2014年 2月

カリギュラは冷静だ。自らが手に入れた権力というものを、果たしてどこまで世の中に伝播させることが出来るのか、トップ・オブ・トップの座をどこまで維持させることが可能なのかというヴィジョンを、権力を行使した圧制下で臣下を蹂躙することにより、大いなる実験をしているのかのようなその冷静な狂喜乱舞振りが怖しくも痛々しい。

カミュが筆致する孤高の狂王は、持ち得る者だけが内包する孤独感の上に聳え立つ、まるで脆弱なオベリスクの様な存在だ。何処からでもその姿は誰の眼にも見えているのだが、近くに寄るとあまりにも高過ぎて、その突端を拝むことが出来ず、ましてや自力で昇ることなど難解不落の代物。しかも、近付いてくる者を跳ね除け、その右往左往する様を高みの見物ときている。しかし、その様を決して心から楽しんでいるわけではないことが、行き着く先のない不毛感に満ち溢れているという哀しみ。暴走し始めたその時から、静粛されるしかない運命を、カリギュラは背負っていたともいえる。

演出の蜷川幸雄は、2007年に小栗旬主演で同作を上演したが、その舞台との印象が全く違っている。当時の小栗旬の忙殺とカリギュラの苦悩とがシンクロしたポイントにフォーカスされた前作と比べ、本作はカリギュラが志向した権力の構造というものを突き詰め、切っ先鋭い視点で開陳していく点において戯曲の核心肉迫していく。そのアプローチが、さいたまネクスト・シアターの俳優陣の清冽さと相まって、様々な人間の種々の苦悩が染み出し、そこに観客の心がシンクロしていくといった具合だ。

舞台装置は背景にミラーが聳えるだけの、至極シンプルな設定だ。俳優の存在そのものが観客の前に露わに提示され、戯曲の真髄が直球で叩き付けられてくる。貴族たちが纏う真紅の衣装は、前作ハムレットからの転用であろうか。しかし、色合い、質感ともに美しく、作品を色鮮やかに彩っていく。

カリギュラを演じる内田健司は、カリスマ性ある王を造形するのではなく、また、単なる一介の若者に陥ることもない。己の内臓を自ら素手で抉っていくかのようなアプローチにて、決して辿り着くことのない高みを目指して逡巡しながら彷徨う、まるで探求者の様な在り様だ。そうなのだ、探っているのだ、探り続けているのだ。それを自らに課しながらも傍若無人に振舞う表層と、真情との歪みとの狭間に巣食う膿とが、最高権力者の苦悩とオーバーラップしスパークする。

忠臣エリコンを演じる小久保寿人の、世を拗ねながらも権力に追随する才長けた客観性が、カリギュラの中に存在する、ある種の無垢さを際立たせることになる。しかし、エリコンもまだ幼さを感じさせる側面を持っており、浅野望演じるセゾニアのカリギュラへの思い入れ度の高い知略と相まって、御しがたい荒馬のごとく暴走していく。その幼さが、人間の柔らかな、か弱い部分と呼応していく。

白川大演じるシピオンは、カリギュラの悪事をきちんと正視する。そして、父を殺された憎しみを抱えながらも、何故か狂王に惹かれていってしまうアンビバレンツな己の純粋な想いを表出させることで、理屈には適わぬ矛盾だらけの人間の多義性を提示し、作品にふくよかな感情を付与していく。

ケレアは川口覚が演じるが、カリギュラとは真反対に位置する存在で、終始、寄り過ぎることない対岸より、事の変事を是正しようと粛々と惹起する様を的確に表現していく。

本作は、権力に追随する様々な立場から幾重にも渡る視点を描ききることで、権力そのものが持つ、善悪の割り切れが出来ない矛盾を孕んだ世界観が、クッキリと描かれ白眉だ。カリギュラの生き様を精緻に描ききることで、いつの世にも通じる権力の不確かさという普遍性を活写し秀逸である。

三浦大輔が創造する演劇世界は、いつもピッタリと現実と地続きで繋がっており、演劇とはあくまでも作り事なのだという概念を一気に凌駕していく。まるで、秘め事をピーピングしているかのようなスケベ心を満足させながらも、目の前で感情を露わにする人間の剥き出しの本性を目の当たりにすることで、観る者の本能を刺激していく。そのチクチクとした感情が行き交う真情の奥底に沈殿しているのは、今を生きる人々が抱える底知れぬ孤独感。その哀感が透けて見えてくる重層的な設えに、ついつい心が囚われてしまうのだ。

平田満が井上加奈子と組むユニット、アル☆カンパニーが、この気鋭の三浦大輔に作・演出を託した本作も、そこで演じられていることが現実に起こっていることかのようなリアルさで、息を潜めて事の成り行きを見つめるしかない緊迫感に満ち、思わず前のめりになって舞台を注視し続けていく。

妻の浮気に気付いた夫と、その妻との会話劇。二人の対話の中から見えてくる50歳を過ぎ、子どものいない夫婦の間に吹く獏とした隙間風が吹く光景を突き付けられ、人間関係とは、本来、個対個とが対峙することが基点なのだと言わんばかりに、観客の気持ちも逃げ場のない袋小路に追いやられていく。そこで苦悩する登場人物と観客とは、もはや一蓮托生だ。

多分、結婚して約四半世紀、大きな波風を立てることなく共に生きてきた夫婦なのであろうが、所詮、個々の人間同士でしかないことがデスクロージャーされるというその事実に愕然としながらも、二人は逃げることなく己の思念に忠実に向き合っていく。その光景は観ていてとても辛いのだが、他人の不幸を惹起する自分のネガティブな部分がムクムクと起き上がり、何故か、心地良ささえ感じていくのだ。

夫ではなく、妻が浮気をしているという設定が、面白い。そして、妻にとっても、夫にとっても、その事の顛末にどう対処していいのかが分からず、模索しながら互いと向き合おうとする姿が実にサスペンスフルなのだ。細い綱を、ビクビクしながら渡っていくかのような緊張感。多分、お互い、綱を渡りきりたいと思っているはずなのだが、初めて渡る細い路を通る、そのバランスの取り方が分からないもどかしさが、観る者にもついつい共感を与えていく。

舞台は夫婦が住むダイニングで終始展開されていく。そこで心理戦を闘わせる会話劇を俯瞰し、悲劇を喜劇ならしめる役割を担うのが、TVから流れる映像と音声だ。「アッコにおまかせ!」の時間帯に外出している妻に執拗に電話を架ける夫。「笑点」の頃には妻は帰宅しており、夫婦はお互いの腹を抉り出していく。そして、「ちびまる子ちゃん」のテーマ音楽に、二人共、ハッと我に返り冷静さを取り戻す。多分、日本人であれば誰にでも通じる、心憎いアクセントだ。

起承転結で言う転にあたるであろうタイミングで、妻の浮気相手が、ガソリンスタンドでの勤務を終えたままの作業着姿で夫婦の家に馳せ参じることとなる。茶髪のやや小太りの男の体躯が、ああ、現実にあったことなのだという、更に妙なリアルさを作品に付与していく。そして、男が、中年女を面白がって弄んでいたことが分かってくると共に、夫婦間にあった溝が少しずつ瓦解していく。“敵”の姿が明らかになったことにより、夫婦の心が共振し始めるのだ。こんな男に翻弄されていたのだという馬鹿馬鹿しさが、二人の間である種のシンパシーを獲得していくことなる。

平田満が造形する、逡巡する想いをコントロールしきれない男のもどかしさがグッと腹に突き刺さってくる。普段は穏やかで優しい夫なのであろう。しかし、最近では夜の営みはとんとご無沙汰だという、典型的とも言える夫婦の在り方が自然に透けて見えてくる。今は怒るべき時なのだから怒ろうという自分の感情をセーブしながらも、抑え切れない滾る想いを暴発させてしまうアンビバレンツさがスリリングだ。

井上加奈子演じる妻は、全面的に自分に非があると受容しつつも、起こってしまったことを淡々と語る冷静さに女性が持つ逞しさを忍ばせていく。しかし、夫との対話の間、終始、顔面がヒクヒクとするチック症状を示し、追い詰められた女の哀れを表出させ目が離せない。夫を決して嫌っているのではない、けれども充足できていない今の感情が露わになることで、女が抱える孤独感が滲み出し胸が詰まる。

間男を演じる平原テツの存在が、現代若者の等身大の姿をクッキリと作品に刻印していく。他人の弱みを蹂躙しつつ、徹底的に己の欲望を優先する浅薄さと併走しながら、わざわざ浮気相手の家にやってくるという真摯な行動を説得力を持って表現していく。母が先週亡くなったから自分の生き方を考え直さなければならないという理由も、あながち嘘とは言えないが真偽の程は分からない、そんな曖昧さを微細に演じていく。

今を生きる等身大の人間を共感性を持って描いて白眉である。三浦大輔にしか造形できない世界観に心地良く酔い痴れ、充足感を享受できる衝撃作であった。

演劇という虚構のワールドを、いかに観客に親しみを込め楽しんで観てもらえるのかが劇作者にとって最大の命題であると思うのだが、そのテーマをエンタテイメントとして見事に昇華させた本作は、観る者誰の心にもリーチする表現にて、嬉々とした楽しさを享受できる。

1977年初演の本作は、当時どのように受け入れられたのかは、もはや知る由もないが、アングラ演劇が社会に物申すアジテーションを発破する最中に、異国の地に花咲く一遍の夢物語の様な物語は、心癒され、またある意味、異質な存在感を示していたのではないだろうか。しかし、その後、自由劇場から巣立っていった多種多彩な才能が活躍する潮流を確かめるにつれ、六本木の地から発信された数々の作品群は、強烈な磁力を内包していたのだということが証明されることにもなる。

時を経て、2014年の現代においても、1970年代に書かれた1920年代のシカゴを舞台にしたフラッパーとギャングたちが織り成す、恋の鞘や当てやギャング同士の抗争などの物語が、実に新鮮に描き出されていることに驚きを隠せない。いつの世にも通じる普遍性を持ち得た作品の強靭さを目の当たりにすることになった。

台詞がシンプルで、展開もゆったりとしているので、無理なくドップリと作品世界に浸ることが出来、心地良い。いい意味で、ステージから提示される情報量が上手くコントロールされているため、観客が要らぬ思考を必要以上に働かせる必要がないのだ。要は分かりやすいということだ。

カリカチュアライズされた登場人物たちが、劇画的とも言えるクッキリとエッジの利いた人物像を造形し、オリジナリティを獲得している。かつて何処かの映画か何かで見た記憶があるようなシーンが繰り広げられていくのだが、役者陣が自ら楽器を演奏するシーンなど、ある種の異化効果とも言えるエピソードを挟み込むことで、耳にも心地良いオリジナリティある串田ワールドが造形されていく。

串田和美は作・演出の他に美術と衣装も兼任するが、可視的なる領域において徹底して自身の美学を追及していく。フラッパーたちが身に纏う衣装の美しさに見惚れたのだが、鳥居ユキの作品だと知り、上質を取り込んでいく串田の目利きに納得する。おもちゃ箱のようなキッチュで華やかな舞台美術も、目に楽しい。

様々なエピソードが絡み合いながら、その時代に生きた人々の悲哀を活写していくが、リアルと虚構の狭間に存在する俳優陣の在り方が、絶妙だ。

デンジャラスな街、シカゴの舞い降りた踊り子を演じる松たか子は男装で登場する。シェイクスピアとも少女漫画とも言えるこのシチュエーション、親和性があり実にのめり込みやすい。松たか子は、ミュージカルでも鍛えた美声も駆使しながら、物語の中軸に立ち、作品を牽引していく。恋を掴み掛かるが恋に破れる女の哀しみと、それでも前向きに生きる女を秋山菜津子が逞しく造形する。りょうの軽やかで美しい存在感も観客の目を惹いていく。男は時代の流れと共に風に吹かれて舞い散るが、女は大地に根を下すがごとくしっかりと生き続け時代を切り拓いていく姿に、串田の温かな視線を感じ取っていく。

主にギャングの親分を演じる松尾スズキが、印象的だ。鈴木蘭々演じる可憐な女性に恋焦がれ逡巡する男心がコメディリリーフを担い、作品に可笑し味を付加させる。石丸幹二演じる新聞記者はこずるい手立でスクープをものにしようとするが、最終的には長いものに巻かれてしまう小市民振りをしなやかに表現する。声量豊かな歌いっ振りも堪能できる。片岡亀蔵の品性と某国の皇太子の高貴さとが上手くシンクロしていくが、だんだんと自らのアイデンティティを見失っていく姿の中に、幸福の内に秘められた闇をカンバスに刷毛で一塗りされたかのようなアクセントを残していく。

多少冗長を感じるきらいもあるが、長じて舞台をおもちゃのごとくエンジョイする串田和美が捉える美学がキラキラと全面に押し出されたエンタテイメント作品として、万人が楽しめる作品に仕上がっていると思う。

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