白石加代子の撫子は、「身毒丸」の“母”になりたいという思いが根本にあった。そして、継子への愛憎交じり合う深い情愛が、「身毒丸」が亡き母を慕う思いとスパークし、“親と子”の禁断の愛へと流転していった。二人、手を携え彼方へと去っていくラストシーンは、物語が一種の寓話となって昇華した瞬間だった。
しかし、今回の、大竹しのぶは、前作までの撫子の在り様とは大きくその存在を異にする。撫子という役柄の中から、“母”ではなく“女”が全面に押し出されてくるのだ。自分を妻としてめとった六平直政演じる夫が、夜の営みをやんわりと拒否し続けるため、撫子がだんだんとフラストレーションを溜めていくのが見て取れる。
その吐き出し口のない撫子の“女”の資質が、そのまま身体の奥底に蓄積されたまま、自分を決して“母”として受け入れることのない「身毒丸」に、憎しみとしてぶちまけられていくことになる。その時の「身毒丸」の存在は、もはや、子どもではない。別人格を持つ、一人の男として撫子は対峙していく。
片や、生身の女の愛憎に「身毒丸」は打ち砕かれながらも、身を持って受容していかざるを得ない状況へと追い詰められていく。二人で抱き合うシーンの撫子は、“女”そのものである。そこに、禁断の果実が花開く。
撫子は、決して愛を見出そうとした訳ではなく、自分の意識を保つための平衡感覚のようなものを、「身毒丸」に求めていたのではないだろうか。しかし、この歪んだ関係性の構図は、最後まで撫子の腑に落ちることはなく、女”は“鬼”となり、そのじゅくじたる思いを、家を崩壊させるという手段で解き放つことになる。大竹しのぶが、繊細な官能性を持って、“鬼”と化した“女”をド迫力で演じ独壇場だ。唯一無二の至芸を堪能する幸福感に浸っていく。
六平直政演じる夫は、痴呆老人の様な有様で乳母車の乗せられ、無残にも打ち捨てられた最期のその姿が哀れで滑稽だ。世間様の目を気にし、妻との営みよりも“家”の存続を優先したことが“鬼”の逆鱗に触れてしまったに違いない。
夫も妻も、押さえ込んだ感情の持っていきどころを逡巡した挙句が、“家”の瓦解へと繋がっていったのであろう。ただ、“家”を守ろうという思いが引き起こした哀れな末路に、“家制度”の矛盾と限界も見えてくる。日本の基盤であるとも捉えられる“家制度”について、大きな疑問符が投げ突けられる。
矢野聖人が演じる「身毒丸」は、子どもと大人の間の微妙な時期を掘り起こし、武田真治や藤原竜也とは、また違ったアプローチを見せていく。凛とした存在感が清潔感を漂わせ、だんだんと撫子を受け入る「身毒丸」に説得力を持たせていく。但し、本人の資質であるのか、消し去ることの出来ない自我が時折見え隠れするのだが、その自我が吹っ飛んだ時に見せる集中力には惹き付けられるものがある。そこが、課題なのかなとも思う。
蘭妖子と石井愃一の続投は、作品に安定感と安心を付加するが、大竹しのぶによって持たらされた人間のナマナマしいリアルに、ことさら影響を受けることはない。これまで造形されてきた仮面売りと小間使いのスタンスを貫いていた。
本作は、寺山修司の原本に近い戯曲が台本として採択されているが、これまでと大きく違うのは幕切れのシーンだ。恋の道行という叙情的な結末ではなく、永遠に断ち切ることの出来ない“想念”がグッとフューチャーされ、観客に対しザワザワとした胸騒ぎを引き起こしていく。前作までの「身毒丸」とは、全く異なる幕引きが用意されていたのだ。驚いた。大竹しのぶを得て、「身毒丸」は単なる再演ではなく、新たな「身毒丸」へと進化した。
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