2019年 2月

2013年「唐版 滝の白糸」に窪田正孝がキャスティングされた時は、あまり存じあげなかったのだが、7年経った今、若手俳優の中でもイキの良い存在となっているのは蜷川幸雄に先見の明があったということなのだろうか。

2016年に上演された「ビニールの城」は、蜷川幸雄の遺志を受け継いだ金守珍が演出を担当し、見事にその大役を果たすことになったが、その時から3年を経て、再度、シアターコクーンにて唐十郎作品を上演するのは、何とも感慨深いものがある。窪田正孝は「唐版 滝の白糸」以来の舞台出演になるのだという。

演目は唐十郎戯曲の傑作と言われている「唐版 風の又三郎」。1974年に状況劇場公演で初演された作品である。代々木月光町にふらりと迷い込んだ窪田正孝演じる織部の前に、柚希礼音演じる少年が舞い降りてくる。織部は少年を自らが憧憬する「風の又三郎」に出会えたと嬉々とする。

冒頭より外連味ある様々な仕掛けが施されていて、グッと舞台に前のめりになっていく。蜷川幸雄亡き後、視覚的にビックリとさせられる趣向を凝らす演出家が少なくなってしまったので、この金守珍の手綱捌きには驚かせられるし、何とも楽しいワクワク感に満ちたエンタテイメントとしても成立させている。ある種、黄泉の国における戯言のような其処此処の地平が曖昧な物語が、力強く立ち上がっていく。

美術と衣装を宇野亜喜良が務めているのも嬉しい限り。唐十郎の血脈を戯曲の奥底から吸い上げ、作品として立ち上げていくのに大いに貢献していると思う。アングラの色香をほのかに残しながらも、氏独自のシュールな感覚もアクセントとして配されているのが特徴だ。

舞台経験は少ないというが、窪田正孝がまるで詩のような唐十郎の台詞に血肉を吹き込み活き活きと作品の中を泳ぎ回る様には、観る者もついついエンパワーされてしまう。台詞廻しも明晰で、言葉を観客にダイレクトに響かせながらも、鏡の中に入ってしまったオルフェのごとく哀惜を感じさせる重層的な奥深さで、織部という人間が抱く真実の姿を浮き彫りにさせていく。

柚希礼音は織部に又三郎と慕われながらも、宇都宮から流れてきたエリカという役どころで、空に消えた恋人の面影を追っているようなのだ。回りの状況により、どのような人間であるのかが一瞬にして変化する難役であるが、宝塚で培ったスキルのベースが大いに活きていると思う。一人の女の中にある様々な側面が時に優しく、時に力強く染み出て、見惚れ、そして絆されていく気がする。

石井愃一、金守珍、六平直政という、唐戯曲も蜷川演出も経験してきた面々が、嬉々として作品に猥雑さを付加し、山崎銀之丞や風間杜夫といったベテランも脇からしっかりと物語を支えている。

オーラスのダイナミックな演出もワクワクとしてしまう。織部とエリカは一体これから何処に向かおうとしているのか。それは、ある種の希望にも似た、幸福を希求する旅の始まりなのかもしれない。唐戯曲を壮大なエンタテイメントとして成立させることができた幸福な作品に仕上がった。

2013年に上演された蜷川幸雄演出の「ヘンリー四世」のスピリッツを受け継ぎ、ハル王子を演じた松坂桃李がタイトルロールの「ヘンリー五世」へと臨むことになった。演出は前作でフォルスタッフを担った吉田鋼太郎。自身もコーラス(説明役)として登壇する。

2013年には初々しさも残る松阪桃李であったが、今や「ヘンリー五世」を体現出来るような、強靭な演技力や存在感を体得していることに驚嘆した。しかも、暑苦しい熱演とは程遠い、凛とした清々しさが滲み出る爽やかさが何といっても魅力的だ。

「娼年」のヒリヒリするようなエロスを体現しながら空洞を抱えた女性に愛を充満させていく娼夫や、「マクガワン・トリロジー」の触れると怪我するような一寸先を読むことのできないテロリスト役などで完全に振り切った感があったが、シェイクスピアという演劇のある種の王道とも言える演目で、演劇の猛者どもの中心に屹立し、見事に「ヘンリー五世」を魅惑的に演じて見せた。

「ヘンリー五世」は王という身分を隠し、一兵士として隊列に紛れ込み、王に対する、戦争に対する生身の声を聴くことに徹する光景にも、何の違和感もなく観ることができる。カメレオンのような俳優だなと松阪桃李に対して感じ入ることになる。

吉田鋼太郎の演出は「アテネのタイモン」の時に担っていたであろう目に見えない重圧を、思う限りの打ち手でもって華やかにそして衝撃的に、且つ、演技もしっかりと観せるという様々なテーマを追っていたように記憶しているが、本作では、演出と作品のナビゲーター役という表裏の側面から、しっかりと作品の中に生きる人間たちの生き様を活写することに徹し、観る方もついつい舞台に集中してしまうことになる。

本作では「ヘンリー五世」の天敵ともいえるフランス皇太子を溝端淳平が演じるが、ある種のヒール的な側面も浮き立たせ、松坂桃李とガッツリと拮抗していく。二国の長の押しも押されぬ丁々発止がなかなか面白い。

合戦が多い作品であるのだが、蜷川幸雄イズムの継承か、可視的に敵か味方かを見せる衣装や小道具、細かな演技の差異などに、観客を混乱させない工夫が其処此処に凝らされており、安心して観続けることができる。吉田鋼太郎は、中庸な夾雑物を排してくれるのでシーンのテーマがクッキリと示されていく。

また、演出の一番の功績だと思うのが、台詞を思いきり大切にしているということだ。俳優が繰り出す台詞が観客にしっかりとリーチするのだ。蜷川演出の、勢いや思い、天や神への謳い上げが、時として感情が先走るため台詞が聞こえ難いこともあったかと思うが、本作では、とにかく台詞をはっきりと発音することに徹しており、何だかとても心地良い印象を与えてくれる。

蜷川幸雄亡き後、吉田鋼太郎は先達の叡智を継承しつつ、クリアで清廉なシェイクスピア世界を造形し得たと思う。次作も是非、期待したい。

チェーホフの同戯曲が演じられる演目を鑑賞するのは初めてである。上演すると9時間はかかると思われるという長尺な原本を、劇作家デイヴィッド・ヘアが脚色した戯曲が本作の上演台本となる。敢えて無の状態で、劇場に向かうことになる。

チェーホフの原本に関しては接する機会はなかったのだが、デイヴィッド・ヘア版の「プラトーノフ」は、喜怒哀楽、悲喜劇など、あらゆる要素を原本から抽出し、シリアスに寄せ過ぎることなく、人間が格好悪い様を晒しながらも精一杯生き抜いていく苦渋が何とも可笑しく表現されている。

19世紀末、ロシア将軍の未亡人宅を中心に集う人々は、労働をして稼がなければ喰えないという領域からは少々逸脱しており、概して暇を持て余している風な人々が多いと思う。自己を中心に世界は回っており、他人を気遣う繊細さは一先ず脇に置いている様な人の比率が高い。だから、面白い。皆、自らの思いを吐露していくのだが、そこに忖度は一切ない。故に、このストレートな感情表現は、観る者のストレスをも発散させてくれる効果を発してくれることにもなる。

タイトルロールであるプラトーノフを演じるのは、藤原竜也である。本作は、様々な屈強な猛者がキャスティングされているのだが、藤原竜也はそんなベテランたちが演じる役柄に大いに翻弄される家庭教師役を担いながらも、ステージ上の者はもちろん、観客を含む劇場中の人々全てを逆手に取り、翻弄しまくり圧巻だ。

まさに、藤原竜也、オン・ステージである。

毎日同じ人々と顔を合わせ、語らう日々において、インテリジェンスがあり色男のプラトーノフは、特に女性たちの好奇の的になっている。プラトーノフはそんな状態に贖うことなく甘受し、いや、果敢に行動しまくっていく。当然、男女の間に諍いごとが勃発していく。しかし、どんなに追い詰められようとも、プラトーノフを始めとするどの登場人物たちも怯むことなく、感情を暴発させていく。

自らが蒔いた種で苦境に立たされるプラトーノフであるが、その惨めなザマで右往左往する藤原竜也の姿を見た共演者の皆も、笑いを堪えるのに必死なのが見て取れるのだ。決して笑ってはいけないシーンなのではあるのだが、あまりな悲惨さ振りが面白過ぎるのだ。

高岡早紀の艶やかさ、西岡徳馬のドッシリとした存在感、比嘉愛未の見た目の可憐さとは裏腹な本音の染み出させ方、前田亜季の腹の座ったプラトーノフの女房振りなど、ステージのパレットには様々な彩色が混じり合い、そうすると、想像していたものとは違った色彩へとどんどんと変化させる光景を現出させる、手綱捌きも見事な演出の森新太郎にも乾杯をしたいと思う。

藤原竜也が更にイイ役者に進化していると感じることが出来た本作の再演を、是非、希望したいと思います。100年前の戯曲をこんなにも活き活きと現代に甦らせることが出来るのは、ホント、素晴らしいと思いました。

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