2004年 10月

とにかくお客さんが入っていないのが気の毒でしょうがない。こまめに公演をチェックしているはずの私でさえ、1ヶ月前までこの公演の存在を知らなかった。急遽決まったということでもないだろうし、広報宣伝が遅れてしまったのは何故なのであろう。当社で代わってやってあげたい位である!? きっといろいろな事情があるのではあろうが…。

困難にぶち当たるとスッとかつての女性たちの元に帰りすがってしまうグイードは、9(ナイン)歳の時に自己の意識の成長を止め、創造行為によって自己実現へと向かう道を走ることになる。物語は、グイードの脳味噌の中を開陳するがごとく、彼を巡るさまざまな女性の思い出や意識をピンセットで摘まみ繊細に取り出しながら、彼は指揮者のようにその全てをコントロールしようとするのだが、どうしても果たすことが出来ない。女性の母性に絆され絡めとられながら、どうしても自己内世界へとインナートリップしてしまうのだ。

言わずと知れたフェリーニの傑作「8 1/2」のミュージカル化。20年近く前、日生劇場で見た細川俊之のグイードから久しく、福井貴一はしなやかで軽やかだ。いろいろなイメージや意識が交錯するシーンの中、台風の目のごとく、中心に居ながらにしてどこ吹く風といった風にも見える穏やかな無風状態にある様を、涼しげに演じて見せた。

池田有希子のカルラはセクシーで目が離せない。舞台上からカーテンに包まってスルスルと降臨し、さんざんグイードを弄んだ挙句逆さの状態で、また、天井へと帰っていくその1幕は演出の奇抜さとも重なりとても楽しいシーンとなった。また、大浦みずきはベテランの貫禄を見せ一際目立つパトロンを嬉々と演じて見せた。純名りさには可憐な華がある。何となく大勢の中に居てもスッと目立ってしまう資質があるようだ。

古代遺跡のような浅いプール、大理石で作られたかのようなディナーテーブルなどのイメージでイタリアにオマージュを捧げ、「悪魔の首飾り」でテレンス・スタンプを襲うフラッシュ攻勢の光景、トレビの泉で遊ぶ「甘い生活」を彷彿とさせられるシーンなど、フェリーニのエッセンスをそこかしこに振り撒く演出は、そういった可視的なものに留まらず、更に、奥深く作品の本質を掴み出していく。

グイードの心の中に存在する「エロス」「タナトス」。既に亡くなった母や、そこに存在はしない思い出の女性たちを思い起こし呼び出しながらも、そこに彼が求めているのは、「愛」による救済、なのかもしれない。母性的、経済的、性的、社会的、心理的、さまざまな観点で女性を捉え深く探求し、女性の何たるかを明らかにさせようとしていく。しかし、螺旋階段を降りてやってきた女性たちは、再び、同じ螺旋階段を昇って去っていってしまうのだ。結果、彼は、9歳の頃の自分とポツンと取り残されてしまう。

それが、彼の人生であり、また、ひとりのアーティストの「創造の根源」でもあるということなのか。

アーティスト、デヴィット・ルヴォーはこの作品を通じて、女性に対する飽くなき探究心と恐れというものを全てひっくるめて「賛美」したかったのではないだろうか。後半、背景に現れるボッティチェリの「春」ともシンクロし、ひとりの男が、人間性を復興(ルネサンス)していく「可能性」というものを、全女性に「託せれば…」と願っているのだ。

何せ「新潟県中越地震」発生のその時とかち合ってしまった。第一波が開演直前、アナウンスで「舞台機構点検にため、少々お時間をいただきます。」「この建物は耐震構造ですので、内部におられた方が安全です。」とのこと、また、「震源地は新潟付近である。」とのアナウンスも入る。「準備が出来次第、5分前にお知らせします。」! 適宜入る情報アナウンスにて不安感が無くなっていく。

6時30分開演。芝居はスタートするが、芝居開始約4分後に、また、大きな揺れが襲う。舞台では、山本亨、大川浩樹、パク・ソヒが芝居開始していたが地震の揺れが治まらず、3人がテーブルについたまま暗転になり、芝居は中断。しばらくすると、シアター1010の制作担当の方が壇上に上がり、「再度、舞台を点検した後、芝居は再開します。最初から…。」という言葉に少し拍手が起きる。6時55分過ぎ位に芝居は再開。でも、観る方も演る方も、地震がまた来るかもというアタマが何処かにあるのか、妙な緊張感は残っている。

リアルな体験が起こってしまった後であるからか、何故か空間全体を空虚感が覆い、濃密な空気が立ち現れてこない。しかし、状況のせいばかりにはしていらない。寺島しのぶを受け、跳ね返すことが出来るようなパワーある役者が存在していなかったため、どのシーンでも登場人物の感情がスパークしてこないのだ。パク・ソヒは、新鮮さと若さと率直な演技は注目されるところであるが、表裏相反する男の葛藤までもは感じることが出来なかった。故に、何故、このエバンと、寺島しのぶ演じるアビーとが「どの瞬間にお互い虜となってしまったのか」、その瞬間が良く分からないのだ。初めてふたりが「一つになる」シーンも、そこに行くまでの過程が非常にあっさりしているため、エロテックな盛り上がりに欠けている。また、絡み合い、さて、どこまで到達するのかと言う展開になるのだが、パッと暗転になり、次の瞬間、もう朝になる、という展開なのだ。「パッション」の処理は、全体的にあっさりした薄味だ。

二階建ての構造を活かし、家の各所で起こる出来事のスピーディーな演出の処理は鮮やかであるが、こと、寺島しのぶを中心とする俳優陣の演技に関しては、あまりうまく機能していないと思う。父役の中嶋しゅうであるが、150年前のアメリカの農地に住む70歳前後の老人のリアルさがあまり感じられない。元気が衰えない老人ということであろうが、踊り狂うその動きは50代半ばの本人自身の若さとしか映らない。山本亨と大川浩樹も台詞を読んでいるのだという予定調和的な上手さ以上の驚きはない。

朝倉摂の美術も沢田祐二の照明も上質で安心感はあるのだが、ハッとするような斬新な驚きは与えてはくれなかった。「マディソン群の橋」を少し思い出してしまった。

脇役陣を変え、場所も例えばベニサン・ピットの様な小空間に移して、再トライアル出来ないものであろうか。寺島しのぶをもっと活かしきった、ずたずたになって精神を絞りきった様な追い詰め方で、その立ち振る舞い、汗、視線のひとつひとつが繊細に響いてくるような作品として再生してくれればな、と思う。

地震に影響されていない、他の回でも見てみないと駄目なのかもしれないが…。

野田演劇の真骨頂。めくるめくストーリー展開とクルクルと展開する状況設定が、役者の身体を通して表現され、他の何ものにも頼らない俳優演技の醍醐味を味あわせてくれる。装置や小道具や衣装は、状況をリアルに説明するものとしてではなく、観客のイマジネーションを掻き回すものとして、ある時は驚きと共に、ある時はそう使うかといった可笑しみと共に、予期せぬ切り口で斬り付けてくる。

4人で演じるがゆえにそれぞれの役者の力量が問われるところだが、今回のキャスティングは、旬である新鮮感を第一に選定されたのであろうか。「上手い」と唸る様な手合いではなく、軽やかに時空を跳梁跋扈する身の軽さがストーリーをぐいぐいと引っ張っていく。

大倉孝二は独特の個性を抑えることなく、のびのびと野田秀樹とからみ、楽しんで演じているかに見えた。小西真奈美はそのルックスの可愛さは特筆すべきだが、声の音域が狭い故か、目まぐるしく展開するストーリーやキャラクターの演じ分けのエッジが効いてこない。どの役も同じように見えてしまうのだ。1つの芝居でいくつものキャラクターを瞬時にして演じるということがいかに大変かということなのではあるが…。両者共、野田秀樹が運転する列車の表層とマグマを行き来するスピードに振り落とされないよう食らい付いていっているようだ。

野田秀樹の演技については、もう、とやかく言うこともないだろう。誰でもない野田秀樹自身が創り出した野田秀樹という演技者は、何かと比較することが不可能な絶対無二な存在なのであるのだから。岩のオブジェのようなヨハネス・フラッシュバーガーの存在感も、また、作品に厚みを加えていた。

タイ版に引き続き登板の美術・衣装の日比野克彦であるが、日本版はふくよかな優しさが加わった感じがする。まず、衣装に色が加わりは華やかになった。幾重にも重ねられた糸や布を織り成す人の手が入った職人技の貴重な一品モノであることが見る者にも伝わり、ぬくもりが感じられた。美術も、また、新たな発想で、観客を驚かせてくれる。網に絡まったいくつものブイらしき物体に板を載せただけで小船になるとは!!

海藤春樹の照明も日比野克彦のアートと呼応するかのように、各シーンの状況をイメージさせながらも、心象風景とも交錯させる手腕はさすがである。

共同体と個人の在り方に考えを巡らせながら、未来についても思いを馳せるような優しさと希望を振り撒いてくれた気がする。暖かい気持ちで劇場を出ることが出来た。

また、演技を超えた旬の役者のマジックという味付けが、この作品に大いに貢献し効を奏していたということが、カーテンコールで判明することとなる。単純に演技のテクニックだけで測ることが出来ない濃密な空間がいつの間にか出来上がっていたのだ。LIVEの醍醐味である。

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