とにかくお客さんが入っていないのが気の毒でしょうがない。こまめに公演をチェックしているはずの私でさえ、1ヶ月前までこの公演の存在を知らなかった。急遽決まったということでもないだろうし、広報宣伝が遅れてしまったのは何故なのであろう。当社で代わってやってあげたい位である!? きっといろいろな事情があるのではあろうが…。
困難にぶち当たるとスッとかつての女性たちの元に帰りすがってしまうグイードは、9(ナイン)歳の時に自己の意識の成長を止め、創造行為によって自己実現へと向かう道を走ることになる。物語は、グイードの脳味噌の中を開陳するがごとく、彼を巡るさまざまな女性の思い出や意識をピンセットで摘まみ繊細に取り出しながら、彼は指揮者のようにその全てをコントロールしようとするのだが、どうしても果たすことが出来ない。女性の母性に絆され絡めとられながら、どうしても自己内世界へとインナートリップしてしまうのだ。
言わずと知れたフェリーニの傑作「8 1/2」のミュージカル化。20年近く前、日生劇場で見た細川俊之のグイードから久しく、福井貴一はしなやかで軽やかだ。いろいろなイメージや意識が交錯するシーンの中、台風の目のごとく、中心に居ながらにしてどこ吹く風といった風にも見える穏やかな無風状態にある様を、涼しげに演じて見せた。
池田有希子のカルラはセクシーで目が離せない。舞台上からカーテンに包まってスルスルと降臨し、さんざんグイードを弄んだ挙句逆さの状態で、また、天井へと帰っていくその1幕は演出の奇抜さとも重なりとても楽しいシーンとなった。また、大浦みずきはベテランの貫禄を見せ一際目立つパトロンを嬉々と演じて見せた。純名りさには可憐な華がある。何となく大勢の中に居てもスッと目立ってしまう資質があるようだ。
古代遺跡のような浅いプール、大理石で作られたかのようなディナーテーブルなどのイメージでイタリアにオマージュを捧げ、「悪魔の首飾り」でテレンス・スタンプを襲うフラッシュ攻勢の光景、トレビの泉で遊ぶ「甘い生活」を彷彿とさせられるシーンなど、フェリーニのエッセンスをそこかしこに振り撒く演出は、そういった可視的なものに留まらず、更に、奥深く作品の本質を掴み出していく。
グイードの心の中に存在する「エロス」「タナトス」。既に亡くなった母や、そこに存在はしない思い出の女性たちを思い起こし呼び出しながらも、そこに彼が求めているのは、「愛」による救済、なのかもしれない。母性的、経済的、性的、社会的、心理的、さまざまな観点で女性を捉え深く探求し、女性の何たるかを明らかにさせようとしていく。しかし、螺旋階段を降りてやってきた女性たちは、再び、同じ螺旋階段を昇って去っていってしまうのだ。結果、彼は、9歳の頃の自分とポツンと取り残されてしまう。
それが、彼の人生であり、また、ひとりのアーティストの「創造の根源」でもあるということなのか。
アーティスト、デヴィット・ルヴォーはこの作品を通じて、女性に対する飽くなき探究心と恐れというものを全てひっくるめて「賛美」したかったのではないだろうか。後半、背景に現れるボッティチェリの「春」ともシンクロし、ひとりの男が、人間性を復興(ルネサンス)していく「可能性」というものを、全女性に「託せれば…」と願っているのだ。
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