開演すると大音響で音楽が流れる中、ステージ上ではしばらくライティング・ショーが繰り広げられる。特に凄い趣向があるわけではないのだが、茫洋としながらも異空間へと誘われていく感じがしないでもない。
舞台の時代設定は、どうやら南北朝の時代をモチーフにしていると見える。かつて殺めたはずの南の王が生きていたことが発覚したのを契機に、かつてその者を仕留めた女暗殺者シレンと、血気盛んな若武者ラギが、南の王を暗殺するという命を受け、北の朝廷から南へと下っていくことになるという筋書きから物語はスタートする。
客演として新感線を盛り上げるのは、藤原竜也と永作博美。物語の主軸に立つタイトルロールであるシレンとラギを演じ、カンパニーをグイグイと牽引していく。二人の初々しい華のある存在感が、作品にふくよかな感情を吹き込み、清冽な透明感を与えているのが印象的だ。
主役として万人受けする、スターの“個性”の存在が、脇に控える百戦錬磨の実力派俳優たちが抱合する、強烈な曲者の“個性”を、逆に浮き彫りにさせていく効果を発揮する。役者同士の資質が、上手い具合に引き立て合っているのだ。この成功の要因は、絶妙なキャスティングにあり、かつ、このキャストを想定して書かれた戯曲にも因るところが大きいのだと思う。役者たちが、その役に嵌まっている、のだ。
南の王を演じる高橋克美が、ピカレスクな悪漢を造形し圧巻だ。これ迄は、人の良い役柄が多かったのではないか思うが、本作のゴダイ大師は、ワンマンでバイオレンスなのだが何故か人を惹き付けて離さない魅力あるカリスマ性と、その中に潜ませた人生を達観したかのようなある種のあきらめみたいなものが共存する人物として生き、実に魅力的なのだ。
このゴダイ大師が、物語のキーとなっていく。暗殺者であるシレンとかつて蜜月関係にあったゴダイ大師との間に産み落とされた子どもがいることが分かってくるのだ。そして、その子どもが、ラギであったことが判明した時には、既に、シレンとラギは男女の関係に陥ってしまっているという悲劇が訪れる。ゴダイ大師は、この二人を、「畜生」と罵っていく。南北朝の戦いから物語は一変し、「オイディプス」さながらの様相となってくる。
まさに本作は、新感線版「オイディプス」とも言える。既に母と姦通しているため、後は、父を殺すという筋書きが待っているのは予定調和である。しかし、ラギは父を殺すが、そこから両目を潰して放浪することなく、南の次の王、ロクダイへと就任することになる。北の使者が、南の王に。そして、その周りを彩る、虎視眈々と世の転覆を図る輩の天下獲り合戦も、露骨に明らかになっていく。
古田新太は、時を見て瞬時に立場を二転三転させる冷血漢キョウゴクを飄々と造形し、移ろい行く世の儚さを強烈なパワーで吹き飛ばし、自らも弾け飛ぶ顛末へと流転していく様が格好良い。橋本じゅんと共に作品にコミカルな空気をも持ち込み、物語が真面目過ぎる方向へとベクトルが傾き過ぎないよう、絶妙の平衡感覚で作品を悲喜劇成らしめていく。
三宅弘城の北の王の馬鹿っ振りも、使い用によっては発火する危険物に為り得る人間の多重性を示し可笑し味を醸し出す。北村有起哉が、唯一、あまりぶれない武将を演じ作品の礎となり、高田聖子の南の王妃は運命に翻弄されまくる女を演じ、それでも逞しく生きていく末路に作者の女性観が見て取れる。
廻り舞台を駆使し、目まぐるしくシーンを展開させていく猛烈なスピード感と、腹にズドンとくる低重音の音響効果が、観客をグイグイと舞台から目を離させることなく引き回す。また、まるでコンサートのような照明は、作品のエンターテイメント性を更に一段アップさせることに貢献している。
事の顛末は、クッキリと今という時代を炙り出す。敵を討つ手段として閃光しながら降ってくる“毒の爆弾”が煙を吐き、その場に蔓延していく様を見て、観客は何を思うであろうか? 私は、“放射能”のメタファーとしてしか捉えることが出来なかった。物語の奥底に辛辣なメッセージを含みつつ、観客を楽しませることに徹した本作は、演劇という枠を超え、見事、大衆娯楽として成立していた。それが「いのうえ歌舞伎の世界」なのであろう。
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