の多義性を提示し、作品にふくよかな感情を付与していく。
ケレアは川口覚が演じるが、カリギュラとは真反対に位置する存在で、終始、寄り過ぎることない対岸より、事の変事を是正しようと粛々と惹起する様を的確に表現していく。
本作は、権力に追随する様々な立場から幾重にも渡る視点を描ききることで、権力そのものが持つ、善悪の割り切れが出来ない矛盾を孕んだ世界観が、クッキリと描かれ白眉だ。カリギュラの生き様を精緻に描ききることで、いつの世にも通じる権力の不確かさという普遍性を活写し秀逸である。
最近のコメント