2011年 8月

白石加代子の撫子は、「身毒丸」の“母”になりたいという思いが根本にあった。そして、継子への愛憎交じり合う深い情愛が、「身毒丸」が亡き母を慕う思いとスパークし、“親と子”の禁断の愛へと流転していった。二人、手を携え彼方へと去っていくラストシーンは、物語が一種の寓話となって昇華した瞬間だった。

しかし、今回の、大竹しのぶは、前作までの撫子の在り様とは大きくその存在を異にする。撫子という役柄の中から、“母”ではなく“女”が全面に押し出されてくるのだ。自分を妻としてめとった六平直政演じる夫が、夜の営みをやんわりと拒否し続けるため、撫子がだんだんとフラストレーションを溜めていくのが見て取れる。

その吐き出し口のない撫子の“女”の資質が、そのまま身体の奥底に蓄積されたまま、自分を決して“母”として受け入れることのない「身毒丸」に、憎しみとしてぶちまけられていくことになる。その時の「身毒丸」の存在は、もはや、子どもではない。別人格を持つ、一人の男として撫子は対峙していく。

片や、生身の女の愛憎に「身毒丸」は打ち砕かれながらも、身を持って受容していかざるを得ない状況へと追い詰められていく。二人で抱き合うシーンの撫子は、“女”そのものである。そこに、禁断の果実が花開く。

撫子は、決して愛を見出そうとした訳ではなく、自分の意識を保つための平衡感覚のようなものを、「身毒丸」に求めていたのではないだろうか。しかし、この歪んだ関係性の構図は、最後まで撫子の腑に落ちることはなく、女”は“鬼”となり、そのじゅくじたる思いを、家を崩壊させるという手段で解き放つことになる。大竹しのぶが、繊細な官能性を持って、“鬼”と化した“女”をド迫力で演じ独壇場だ。唯一無二の至芸を堪能する幸福感に浸っていく。

六平直政演じる夫は、痴呆老人の様な有様で乳母車の乗せられ、無残にも打ち捨てられた最期のその姿が哀れで滑稽だ。世間様の目を気にし、妻との営みよりも“家”の存続を優先したことが“鬼”の逆鱗に触れてしまったに違いない。

夫も妻も、押さえ込んだ感情の持っていきどころを逡巡した挙句が、“家”の瓦解へと繋がっていったのであろう。ただ、“家”を守ろうという思いが引き起こした哀れな末路に、“家制度”の矛盾と限界も見えてくる。日本の基盤であるとも捉えられる“家制度”について、大きな疑問符が投げ突けられる。

矢野聖人が演じる「身毒丸」は、子どもと大人の間の微妙な時期を掘り起こし、武田真治や藤原竜也とは、また違ったアプローチを見せていく。凛とした存在感が清潔感を漂わせ、だんだんと撫子を受け入る「身毒丸」に説得力を持たせていく。但し、本人の資質であるのか、消し去ることの出来ない自我が時折見え隠れするのだが、その自我が吹っ飛んだ時に見せる集中力には惹き付けられるものがある。そこが、課題なのかなとも思う。

蘭妖子と石井愃一の続投は、作品に安定感と安心を付加するが、大竹しのぶによって持たらされた人間のナマナマしいリアルに、ことさら影響を受けることはない。これまで造形されてきた仮面売りと小間使いのスタンスを貫いていた。

本作は、寺山修司の原本に近い戯曲が台本として採択されているが、これまでと大きく違うのは幕切れのシーンだ。恋の道行という叙情的な結末ではなく、永遠に断ち切ることの出来ない“想念”がグッとフューチャーされ、観客に対しザワザワとした胸騒ぎを引き起こしていく。前作までの「身毒丸」とは、全く異なる幕引きが用意されていたのだ。驚いた。大竹しのぶを得て、「身毒丸」は単なる再演ではなく、新たな「身毒丸」へと進化した。

暗転になると大音響で音楽が鳴り、パッと明かりが入ると、長澤まさみ演じるケータイ作家と、リリー・フランキー演じる作家のゲイの友人が、トークショーを行っているシーンが活写される。それぞれがてんでにコメントを放つと、また暗転。そして、トークショーのシーンという循環が数回繰り返される。話を中断するようなこの場面展開に、表層的で浅薄な会話を、作り手が意図的に遮っていくという、登場人物たちに向ける本谷有希子のシニカルな視点が冒頭から炸裂する。

トークショー終了後に、話はいよいよ本題へと向かっていく。参加者の皆に帰りがけに渡したクッキーか何かの袋に、作家の熱狂的な支持者と思われる人にだけ、「再度、この場に集まって欲しい」という旨のメッセージを入れたらしいのだ。そして、一人、また、一人と参加者がライブハウスへと戻ってきて、円陣に組まれた椅子に座って、次に何が起こるのか、固唾を呑んで見守ることになる。観客も、呼び戻された参加者と同様に、これから何が起こるのかが、全く予想できない。

そして、だんだんとファンが再召集された意図が明かされていく。そもそも一連の出来事は、一編集者の思いつきから始まったことらしく、落ち目の作家のこれまでにない側面を出した「告白本」を作り、一発狙おうという魂胆がそこにはあったようなのだ。しかし、それぞれに思いは散逸し、だんだんと人間の裏面に巣喰う悪意が露見し始め、当初の意図を超越して、誰もが予想だにしなかった方向へと、大きくベクトルが揺り動かされていくことになる。

ここで喋ったことが本になっても構わないというような趣旨の念書を、ゲイの友人が参加者に強制してサインさせようとしていくと、だんだんとその場に不穏な空気が流れるようになり、一旦、散会となる。しかし、始発の電車を待つために参加者たちが移動したカラオケボックスに、作家とゲイの友人が乱入したことにより、またもや、ライブハウスへと場を戻して、第二ラウンドのゴングが鳴り響くことになる。徹底抗戦、である。

作家は自らの主張を参加者たちに叩き突けていく。「目に前にいる人間に嫌いだはっきりと言うことができないくせに、自分の主張で説得させることなんでできない」と、ネット上の彼岸でこれまで安穏と意見してきた輩に対して、怒りを露わにする。「なぜそんなに自分の意見を聞いてくれると思っているのでしょう」とアジテートし、「気づいてください。人と人とが繋がりたいなんて暴力なんです」と断言する。バーチャルをリアルの場へと引き摺り出し、仮想世界でどんどんと肥大化する言葉の連鎖を、あたかも正義であるかのように振りかざす、コミュニティーの奥に潜む空虚さを暴露していく。

ネット上における人と人との繋がりを冷静に見た場合、匿名性を確保した上で好き勝手に発言する姿勢を「悪」と捉える本谷有希子の視点は、新鮮、且つ、快哉を叫びたくなるようなスカッとした心地良さを感じさせてくれた。バーチャル世界は一種のオブラートにでも包まれたかのような安全地帯であるが、そこの住人たちの、まるで霧が掛かったかのように一向に真意が見えない、その不気味さの“核”がだんだんと露見していく。

恫喝し続ける作家は、悪人なのか。はたまた、被害者なのか。そして、作家は、本当は何を「告白」したかったのか。また、参加者たちは、どういう思いでここに集い、こんな事態に巻き込まれているのか。

切っ先鋭い刃を放つ作家とそのゲイの友人に対して、「悪意」の報酬はブーメランのように舞い戻ってくることとなる。その「悪意」に対して、最後まで挑み続け拮抗していくか、見事に振り切って走り抜けるのかという局面に、真っ向勝負で挑んだ二人は、こてんぱに打ちのめされることになる。友人はオイディプスのように自らを罰し、作家は、自らが「善」であるというスタンスを崩すことなく、そんな状況を逞しくも笑い飛ばして突き放す。

初舞台の長澤まさみは、ドロドロな女の心情を、その美しい肢体が中和させるという効果を生み出した。旬のスターがこの作家という役を演じることで、設定のリアルさが少し現実から乖離し、かえって作家の心情が伝わり易くなったと思う。リリー・フランキーの存在感は、圧倒的なパワーを持って舞台を席巻する。役者業には出せないナマっぽい心情が零れて観客の心を掴んで離さない。成河、安藤玉恵、吉本菜穂子が脇をガッチリと固めて、作品に安定感ある均衡を付与し、若手役者陣の個性が、リアルな今の時代を投射していく。

本作は、情報を発信していく者たちの、ネット時代に対峙する心情と覚悟が染み出る、旬な逸品だ。本谷有希子のリアルを見つめるこの意地悪な視点は、後引くクセになる面白さに満ちている。爽快感溢れる、快作である。

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