2013年 4月

ヘンリー四世が、舞台の遥か後方の彼方から、家臣を引き連れ舞台前面に歩み寄って来る。奥行きのあるさいたま芸術劇場大ホールの舞台を活かしたオープニングであるが、装置は回廊の様に両脇設えられたスタンド型のシャンデリアのみ。本公演は、どっしりとした装置を建て込むことなく、アクティング・エリアの周りから壁が一切取り払われている。

役者陣の芝居を全面に押し出し見せていくことに主眼が置かれた演出コンセプトが、シェイクスピアの傑作と誉れ高い戯曲の真髄を見事に掬い出すことに成功した。演技と台詞が堪能出来る芝居の醍醐味をたっぷりと味わうことが出来るのだ。

シンプルだが随所にセンスが感じられる開放感ある舞台設定を、作品として成立させているのは、ひとえに実力ある俳優が居並ぶ鉄壁なキャスティングが成されたことと、その役者たちの力量に全幅の信頼を置いた演出家の判断故であろう。

また、2部作である本作を1作品として上演時間4時間20分(休憩含む)にまとめ上げた、翻訳・松岡和子、構成:河合祥一郎の手腕も見逃せない。様相を異にする2作品であるが、その違いがクッキリと浮かび上がることで、変転する時代の大きなうねりが見事に表現されることになる。

放蕩息子のハル王子と忠臣フォルスタッフとの友好と、父であるヘンリー四世との確執など、ハル王子の若き萌芽の1部の時代から一変、2部では王位を継承するハル王子が過去と決別し、老いたフォルスタッフは時代の蚊帳の外の放り投げられていく様を、的確に、且つ、シニカルに描き出していく。本作は歴史劇の括りになるが、登場人物たちの生き様が緻密に描かれた人間臭いドラマであることから、人気の演目である理由が腑に落ちる。

フォルスタッフは吉田鋼太郎が演じるが、軽妙、豪快、小心、偉丈夫、法螺吹き、女好きと、誰もが思い当たるような人間的側面を抱合した役柄をふくよかに演じ、白眉である。物語の中心に立ち、作品をグイグイと牽引する。デップリとした体躯と、歩くと苦し気な吐息など、表層部分の見せ方もキュートで観る者の共感を誘っていく。

松坂桃李がハル王子を演じるが、口舌も爽やかに見事にシェイクスピアが描いた次代の王となるヘンリー五世を見事に造形した。松坂桃李本来の資質なのか、活舌も明瞭で、難解であろう台詞も日常会話の様に観客席に違和感なく響いてくる。アクティングのキレもあり、舞台栄えもする。なかなかな役者だと認識した。

タイトルロールを演じる木場勝己も、王という地位の権勢を享受しながらも様々な辛苦に心痛する王の人間性を滲み出させ心を打つ。放蕩息子であるハル王子を思いやる気持ちは、父としての感情そのものであり観客の共感性を喚起させる。

立石涼子の母性、星智也の困惑、矢野聖人の清廉、冨樫真が造作する女の多面性も作品にグッと厚みを加えていく。

死に瀕する父ヘンリー四世の枕元で、切々と真情を吐露するハル王子は、自らの逸る思いを言葉にすることにより、これから自分が向かうべき道を必死で切り拓いているようにも映って見える。父が死したと思い込み、王冠を自らの頭上の冠してしまうユーモアを振り撒きながら、ハル王子はヘンリー五世へのステップを踏んでいくことになるのだ。木場勝己と松坂桃李が、的確に世代交代の悲哀を演じきる。

ヘンリー五世となったハル王子には迷いはない。遊び仲間であるフォルスタッフたちとは、もはや次元の異なる世界で生きていく選択をし、かつてのバディたちを遠ざける決断を下していく。哀しむフォルスタッフだが、ヘンリー五世は、かつての蛮行などのあらぬ噂が立ち上がるのを防ぐため、ほとぼりが冷めるまで、彼らを引き離しているのだという思いが口述で伝えられる。しかし、両者が直に相見舞えることはない。その行き違う想いが、観る者の心に深く沈殿していく。

人間の悲喜劇や心の表裏を融合させながら、ユーモアたっぷりに様々な想いに逡巡する人々を描いた本作は、まさに“人間そのもの”の比喩であると言い切れる。人間は、全ての出来事を背負いながらも、その全てを受け入れることによって、人間は人間足り得るということを何の夾雑物なしに叩き付けてくる。人間万歳! 人間そのものが堪能できる秀作に仕上がった。

ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れセントヘレナ島に流されるが、そのセントヘレナ島に総督としてイギリス政府よりハドソン・ロウが派遣されることになる。しかし島流しとはいっても、ナポレオンには随行員が何名もいて、かつての栄華を誇った日々を壊すことなく保ち続けていたのだという。

史実に基づくというが、島流しという天涯孤独なイメージとは程遠い事実に、まず、驚いた。また、ナポレオン本人は、イギリスの客人として島に滞在しているのだと言い放つ。そして、イギリス政府はナポレオン監視のために、年間41万5,000ポンドの財政負担を強いられていたという。

物語は流刑生活を送るナポレオンを描いていくが、1821年にナポレオンが死を迎えた事実が物語の中心に据えられ、ナポレオンと共に過ごした側近たちが生きる1840年との時間を行き来しながら、ナポレオンの死の真相へと迫っていく。

ナポレオンと周囲の者たちとの意識の差異を描き喜劇的な要素を振り撒きつつも、その差異が確執へと繋がり、それがナポレオンの死と絡まり合っていく悲劇的な結末とが絶妙にブレンドされた悲喜劇として、三谷幸喜の筆致は冴えている。人生とは、そう簡単に悲劇、喜劇と割り切れるものではないのだと、人間というものの多面性を抉り取りながら、人が生き抜くために核とする目に見えない心の本質部分にも肉迫していく。美術、照明、衣装、音楽などのスタッフワークも素晴らしい。

散逸する人々の意識を、会話や独白、古と今との時空をシャッフルしながら紡ぎ合わせながら、物語を集約させていく展開には舌を巻く。1シチュエーションで一点突破する技を三谷幸喜は自ら傍らに置き、様々なモノやコトをコラージュすることで、タペストリーを完成させるという表現を駆使して新鮮だ。

物語の中心に立つ、ナポレオンを演じる野田秀樹が嬉々として演じる様が圧巻だ。華と実力を併せ持つ居並ぶ俳優陣を尻目に、緩急自在にナポレオンのあらゆる姿を繰り出していく様は、野田秀樹の演出家としての客観的視点が大いに貢献しているとも見える。クルクルと転換する場面に呼応し、瞬時に声質や動きなどを目まぐるしく変転させていく。もう、誰にも追い付くことの出来ない領域にまで、独走している感がある。

しかし、演技が暴走していると感じさせない野田秀樹の存在感は、流石だというしかない。戯曲にしたためられたナポレオンの真情を基本に据えているため、どんなにカリカチュアライズしたとしても決してぶれることはない。作品のシチュエーションと同様に、周りの者たちは翻弄されつつも、従っていくしかない稀代の英雄をクッキリと造形した。自作ではない役者としてだけの出演は見事に成功した。

紅一点の天海祐希が山本耕史演じる夫とナポレオンとの間で揺れ動く女心を、小股の切れ上がった気風のよい女っプリで演じ、舞台に明るい光を差し込んでいく。可愛さと魔性さとを巧みに混在させながら、憎めない魅力的なアルヴィーヌ像を創り出していく。

内野聖陽は作品に重みと安定感を与えていく。島の総監としてナポレオンと対峙する役どころであるが、演技へのアプローチも対照的に、全くスタンスを異にする二人の差異を可笑し味に変えていく。また、現役の時とは様相がまるで違う、老成した姿での佇まいも観る者には楽しいパフォーマンスだ。ベテランの歌舞伎役者の様な朗々とした台詞回しが、また、“王道の役者”の風格を漂わせていく。

一見、ナポレオンへの忠誠心を示しているかに見える側近モントロンを山本耕史が演じるが、精悍な表層の裏に隠れた屈折したシコリを表出しながらも、凛とした態度を崩さない二面性を的確に表現し心地良い。

浅利陽介はナポレオンの付き人のようなマルシャンを演じるが、後半、側近として全ての人々を見てきた者だけが有するシニカルな視点を持って、ナポレオンの死の真相の究明に寄与する役回りを説得力を持って演じていく。ベテラン勢の中に於いて、若さを強みに転じさせる立ち位置で印象に残る存在感を示していく。また、決して悪巧みを決してしない様に見える様相が、真情を複層化させる効果を生み出していく。

今井朋彦はナポレオンの主治医アントンマルキを演じるが、個性の濃い面々の中に浮かぶフッと心和む存在感で、観る者を惹き付けていく。真面目であるがゆえに操作され翻弄させられる医師は、ナポレオンの死にある種、最も近い存在であり、その重要な役どころを軽妙に演じていく。

ここで描かれるナポレオンの死の真相は、三谷幸喜の想像力の成せる技であるが、様々な要因が幾重にも重なった故の結果であったというオチが面白く、斬新だ。皆がそこそこの殺意をナポレオンに抱いていたという真相は、「オリエント急行殺人事件」の一刺しよりも軽い。しかし、敢えてその軽さを敢えて狙った三谷幸喜の戦略が感じられる顛末だ。

ここで描かれているのは、どのジャンルにも決して寄ることがないと決めた作者が生みだした、オリジナリティ溢れるエンタテイメントであると思う。観客は笑い、思索し、そして、ズシリと登場人物たちの熱い思いを共有する。そして、爽快感すら感じられる出来映えには脱帽だ。

宮本亜門はKAATに於いて、NIPPON文学シリーズとして古典を換骨奪胎する試みを続けてきているが、本作はそのシリーズの第3弾として企画された公演である。そして、企画の意図通り、新たな発想や表現を持ち込むことで、NIPPON文学の中に潜む日本の精神性を掴み出し見事な出来映えになっている。斬新とも言える手法を取りながらも、観客の心に沈殿した想いを作品とスパークさせ、古典を現代に甦らせる才能に脱帽する。

ラフカディオ・ハーンの原作を、高羽彩と宮本亜門が再構成、台本化しているが、「怪談」書き進めていく作者自身が登場し、作品世界と自らの過去とを行き来する幾重もの世界を現出させる趣向が興味深い。その巧みな構成が作品の精神性に肉迫し、夢幻の世界とも呼応させることで「怪談」の真髄を染み出させていく。

また、昨今の宮本亜門演出の特質であるのだが、固定化させない各分野の異能のスタッフの仕事振りをまとめ上げることにより、実にオリジナリティある効果を生み出すことに成功している。

美術のボリス・クドゥルチカは「金閣寺」に続くコラボレーションとなるが、作品世界を外側から構築するのではなく、作品の中の世界にダイブし、内側から物語を紐解いていくかのような目くるめく展開に酩酊する。此岸と彼岸、現と幻想世界を、まるで、襖を開け閉めするかにように、瞬時に時空を転換させる手腕が圧巻だ。ブレヒト幕の新しい展開とも言える。

映像デザインは、バルテック・マシアス。世界を股に掛け活動しているビデオ映像アーティストだ。氏が繰り出す映像は、ボリス・クドゥルチカの世界と見事に融合し、幽玄的な「怪談」ワールドを創造していく。装置や人物などに映像を投影させ、被写体に幾重もの衣を纏わせることにより、現存するモノや人のリアルさを異次元空間へと誘っていく。

「金閣寺」に引き続き福岡ユタカが創り出すミニマムな音楽は、物語に静謐な静けさを付加させていく。聴覚に於いても観客の感覚を刺激し、耳目は舞台へと取り込まれていく。

振付は小野寺修二が担当するが、大駱駝艦の演者たちに施された振る舞いは、人形を扱う文楽の黒子のそれだ。宮本亜門によるアイデアであると思うが、従来の黒子よりも感情表現豊かに演じられる影の人々が、操り、操られる、此岸と彼岸の在り方を一気に視覚で納得させていく。

タイトルロールである芳一を演じる山本裕典が、芳一に巣食う“虚”を明晰に表現していく。幽玄の人々が心の隙間に入り込み、その思惑に翻弄される芳一にリアリティを与えていく。琵琶を掻き鳴らす姿も様になっている。

彼岸から芳一を翻弄する幼くして亡くなった安徳天皇を、安倍なつみが毒を秘めたピュアさで表現していく。闇の世界に芳一を引きずり込む役回りであるが、お互いの中にある“虚”な心が共振し合う響きを奏でていくため、単純な悪として描かれることはない。人形との競演もしっくりと馴染み、見応えある人物像を造形する。

小泉八雲は益岡徹が演じるが、現実と自らが描く作品世界とを隔てる薄い皮膜をスルスルと行き来していく。黄泉と現実を繋ぐ物語の中核にスクっと立ち、底から作品を押し支え安定感を与えていく。

橋本淳が芳一をサポートする佐吉を演じ、芳一の陰と対照的に人間の陽の側面を浮き彫りにする。花王おさむが和尚を軽妙に演じ、大西多摩恵が小泉八雲の妻や芳一の母の幻影など様々な女性の在り様をしなやかに体現していく。

NIPPON文学の奥底に忍び込んだスピリッツの真髄が、様々なクリエイターたちが結集することで見事に劇化することに成功した。宮本亜門のプロデュース能力全開の秀作に仕上がったと思う。

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