2019年 6月

三谷かぶきと冠された本作は三谷幸喜初の歌舞伎座で初めて手掛ける公演である。原作はみなもと太郎の歴史漫画「風雲児たち」である。その原作の中から、大黒屋光太夫のロシア漂流記が、今回、取り上げられている。

本作は舞台が日本ではなく、洋装で登場するシーンもかなり多い。新作歌舞伎を観に来場した観客たちに、いい意味での裏切りを仕掛けているのは三谷幸喜の戦略であろう。宣材写真を見たときから思っていたのだが、松本白鸚がサリエリにしか見えなかったのは私だけであろうか。

プロローグにはスーツで決めた尾上松也が登場する。18世紀末、徳川家康は大名の反乱を恐れ、1本の帆柱も持つ船しか作れなくなっていたと語る。天明2年に駿河湾沖で起きた嵐の際には24隻に舟が犠牲となり、その内、大黒屋光太夫が乗る神昌丸だけが助かったのだという。尾上松也は狂言廻しのような役割で、アドリブも入れながら、舞台と観客との距離感をグッと縮め、劇場に一気に一体感が生まれていく。

伊勢を船出し江戸に向かっていた神昌丸であるが、嵐で漂流し、なかなか目的地に着くことができない。そんな神昌丸に乗り込んだ一行の丁々発止の台詞の掛け合いが面白く、ついつい劇中に入り込んでしまうことになる。宛て書きなのであろう、一人ひとりの乗組員に焦点が当てられ、役者の個性と役柄が相まって何とも楽しいのだ。

出演者は、シアターナインやPARCO歌舞伎でも三谷幸喜と組んだ、松本幸四郎や松本白鸚を始めに、三谷作品と縁のある市川猿之助や片岡愛之助など、勢いある旬の役者が居並び壮観だ。市川染五郎も印象に残る役どころで登場している。親子3代の競演も見どころだ。

ロシアのアムチトカ島に辿り着いた一行は、現地で暮らし始めるが日本に帰還する思いは捨ててはいない。何とかアムチトカ島を船出し、カムチャツカ半島に渡ることができたが、食物が不作のため困窮することになる。初めて牛肉を食べたりもする。移動中に死したりして、17人の一行は、オホーツクに着いた時には、6人になってしまっていた。が、ここでも帰国の許可が下りず、ヤクーツクを経て、イルクーツクへと向かうことになる。この間、恋の鞘当てなども織り込まれ、観客の笑いを誘っていく。

イルクーツクでは政府より宿舎を与えられる厚遇を受けるが、日本に帰る機会を探っていくことになる。そこで知り合った八嶋智人演じる博物学者ラックスマンと親しくなり、サンクトペテルブルグに行き、女帝エカテリーナに謁見し、帰還の直談判をしようということになる。八嶋智人の洒脱な存在が、歌舞伎の枠組みを少し広げているように感じていく。

乗り組み員である庄蔵を演じる市川猿之助であるが、女帝エカテリーナも重厚に華麗に演じきり作品に華やかさと重みを付与していく。国家ナンバー2ポジションであるポチョムキンを松本白鸚が担い、まさにサリエリのようなインテリジェンスと偉丈夫さを兼ね備えた存在感に圧倒させられる。

帰国の許可が下りることになるが、片岡愛之助演じる新蔵と、市川猿之助演じる庄蔵と、別れなければならない状況に、松本幸四郎演じる大黒屋光太夫は直面することになる。最後の最後で、このような苦渋の決断を迫られるとは。これはまさに世話物の涙のシーンではないか。それぞれの逡巡する思いが交錯し、思わず胸が詰まる場面が繰り広げられる。三谷幸喜の見事な筆致に唸ることになる。

日本へと帰還できたのは3人。しかし、道中、市川男女蔵演じる小市は力尽き、大黒屋光太夫と、市川染五郎演じる磯吉のみが日本を目指すことになる。そして、彼方に、富士山の姿が見えてくるのだ。この長かった道のりを振り返り、滂沱である。

意外な設定に驚かされつつも、歌舞伎の醍醐味に帰着させた三谷幸喜の秀作であると思う。驚き、笑い、そして泣ける新作歌舞伎をたっぷりと堪能することが出来た。

原作はアイスキュロスの「オレステイア」であるが、作は「1984」上演の記憶も新しいロバート・アイクである。父アガメムノンを殺害した母クリュタイメストラを殺めた罪で、オレステイアが裁判にかけられているという設定が成されているところから、物語はスタートする。予想を裏切る新鮮な幕開きだ。

オレステイアの姉であるイピゲネイアをアガメムノンが生贄として捧げたことに、クリュタイメストラは激怒したわけであるが、その罪の連鎖を検証するかのような客観的視点を、この裁判という器がより際立たせていく。

オレステイアの父への復讐を無実とするならば、クリュタイメストラの娘の復讐も正当化されることになる。この矛盾をどう解釈するのか。陪審員と共に観客にも、無罪なのか、あるいは有罪なのかの判断を突き付けてくることになる。

しかし、オレステイアの記憶は曖昧だ。母殺しのことが記憶から抹殺されているのだ。そこで、女医が彼の記憶を紐解いていくことになる。一体、どのような経緯があったのだろうか、オレステイアの記憶が再現されていくことになる。

タイトルロールを演じるのは、生田斗真。舞台で鍛え上げた演技力と、スターのオーラとが相まって、作品をグイと牽引する存在感が強烈だ。また、過去に遡り、記憶を再現するという曖昧模糊とした物語展開の軸を決して揺るがさず、オレステイアの心の奥底に堆積している心情の襞を、1枚1枚剥ぎ取るかのように繊細に表現する術が見事である。また、昇華しきった域に到達し得た者だけが獲得できる一種の透明感のようなものが、オレステイアを普遍的な存在へと導いていっている。

クリュタイメストラは神野三鈴が受け持っていく。決して悪女なのではなく、娘を思っての復讐であることが明確で、逡巡する母の思いが観客にも伝播し、憐れを誘う。アガメムノンとクリュタイメストラの愛人・アイギストスを横田栄司が演じる。偉丈夫で大胆だが繊細さも秘めた男たちを、クッキリと演じ分け作品に重厚さを付与していく。

イピゲネイアを趣里が演じ、生贄となる不運を運命と捉えているかのような前向きに生きる娘を実直に繊細に表現する。女医である松永玲子は、オレステイアの記憶を遡る旅のナビゲーターを担いつつ、物語を現代にブリッジさせ観客に届ける役回りも担い、作品に安定感を与えていく。

記憶を遡り母を殺めた事実と向き合うが、オレステイアは姉のエレクトラが殺人を実行したのだと言いだしたりもする。無罪を主張するオレステイアでるが、陪審員の判断は有罪、無罪が同票となり、裁判長の裁量が委ねられることになる。

裁判長は最後の判断をし、オレステイアは無罪となる。最後は一人が決めてしまうのかという、無罪ではあるのだが、何とも歯切れの良くない幕引きに、現代で起こっている様々な事象を思い浮かべることになる。この顛末を描いたロバート・アイクはどのような思いを込めたのだろうか。

上村聡史の手綱捌きも見事に、時間軸と心象とがクロスし行き来する複雑な戯曲がエンタテイメントとして立ち上がった。現代社会へと投げ込まれた、司ることの曖昧さと矛盾をどう甘受するのかは、観客次第だと言えるのではないだろうか。

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