2012年 5月

開演すると大音響で音楽が流れる中、ステージ上ではしばらくライティング・ショーが繰り広げられる。特に凄い趣向があるわけではないのだが、茫洋としながらも異空間へと誘われていく感じがしないでもない。

舞台の時代設定は、どうやら南北朝の時代をモチーフにしていると見える。かつて殺めたはずの南の王が生きていたことが発覚したのを契機に、かつてその者を仕留めた女暗殺者シレンと、血気盛んな若武者ラギが、南の王を暗殺するという命を受け、北の朝廷から南へと下っていくことになるという筋書きから物語はスタートする。

客演として新感線を盛り上げるのは、藤原竜也と永作博美。物語の主軸に立つタイトルロールであるシレンとラギを演じ、カンパニーをグイグイと牽引していく。二人の初々しい華のある存在感が、作品にふくよかな感情を吹き込み、清冽な透明感を与えているのが印象的だ。

主役として万人受けする、スターの“個性”の存在が、脇に控える百戦錬磨の実力派俳優たちが抱合する、強烈な曲者の“個性”を、逆に浮き彫りにさせていく効果を発揮する。役者同士の資質が、上手い具合に引き立て合っているのだ。この成功の要因は、絶妙なキャスティングにあり、かつ、このキャストを想定して書かれた戯曲にも因るところが大きいのだと思う。役者たちが、その役に嵌まっている、のだ。

南の王を演じる高橋克美が、ピカレスクな悪漢を造形し圧巻だ。これ迄は、人の良い役柄が多かったのではないか思うが、本作のゴダイ大師は、ワンマンでバイオレンスなのだが何故か人を惹き付けて離さない魅力あるカリスマ性と、その中に潜ませた人生を達観したかのようなある種のあきらめみたいなものが共存する人物として生き、実に魅力的なのだ。

このゴダイ大師が、物語のキーとなっていく。暗殺者であるシレンとかつて蜜月関係にあったゴダイ大師との間に産み落とされた子どもがいることが分かってくるのだ。そして、その子どもが、ラギであったことが判明した時には、既に、シレンとラギは男女の関係に陥ってしまっているという悲劇が訪れる。ゴダイ大師は、この二人を、「畜生」と罵っていく。南北朝の戦いから物語は一変し、「オイディプス」さながらの様相となってくる。

まさに本作は、新感線版「オイディプス」とも言える。既に母と姦通しているため、後は、父を殺すという筋書きが待っているのは予定調和である。しかし、ラギは父を殺すが、そこから両目を潰して放浪することなく、南の次の王、ロクダイへと就任することになる。北の使者が、南の王に。そして、その周りを彩る、虎視眈々と世の転覆を図る輩の天下獲り合戦も、露骨に明らかになっていく。

古田新太は、時を見て瞬時に立場を二転三転させる冷血漢キョウゴクを飄々と造形し、移ろい行く世の儚さを強烈なパワーで吹き飛ばし、自らも弾け飛ぶ顛末へと流転していく様が格好良い。橋本じゅんと共に作品にコミカルな空気をも持ち込み、物語が真面目過ぎる方向へとベクトルが傾き過ぎないよう、絶妙の平衡感覚で作品を悲喜劇成らしめていく。

三宅弘城の北の王の馬鹿っ振りも、使い用によっては発火する危険物に為り得る人間の多重性を示し可笑し味を醸し出す。北村有起哉が、唯一、あまりぶれない武将を演じ作品の礎となり、高田聖子の南の王妃は運命に翻弄されまくる女を演じ、それでも逞しく生きていく末路に作者の女性観が見て取れる。

廻り舞台を駆使し、目まぐるしくシーンを展開させていく猛烈なスピード感と、腹にズドンとくる低重音の音響効果が、観客をグイグイと舞台から目を離させることなく引き回す。また、まるでコンサートのような照明は、作品のエンターテイメント性を更に一段アップさせることに貢献している。

事の顛末は、クッキリと今という時代を炙り出す。敵を討つ手段として閃光しながら降ってくる“毒の爆弾”が煙を吐き、その場に蔓延していく様を見て、観客は何を思うであろうか? 私は、“放射能”のメタファーとしてしか捉えることが出来なかった。物語の奥底に辛辣なメッセージを含みつつ、観客を楽しませることに徹した本作は、演劇という枠を超え、見事、大衆娯楽として成立していた。それが「いのうえ歌舞伎の世界」なのであろう。

劇場内に入ると舞台上は漆黒の闇。観客はその闇と対峙することを強いられる。「海辺のカフカ」の世界へと観客を誘う、シンプルな仕掛けに心が惹き付けられていく。

舞台がスタートする。新緑の植栽が植えられた幾つもの大きなアクリルケースが、人の手によってゆっくりとステージ上で交差する。そして、舞台奥から、水槽の中で胎児のように足を屈伸して眠っている柳楽優弥が現れ、そして、また、その場を離れていく。何とも幽玄な世界がそこには立ち現れ、「海辺のカフカ」の独特の世界観が創造されていく。何故か、だんだんと心が癒されていく自分を自らが感じ取っていく。

物語は時間や場所が交錯し、具体と抽象が混在していく。しかし、物語の意識化では、まるで1つの個体として全てが繋がっているかのような共時性を孕みながら、様々の時空に生きるそれぞれの人々は、その場にスクッと聳立している。

村上春樹の小説の枠組みは崩さず舞台は展開していく。だが、小説では主人公カフカの贖えぬ運命でもあった、母を犯し父を殺すという「オイディプス」的要素が本作ではやや薄まり、原作を租借してまとめることに腐心した脚本に仕上がっている。過不足なく散逸するエピソードが上手くまとめられ、原作のイメージを壊さず踏襲していく。

正直、この「海辺のカフカ」の世界に酔ってしまった。登場人物たちが語る台詞は、読み物としては成立しているものの、実際、言葉に出して言ってみると、まるで朗読をしているかのような違和感を与えるきらいもある。しかし、その言葉を生身の俳優の身体の中に通しつつ、アクリルで隔てられた小宇宙空間を幾つも可視化させていくことで、それぞれの世界に生きる人々に、リアリティーある透明感を付加させていく。

現実の世界から少し乖離した次元へと物語を昇華させていくことにより、観る者の意識も浄化され、癒されていく感じがするのだ。この、たゆたうような緩やかな自然さは、従来の演劇の外連味とは一線を画すが、確実に新たな演劇的表現を獲得していると思う。蜷川演出が、こういう切り札を持っていたとは驚きだ。

中越司の精緻で美しい美術も特筆すべきだが、服部基の照明は舞台に異なる時空の空間をくっきりと描き出し驚愕した。一直線にステージへと下りる数多くの光のラインが、“時”の竹林のような効果を発揮する。カフカたちが、まるで、運命の潮流の中を浮遊しているかのような、酩酊感に襲われるのだ。前田文子の衣装の質感やカラーの配し方の絶妙さは、作品に低温度の熱量を振り撒いていく。

カフカの柳楽優弥は、その存在がピュアであることにより、カフカに生り得ている。無駄のないストレートな演技が、観客との間にしじまを共振させていく。田中裕子が役を生きるその存在の在り方が、作品に決定的なトーンを与えていく。あらかじめ諦めているかのような、それでいて救われたいと求めているかのような、運命に翻弄されつつもそれを享受し逡巡する様が心に突き刺さる。

木場勝己は表裏のない純粋さを保ちつつ、茫漠と拡大した物語の手綱を掴み暴走に歯止めを掛ける。長谷川博己は原作の大島そのままに、一筋縄ではいかぬ役どころをキッチリと演じきる。佐藤江梨子の包み込むような優しい存在感、柿沢勇人のシニカルで抽象的な現実感、鳥山昌克の明晰さ、高橋努の大らかさなどが、見事に共鳴し合いヒリヒリとした痛みを共有していく。

一人の少年の冒険譚とそれを取り囲む人々の様々な愛をこの混沌とした現世に提示することにより、観る者に救いを与え心揺さぶる傑出した作品に仕上がったと思う。独創的なビジュアル創造や、硬度の高い原石のようなキラキラした台詞たち、そして、役柄を凌駕して普遍的な位置にまで存在感を高めた俳優たちの力を引き出し、見事に開花させた蜷川演出の手腕が、演劇の新たな地平を切り拓くことになった。秀作だと思う。

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