2008年 11月

まず、三谷幸喜作品は、開演直前の注意事項をインフォメーションするところから、心を和ませてくれる。三谷幸喜自身が、アナウンスをするのだ。携帯やアラームの電源を切ってくれ、と言った後、開演までにしばし気まずい間があるのって、嫌やですよね、みたいな、観客の状況とシンクロした案内というより、トークですよね、を繰り広げていく。

出演者に対するコメントも差し挟んでいく。「風のガーデン」とは、全く違う3枚目の中井貴一をお見せするとか、戸田恵子が最近出したCDのPRまでしていく。それで、何となく、芝居のイントロのようなことに内容が振られていく。音楽演奏者4名が位置に付いたところで、それまで、タイトルが書かれた大きなビルボードのような壁が左右に開くと、2つのベッドが並ぶ、ベッドルームが現れるという展開だ。舞台には、既に、中井貴一が板に着き、奥の扉から、戸田恵子が入ってくる。どうやら、離婚するための荷物の運び出しも、ようやっと終盤にきた、という感じの状態から物語は始まっていく。

約30年に渡る夫婦の物語である。出会った直後くらいから、30年を経て、離婚に至るまでの間の様々なエピソードが綴られていく。しかし、必ずしも時系列にストーリーは語られるわけではない。「眠れない」とか「一番楽しかった頃」と言ったようなワードを頼りに、舞台は一気に時空を超え、その“時”へと場を移行させていくのだ。敢えてその都度、若返ったり、老けたりの外見的な風貌の変化は付けないので、逆に、その時々の夫婦のスピリットが上手く浮かび上がってくる構図である。勿論、演技的には、ベテランのおふたりである。微妙な言い廻しや仕草で、スッと年齢を感じさせてくれたりはする。

仕掛けとしては舞台上手の上部に電光掲示板があり、シーンが変わる毎に、その赤く点滅する掲示板の数字が変化をしていく。観ていて、何となく、多分、出会ってからの日数なんだろうな、とは思っていたのだが、物語も終盤になってそのことが明らかになる。ああ、やっぱりね、という印象だった。もう少し、早めに台詞で説明しといてくれると、そこが、妙に気にならなくて良かったかもしれない。

感動とか、ホロリみたいなものを、心の何処かで期待していたのだが、意外にも、アッサリと、夫婦の日常的な行き違いを積み重ねた展開であった。愛だ、恋だ、悲しい、嬉しいといった感情を、思いっきり放出する類の作品ではない。登場人物ふたりが、落ち着いているのだ。生活者なのだ。また、妻が仕事を持っているという点もポイントかもしれない。決して何かに依存したりはせず、その時々に熟考し、自分で判断して生きているのだ。登場する度に、違う仕事で成功を納めている展開には笑わせられる。どちらかと言うと、旦那の方が、やや妻に気持ちの部分で頼っているようにも思えてくる。作者・三谷幸喜の想いが反映されているのでは、とお見受けした。

戸田恵子は、上手いなあと感嘆した。実に自然でいて、笑わせるツボは絶対外さない。中井貴一は、少々頼りない旦那を演じて面白いが、上ずった調子の声のトーンや台詞廻しに、笑わせようとする意図を感じ、少々カリカチュアライズさせ過ぎな印象だ。音楽演奏家は、上手く芝居の中に溶け込み、時には、エキストラ風な登場の仕方もあって、コミカルで楽しいアンサンブルであった。

観た直後よりは、しばらくして心に沁み込んでくる作品である。そこで語られていたこととか、行き違っていたことが、スッとアタマの何処かに残っている感じなのだ。「子供を産みたい、今ではない」「死別はいや、仲良い内に分かれたい」「そんなことはどうでもいい、いやそこをハッキリしたいんだ」等々。大仰でない、ストーリー展開の面白さに依存しない、自然な語り口に、三谷幸喜の新たなステージを見た気がした。

舞台は歌舞伎の口上風に始まる。パッと舞台が明るくなると、定式幕が下がっており、その幕が引かれると、ずらりと登場人物が居並び、口上を始めるのだ。面白可笑しい口上が笑いを誘い、舞台と観客が一体化していく。会場が暖かな雰囲気に温まったところで、物語はスタートする。

井上ひさしが1970年にテアトルエコーの杮落とし公演のために書かれたこの「表裏源内蛙合戦」であるが、まずは、時を経ても全く色褪せることのないこの戯曲の揺ぎ無い「強さ」に驚かされた。「強さ」とは書き手の迷いのなさ、とでも言い換えられるであろうか。平賀源内を主軸にその生涯を描いていくのだが、全くもって、破天荒で、猥雑で、下ネタ満載。これでもかこれでもかと、現代の芸能と江戸中期の風俗を、惜しげもなく混沌としたままてんこ盛りの状態で供していく、その過剰さに、圧倒されてしまう。

物語もひとつところに集約していくことがない。話は横道に逸れまくり、どんどんと逸脱していく。そこがまた面白い。その触れ幅の大きさが、逆に、作品世界を大きく見せることにも繋がり、登場人物たちのさまざまな物語は、市井の人々のエネルギーと相まって、爆発していくのである。

蜷川演出は、戯曲の中にある世界を、1行たりともおろそかにすることなく、過剰なパワーに満ち溢れた戯曲とガッツリ対峙していく。組んずほぐれずの異種格闘技を見るかのようなデンジャラスな面白さに、目が釘付けになっていく。4時間10分の上演時間を全く飽きさせることなく、コミカルな要素も含む様々な芸能の手法を駆使し、物語を牽引していく。見事である。何役も掛け持ちし、また、多くの衣装変えがある役者たちが、大変そうにではなく、嬉々としてそれを演じていることで、その過剰さが、だんだんと、豊かさへと変質していくのも、見ものである。

上川隆也がいい。こんなにいろいろな引き出しを持った役者だとは知らなかった。平賀源内という複雑怪奇な人物を演じるわけだが、産まれたばかりの赤ん坊の時から、獄中死するまでの52年間の生涯を、実に飄々と見せていく。上川隆也の軽い縦横無尽さが、コロコロと展開する物語の歯車とピッタリと合っていくのだ。アンサンブルの中心にいて魅力を発すると同時に、物語を吸引してもいくバランス感覚の良さが、キラリと光る。裏の平賀源内を演じるは、勝村政信。こちらもベテランだが、実際はこの裏の方が、平賀源内をコントロールしているのではないかという存在感があるのだが、やはり軽さを持って演じているため、表裏のバランスが良く、上川とのコンビネーションの相性もいい。この表裏が一体となって人体解剖する「腑分」のシーンは、可笑し味を持ちながらも、興味ある対象への執拗までの探究心が如実に噴出していて、白眉である。

高岡早紀は「モロトフカクテル」以来の蜷川演出ですよね。美しく妖艶で華がある。豊原功補は硬質なコミカルさが表裏とは別の軽さを生み出し、篠原ともえはキャピキャピな路線を封じ、色気のある遊女を演じ新しい側面を見せてくれる。

井上ひさしが提示する、メッセージは、今、このタイミングだからこそ、グッとくるものがある。もっと自国の「宝」を見つけ育てていかなければならないのではないのか、と。今、日本に住む我々が、この国に何を還元し、また、何を発信していくことができるのか。江戸中期に、必死になって奮闘した平賀源内の姿を描きながら、日本の未来に発破を掛けるその作り手たちの過剰なまでの心意気に、大いに刺激を受けた4時間10分であった。

舞台中央には、森山未来演じるマークの住む部屋が、それ程大きくない可動式の設えでセッティングされている。背景はレンガ風の壁が立ち塞がり、やや下手上部にドアがあり、そのドアから鉄製の階段が下りている。美術は、デイビッド・コリンズ。従来の公演とは別の全く新しい解釈のセットである。ミュージシャンは、舞台下手の舞台上におり、そこで演奏することになる。

新しい何かを期待していた。開場時の舞台上の美術を見て、その期待に応えてくれるかと感じたのだが、結果、新鮮な驚きを得ることは出来なかった。この公演はミュージカルではないですね。コンサートであると思う。「RENT」のナンバーを繋いで歌っていくコンサート。そう思えば、納得もいくのであろうが、ここで語られる物語、作品そのものに魅かれ、そのテキストやナンバーをどう活かして魅せてくれるのかを期待して行ったので、全くもって腰砕け状態であった。

多分、出演者の皆さんは、ピンで歌の活動をされている方が多いと見受けました。稽古ではどうであったかは分からないが、初日が開けて3日目に見た限りでは、アンサンブルを考え、自分の役柄の思いや物語をどう伝えていこうかという方向性はチリチリバラバラになり、自分の歌のシーンをどう聴かせてやろうかという主張があちこちで目立つため、段々と興ざめしていった。あまり良く知らない方々の歌を聞きに来たのではない。「RENT」を観に来たのだ。そこを完全に勘違いしていると思う。

ましてや、歌詞が全くもって聞こえ難い。時に、演奏の音が歌う声よりも大き過ぎるのはおかしいでしょう。歌、聞こえないんですよ。そして、役者(歌い手?)の方々も歌詞をしっかり伝えようとするよりも、勢いやノリの主張が強いため、はっきり歌詞を歌っていないというダブルパンチ状態である。この、歌詞を聴かせるというポイントがすっかり抜け落ちているのは、日本語が分からないアメリカ人演出家であるせいなのであろうか?致命的であると思う。

そんな中でも、森山未来は、物語を伝えるということとパフォーマンスをどう主張するかのバランス感覚が優れていると思う。ロジャー役のRyoheiもいいのだが、内省的になりがちで、観客に発破を掛けることを躊躇しているように見える。米倉利紀は、役者ではなく歌手だなと思う。情感を込め歌を歌い上げるのは絶品だが、歌の中だけにしかコリンズは存在していない感じ。エンジェルの田中ロウマは目立つ役どころだが、カタチでみせてしまう浅薄さを感じてしまう。抱える重みや苦しみの度合いが薄味だ。白川侑二朗の歌ははっきり聞こえてきた。歌手ではなく、役者なのですかね。でも、繰り返しになっちゃうんですが、歌詞、音が大きくて聞こえ難いわけで、そもそも、そこのバランスが悪いので、もっと大きな声を出さなきゃみたいなことが、全体的に伝播しちゃのかもしれないですよね。そんな要因が作用していたとすると、皆さん、本当は本領を発揮出来ていないのかもしれないですよね。

最後、スタンディングオベーションでしたよ。私の感想なんて、きっと少数意見なんでしょうね。皆んな、こんなに喜んでいるんですもんね。2ヶ月の公演であるが、回数をこなしていく内により良くなっていくのかもしれないですね。再訪することは、ないと思いますが。

アタマで作られた演劇という気がした。今回は、アッカーマンが、芥川龍之介の「藪の中」を題材に取ったオリジナルの新作戯曲を自ら書き、演出した作品である。当初、脚本には青木豪がクレジットされていたが、パンフレットを読むと、青木豪が多忙につきこの作品を手掛けられなくなったとあった。台本と演出がアッカーマンという強烈な個性を持つひとりの人物から造形されていったということもあろうが、まずは、こういうことを言いたい、描きたいのだという、熱い思いがあり、そして、意図された刺激的な台詞や演技がどのシーンや人物にも投影されていく。そんなアンサンブルが全体的に積み重なっていく状態のテキストを、アッカーマンは、演出家と言う全く異なる視点でその台本を客観的に捕らえ、理路整然と分かり易く伝えようとしていくのだ。

アンビバレンツな状態、自分のことを自分で褒めたり語ったりすることに少し照れてしまうような感じなどというと少しニュアンスが違うかもしれないが、言いたい思いと、実際に話すこととの間に、冷静な隙間がある感じなのだ。ひとりのアーティストのアタマの中身を開陳しそこに置いてみた。そして、それをどう見せていくと観客に伝わるかを熟考してみて、その意図を、役者に伝えていく、というサイクル。

作・演出を同時にやられる方は、この本と演出の隙間というか、ホントはそこがメインステージなのだが、役者の力量やパワーへの委ね方がポイントになっていくのだと思う。意図を伝えていこうと役者がすればする程、観客はその意図を甘受することが出来難くなっていくと思う。押し付けがましくなっていくから、気持ちが乖離していくのだ。

しかし、休憩を挟んでの2幕目からは、物語の展開が面白くなってくるので、だんだんと劇中に吸い込まれていく。ある事件が起こるのだが、関係者が語る話はどれも全く違うものなのだ。一体、誰の証言が正しいのかが、「藪の中」へと迷い込んでいく。展開が論理的になってきたからであろうか、演出意図とリンクしてきたようである。また、情景の描き方が面白い。ベタな戦後ではなく、スタイリッシュで洒落た感じなのだ。あと、60人程、街の人々が登場するのだが、あくまでも物語の背景としての登場の仕方で、ひとりひとりが決して突出することなく主張もしてこないので、もっと活かし方があるのではないかと思ってしまう。

キーパソンとなる女性を、中村ゆりが演じているのだが、声から感情があまり伝わってこない。後半、高橋和也演じるかつての恋人が語る特攻隊での顛末を聞いている姿は絶品だと思った。ひたすら話を聞いているのだが、途中から身体が小刻みにブルブルと震えてくるのだ。嗚咽を噛み殺しているのであろうか、殺気すら感じる強烈さである。そして、いざ、感情をぶちまける段になると、表情の壮絶さとはまるで別個のような、台詞廻し。一気に気持ちが冷めていく。

この物語は、アッカーマンの、アメリカ、いや、世界に対するメッセージ、であった。1945年以降、世界は嘘で塗り固めた大国によって、大きく変わってしまったのだと、ストレートに主張する。瀬川亮演じる青年がこうつぶやく。「俺は本当のことを知りたいと思うけど」。物語の真実の解釈が観客に委ねられたように、現実世界で起こっている不透明な事件の数々を、我々はどう捕らえ突き詰めていかなければならないのかを、考えさせられる幕切れであった。

 

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