約100年前に書かれた戯曲が、まるで、今、起こっているかのような出来事として、実にリアルに感じられるのが心地良い。登場人物たちと今を生きる自分たちとは、時代を経ても地続きの同じ人間なのだと感じられ、日々の日常の生活の奥底に潜む、悩みや諦め、そして、希望への希求などが、我がことのように突き刺さってくる。
チェーホフの戯曲はそのままに、ケラリーノ・サンドロヴィッチが台詞の言い回しを現代風にアレンジした上演台本が秀逸だ。物語をいじくり回すなどという不遜なアプローチは一切ない。原典はそのままに、台詞をいかに活き活きと舞台に立ち上げるかという点に注視していく。但し、舞台設定は、20世紀初頭のロシアのイメージを覆すことはない。美術も衣装も、誰もが思い浮かべる様なチェーホフの世界観が提示される。そこには、現代の日本風にアレンジをして、観客との親和性を高めようとする様な演出意図は排されていく。
また、戯曲の重層的な構造を視覚化するために、アクティング・エリアが前面と後方とに分けられているのも特徴的だ。真剣に思い悩む登場人物の背景で宴が催されていたりすると、悲劇が喜劇の様相を帯びてくるのだ。チャップリンの「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という名言が頭の中をよぎっていく。
登場人物たちは皆、ケラリーノ・サンドロヴィッチの俯瞰した神の目の様な視点で捉えられていくため、登場人物の誰もが突出し過ぎることなく、アンサンブル芝居の醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。有名俳優も多く出演しているのだが、どの役柄にも温かな視点が降り注がれているため、誰の人生もキッチリとフォーカスされていく。
老齢の俳優が演じることが多いチェプトゥイキンに、段田安則がキャスティングされているのが新鮮だ。段田安則がチェプトゥイキンを演じると、現役を終えた存在であるという隔絶感がなくなるため、逡巡する若者たちの傍に存在する近しい庇護者の様な、人間関係がキュっと収斂したかの様な世界が現出し、物語が拡散するのを防御していく。
宮沢りえが演じる三姉妹の次女マーシャの、ある種、子どものようにも思えるストレートな感情の奔流が、物語に大きな蛇行の痕跡を残していく。教師である平凡な夫クルイギンを露骨に疎んじる態度に現状のフラストレーションを暴発させながらも、同地に赴任する陸軍中佐ヴェルシーニンに一筋の希望の光を見出し、すがりつくように求めてしまう女の性が可愛くもあり、哀しくも映っていく。宮沢りえは、マーシャという女性が希求する何かを見つけようとする熱情を、激情的に演じ圧巻だ。
クルイギンを演じる山崎一は、そんなマーシャを温かく見守る優しさと鈍感さとを融合させ安定感ある存在感を示し、ヴェルシーニンを演じる堤真一は、マーシャとの仮初めの恋に嵌りつつも、半身を少しずらしたかのような冷静さも併せ持ちながら、大人の男の小賢しさを体現する。
三女イリーナを演じる蒼井優は溌溂としながらも、諦めの境地に片足を突っ込んだ女性の身動きできないもどかしさを繊細に紡いでいく。長女オーリガを演じる余貴美子は、時代に購うことはせず、運命の流れの中に身を投じその中で精一杯生きる家族の支柱として、物語の中心に聳立する。
赤堀雅秋は一家の主として姉妹に認めてもらいきれない悶々たる思いを溜め込み、皆を支配しようとする方策を選択する男の脆さを共感を持って演じ、妻ナターシャを演じる神野三鈴の、カリカチュアライズされた奔放な女の造形アプローチと絶妙なバランスを構築している。悪者に徹しきれない、この人間の多面性の可笑し味から、目を離すことが出来ない。今井朋彦の世を諦観した視線や、近藤公園の諦めにも似た優しさも印象に残る。
ここではないどこかモスクワに、明日の希望の綱を託す姉妹の姿に、ついつい己の姿を投影してしまう。決して現状に満足することのない人間の業の深さを抉り出しつつ、希望が無ければ生きて生けない人間の心の弱さも露呈させ、見事であった。
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