2015年 2月

約100年前に書かれた戯曲が、まるで、今、起こっているかのような出来事として、実にリアルに感じられるのが心地良い。登場人物たちと今を生きる自分たちとは、時代を経ても地続きの同じ人間なのだと感じられ、日々の日常の生活の奥底に潜む、悩みや諦め、そして、希望への希求などが、我がことのように突き刺さってくる。

チェーホフの戯曲はそのままに、ケラリーノ・サンドロヴィッチが台詞の言い回しを現代風にアレンジした上演台本が秀逸だ。物語をいじくり回すなどという不遜なアプローチは一切ない。原典はそのままに、台詞をいかに活き活きと舞台に立ち上げるかという点に注視していく。但し、舞台設定は、20世紀初頭のロシアのイメージを覆すことはない。美術も衣装も、誰もが思い浮かべる様なチェーホフの世界観が提示される。そこには、現代の日本風にアレンジをして、観客との親和性を高めようとする様な演出意図は排されていく。

また、戯曲の重層的な構造を視覚化するために、アクティング・エリアが前面と後方とに分けられているのも特徴的だ。真剣に思い悩む登場人物の背景で宴が催されていたりすると、悲劇が喜劇の様相を帯びてくるのだ。チャップリンの「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という名言が頭の中をよぎっていく。

登場人物たちは皆、ケラリーノ・サンドロヴィッチの俯瞰した神の目の様な視点で捉えられていくため、登場人物の誰もが突出し過ぎることなく、アンサンブル芝居の醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。有名俳優も多く出演しているのだが、どの役柄にも温かな視点が降り注がれているため、誰の人生もキッチリとフォーカスされていく。

老齢の俳優が演じることが多いチェプトゥイキンに、段田安則がキャスティングされているのが新鮮だ。段田安則がチェプトゥイキンを演じると、現役を終えた存在であるという隔絶感がなくなるため、逡巡する若者たちの傍に存在する近しい庇護者の様な、人間関係がキュっと収斂したかの様な世界が現出し、物語が拡散するのを防御していく。

宮沢りえが演じる三姉妹の次女マーシャの、ある種、子どものようにも思えるストレートな感情の奔流が、物語に大きな蛇行の痕跡を残していく。教師である平凡な夫クルイギンを露骨に疎んじる態度に現状のフラストレーションを暴発させながらも、同地に赴任する陸軍中佐ヴェルシーニンに一筋の希望の光を見出し、すがりつくように求めてしまう女の性が可愛くもあり、哀しくも映っていく。宮沢りえは、マーシャという女性が希求する何かを見つけようとする熱情を、激情的に演じ圧巻だ。

クルイギンを演じる山崎一は、そんなマーシャを温かく見守る優しさと鈍感さとを融合させ安定感ある存在感を示し、ヴェルシーニンを演じる堤真一は、マーシャとの仮初めの恋に嵌りつつも、半身を少しずらしたかのような冷静さも併せ持ちながら、大人の男の小賢しさを体現する。

三女イリーナを演じる蒼井優は溌溂としながらも、諦めの境地に片足を突っ込んだ女性の身動きできないもどかしさを繊細に紡いでいく。長女オーリガを演じる余貴美子は、時代に購うことはせず、運命の流れの中に身を投じその中で精一杯生きる家族の支柱として、物語の中心に聳立する。

赤堀雅秋は一家の主として姉妹に認めてもらいきれない悶々たる思いを溜め込み、皆を支配しようとする方策を選択する男の脆さを共感を持って演じ、妻ナターシャを演じる神野三鈴の、カリカチュアライズされた奔放な女の造形アプローチと絶妙なバランスを構築している。悪者に徹しきれない、この人間の多面性の可笑し味から、目を離すことが出来ない。今井朋彦の世を諦観した視線や、近藤公園の諦めにも似た優しさも印象に残る。

ここではないどこかモスクワに、明日の希望の綱を託す姉妹の姿に、ついつい己の姿を投影してしまう。決して現状に満足することのない人間の業の深さを抉り出しつつ、希望が無ければ生きて生けない人間の心の弱さも露呈させ、見事であった。

こういう布陣で来たかと思わせる、当代一流のクリエイターが集結した新作歌舞伎「地球投五郎宇宙荒事」。現代に生きる人々が、2015年の今に創り上げたビビットな感覚が、実に新鮮な出来栄えだ。歌舞伎を観に来たのだという敷居の高さは取り払われ、舞台設定を日常の延長線上に据えることにより、観客との親和性を高めていく仕掛けが施されていく。

まずは、本公演を行うことになった経緯から、物語は展開していくことになる。海老蔵と獅童が、ステージに設えられた劇場の楽屋に入ってくるところから、エピソードはスタートする。海老蔵のブログや、獅童の結婚など、リアルなネタが会話の話題として取り上げられる中、こういうことが出来たら面白いね、という話がだんだんと盛り上がっていく。二人はその場で、宮藤官九郎や三池崇史に携帯電話で連絡と取り参加要請をし、“面白いこと”を実現する運びとなる顛末が描かれ惹起する。

二人の思いが結実したのが本公演であるというこの導入を演じる海老蔵と獅童があまりにも自然体なため、現代劇かと錯覚してしまうが、この後、二人がやりたかったことへと物語は歌舞いていく。

この二人の間に入り、狂言廻しの様な役回りを担うのが加藤清史郎だ。海老蔵の弟子という設定で1年仕えているが名前を覚えられていないという境遇であり、獅童のことを悪人だと毛嫌いしており、獅童もそんな態度にコミカルに対応していく姿が可笑しい。2者間ではなく、3人が機軸となっている物語構成が、一ところに収焉することのない広がりを見せいく。

時は元禄へと遡る。浅草・浅草寺の上空に宇宙船が現れ、そこから衛利庵(えいりあん)・米太夫が降り立ってくる。民衆はパニックに陥るが、そのパニックが伝播しないよう和尚は策を講じなければならなくなる。そして、目の前で起こっていることは「歌舞伎」なのだと断じていく。そこで、悪役・米太夫に対抗させる正義の味方の“役”を、実際の歌舞伎役者・團九郎が演じることになる。團九郎は海老蔵が、衛利庵は獅童が演じていく。

クドカンがかつて書いた歌舞伎にゾンビが登場したのにも驚いたが、宇宙人が登場する本作のこの設定も何とも奇天烈だ。しかし、この物語に至るまでのサイド・ストーリーがある様で、今は亡き勘三郎に海老蔵は10代の頃より「地球投げをしろ」と言われてきたのだと言う。勘三郎のDNAが、今に至るまで脈々と繋がってきているのだということが分かり、感慨ひとしおだ。

三池崇史の演出は、宇宙船の見せ方などに大胆さを感じるが、あくまでも演者の魅力を前面に押し出すことに注力し、観客の興味を分散させないよう繊細に差配していく。元禄に生きた人々と現代の歌舞伎役者とが違和感なく共存し、新作歌舞伎であることの特質が確実に観客に届けられていく。

物語は、時の将軍の娘が衛利庵の人質にとられてしまうところから、急展開していくことになる。そして、團九郎と米太夫との関係性もディスクロージャーさせながら、二人は宇宙空間で対決することになる。その破天荒な展開は、まさに、ザ・歌舞伎だと大向こうから声を掛けたくなる様な気分に高揚させられていく。

歌舞伎が、現代の異能たちによって、オリジナリティあるエンタテイメントとして提示された。こういう取っ付きやすい演目が、古典へと目を向けてもらう良い契機となるに相違ない。多くの観客を歌舞伎へと誘う、海老蔵や獅童のこうした活動から今後も目が離せない。

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