2007年 12月

「STOP メタボ。」健康増進委員会:編
全国書店にて発売開始!

タイトルの通り、まさにメタボ解消、克服のためのガイドブックです。

しかも、何と携帯体脂肪計が付録で付いているんです!
これ、画期的でしょ?
これから宴席が多い年末年始のこの季節、もう絶対必需な1冊ですよ。

内容は、専門的な解説はなるべくせずに、
毎日、無理なくできそうなことをピックアップ。
少しだけ改善すればいいような生活習慣のポイントを、分かり易く説明しています。
イラストや写真も多く、きっと楽しみながらお腹を凹ませていくことが出来るはず!

自分で、こういう身体になりたい!と宣言し書き込んでいく「将来日記」も添付。
読んで、即、実行ですね。

今、大都市圏の主にビジネス街の本屋さんで、平積みになってます。

目に付いたら是非、お手に取ってみてくださいね。

クサカワ ハジメ

4人の登場人物の内のひとり黒田勇樹が降板したため、演出の長塚圭史が代打で登場。大女優たちと、舞台上でも相まみれることとなった。

何せ、大竹しのぶと白石加代子である。この2大女優のガチンコ勝負観たさに劇場に足を運ばれた方も多いのではないだろうか。いつもどんな舞台でも観客を虜にしてしまうふたりである。期待しないわけがない。そして、その期待に違わず、やってくれました。絶えず怒りいがみ合いながらも、どこかで頼り依存し合う母子の関係を、実に濃密に演じ上げてくれた。

舞台はアイルランド西部の小さな町リナーン。マーティーン・マクドナーの他の作品でもあるように、アイルランドの地方の町独特の、まさに流した血さえ瞬く間に乾いてしまうような荒涼とした土地の侘しさが、物語全体を包み込む。母子ふたりで寄り添いながら暮らし続ける突破口のない同じ毎日の閉塞感がじわじわとシンクロしてくる。一度はロンドンで働いていた娘も、結局はこの故郷に舞い戻ってきたわけで、どうしたらこの土地から出られるかと夢を見ようとするが、病身の母に引き戻され身動きすらとれない状態である。また、そのことがフラストレーションを溜めていくこととなる。

大竹しのぶ演じる娘モーリーンは、絶えずガニ股で歩き続ける。動きも女性らしい仕草などは微塵もなく直線的だ。身繕いも褒められたもんじゃない。他人の目を気にしないとこうなるのだということが、まず、カタチとして圧倒的な存在感で迫ってくる。ただ動いているだけでモーリーンという人物が表現されているのだ。白石加代子演じる母マグは逆に大概が椅子に座って動きはないのだが、その声音と眼光とで、縦横無尽に役を操っていく。たまに、悪巧みをしようとヨタヨタと歩く様が、また滑稽で笑いを誘ったりもする。

そんなふたりの言葉の応酬は、罵倒と蔑みと哀れみに満ちていて、負の感情が全面に押し出されている。しかし、その罵詈雑言を躊躇なく吐き合えるその心根の部分に、かすかな弱さなども秘めており、決して一筋縄ではいかない。しかし、両人とも感情が昂じてくると、観ているこちらに可笑しさが込み上げてくる。おもわず笑ってしまうのだ。言い争いも他人から見たら実にくだらないことなんだという次元と、リアルな感情のぶつけ合いとの間を、飄々と行き来するその技に、舌を巻く。

モーリーンが突破口としてすがろうとした田中哲司演じる同年代の独身男性パトが、この舌戦の最中にホッとする空間を作り出す。彼の前では、モーリーンは女になる。露出度の高いドレスでパトを挑発する様は、先程までの他人の目を気にしないモーリーンではない。マグはそれが気に入らない。

いろいろな秘密が解き放たれたり、封印されたりして、結局は、何処にも旅立てないモーリーンに、母の死が突き付けられる。母が座っていた椅子に座る、母の葬儀後の大竹しのぶが白眉である。どうみても、白石加代子演じるマグに瓜二つなのだ。どういう方法なのであろうか、白石加代子のやや角ばった顔のフォルムが、大竹しのぶに乗り移っているのだ。死してなお母の呪縛から逃れられない様を、一発でこう表現してしまえることに愕然とさせられた。長塚圭史の手綱捌きも見事に、2時間20分、まさにたっぷりと、名演技、を堪能出来た作品であった。

再々演の名作「キル」は、妻夫木聡、広末涼子という旬なスターを迎え、新たな魅力ある世界を創り出した。野田秀樹は時折キャストに旬の人気者を登用することがあるが、例え演劇畑ではない人であっても、旬の人にだけしか醸し出せない空気感で、百戦錬磨のベテラン勢とバトルし拮抗させてしまうところが毎回見事である。今回も大いに楽しませてもらった。そう言えば、妻夫木聡は2001年PARCOプロデュースの「ラブ・レターズ」に出演してはいるが、まあ、朗読劇だったので今回は初舞台ということになるのであろう。「20世紀ノスタルジア」で主演していたにも関わらず、「秘密」で本格初主演とうたわれた広末涼子のケースが思い起こされる。

妻夫木聡演じるテムジンは随所に幼さを残すところが特徴だ。背伸びしない等身大の視点で役柄を自らに引き寄せたことが要因であろうか。ドンドンと勢力を拡大し伸していく様も、純粋に征服欲に駆られているという、そのストレートな欲望の表し方に幼い心根が見え隠れする。豪腕さと繊細さがうまく融合されていて、そのバランスの危うさがまた魅力となっている。

広末涼子はか細く可憐で美しいが、台詞廻しが明晰でしっかりしており安定感がある。特に母になった後の夫テムジンに対する態度には、恋する少女だった前半とは打って変わって辛辣な感情が浮かび上がってくるが、そのクルクルと変化する様が野田戯曲の素早いテンポとシンクロし、緩急自在に様々な手法を表現出来るという実力を垣間見させてくれた。そういった点で言うと、妻夫木聡は愚直なまでにストレートで、戯曲に追随していこうというクイックな変化ではなく、戯曲下の水脈を掘り当てるかのような洞察力で、物語を牽引していく。主演ふたりの資質が異なるため、物語の世界観が更に広がっていく。

「キル」の世界は、初演より10数年経った今でも全く褪せることのない面白さとメッセージ性を含んでいる。今でも世界中で決して止むことのない国盗り合戦を、ファッションというメタファーに置き換えていく。また、9・11以降特に顕著であるが、様々なアーティストが取り上げているテーマ「暴力の連鎖」が、既に大きなテーマとして掲げられている。そして、親子の問題。連綿と続く父と子、母と子の愛と確執。そしてその結果が招く、悲劇。昨今、マスコミを賑わす様々な事件の要素が、これでもかと詰め込まれているのだ。

再々見した今回、野田秀樹のその先見の明に脱帽した後、いや、野田秀樹は何かを予見しようとした訳ではなく、人間にとっての普遍的なことを突き詰めた結果の現われなのではないかという思いがしてきた。学習効果などなく、何度も同じような過ちを起こしてしまう人間の愚かさ。そこが人間にとっての悪いところでもあり愛おしいところでもあるのだ。

ラストもまた印象的だ。いろいろな困難を乗り越えた後、テムジンは様々な物語を紡ぎ出してきたミシンに横たわりこれまで展開されてきた物語を反芻する。これまでのこと全ては、もしかしたら、死ぬ間際に見た過去の出来事かもしれないし、生まれる前に見たこれからの自分が生きていく人生のような気もする。いつも変わらなかったのは、青い空だけだった、と。意識がフッと時空を超えたその瞬間に、フワァーっと布で覆われたステージは、舞台となったモンゴルの青空のように爽やかなブルーに染まっていった。儚い人間の人生を包み込むような優しさに満ちたその光景に、思わず圧倒されてしまう。叙事詩のダイナミックさを抱合しつつ、抒情詩の繊細を併せ持ったこのステージは、この上なく上質な大河小説を読み切った後のような、興奮と満足感を観る者に与えてくれた。

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