2005年 9月

開演! 客席通路から肥溜めを背負った男たちが現れ舞台上へ。本物の肥溜めにしたいと、当初、蜷川氏は主張したらしいが、さすがに、スタッフに反対されたとか。小奇麗に設えられたグローブ座はその男たちによって、上下にそびえる円柱は切り取られ、欄干も取り外され、オープニングから、壊すという行為を突きつけることによって、上品な舶来もののシェイクスピアのイメージの皮を引っ剥がしていく。

井上ひさし氏の台本は、まるでシェイクスピア作品の中から下ネタを中心に選んだかのようなエピソードに満ち溢れているのだが、その猥雑さが庶民のパワーに強く連携し、作品の強さ厚みとなって堆積している。

中心となるストーリーは、我々も良く知っている、「リア王」や「ロミオとジュリエット」、他にも「ハムレット」「リチャード3世」「十二夜」など全作がそこ彼処に潜ませてあるのだが、パズルのように組み合わされたエピソードの端と端が繋がる時の意外性が、フッと笑いを誘ったりする。見事にパロディとして成立している訳だ。また、時折挿入される歌唱の場面などは、場面をフッワーク軽く説明するという使命を持ちつつも、旬の役者の艶声を拝めるというおまけまでついて、まるで、お祭りに紛れ込んでしまったかのような華やかさだ。役者たちが楽しんでいるので、観客にもその空気が伝染し、会場中に広がっていく幸せ空間が出来上がってくる。

場面が多いため、シーンが途切れてしまう印象を持つこともあるが、場面が始まってしまえば、もう役者のもの。本作は、次から次へと現れては消えていく実力派俳優たちの、一種、見世物興行のようでもある。前作で歌舞伎に取り組んだ蜷川氏であるが、これこそ、現代の歌舞伎なのではないかという感を強くした。創世記の歌舞伎が内包していたであろう、パワーや魅力や猥雑さが、遺憾なく発揮されていると思う。

人はバッタバッタと死ぬ。話も伏線なく唐突に展開する。しかし、それこそが見世物の醍醐味だと言わんばかりに、グイグイと観客を巻き込み翻弄していく。演劇は、学問でもなく芸術でもない。生身の俳優とスタッフたちが、我が身をすり減らしながら共同作業で作っていくベタなものなのであるのだという立ち位置を、宣言しているかのような気さえしてくる。しかも、題材はシェイクスピアである。両極にあるかのようなこの要素が、此処では見事にスパークしているのだ。まず、井上ひさし氏の冒険があり、その理解者である蜷川幸雄氏がその意図を最大限に拡大したカタチでシアターコクーンに提示した。時と状況が幸運にも出会ったから産まれた作品なのである。

役者はみーんな良い。唐沢の狡猾、藤原の素っ頓狂、篠原の利発、夏木の滑稽、高橋(惠)の老猾、勝村の直球、木場の佇み方、吉田の悲哀、壌の軽やかさ、高橋(洋)の真摯、毬谷の天晴れ、沢の豪快さ、西岡の洒脱、白石の地に足ついた浮遊感などなど、語り尽くせないのでざっと印象を記したが、それぞれの役者が肩の力を抜きつつも、演じる役柄の解釈が最大限に趣向を凝らされており、一種、劇画のようなクッキリとしたアプローチにて演じられるため、どの役柄もスクッと立ち上がって見えてくる。まあ、実力というベースがあるからなのではありますが。

こういう見世物がもっと沢山出てこないかなあ。主張など関係なく、また、思考も要しないが、確実にパワーがあるものから人は絶対元気を貰えるハズだから。それを作るのは並大抵のことではないはずなのであるが、無理が分かっていて挑戦するのもまた楽しいのでは。これ、きっと、何処でも通用する論理のような気がします。はい。

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