2006年 7月

全く感動することが出来なかった。ステージで行われていることは、全くの絵空事で、何のリアリティもない。まあ、舞台は所詮、虚構ではあるのだが、それが、虚構のまま終わってしまっている。

本作はいろいろなエピソードが重なり成立している話であり、そのバラバラとしたエピソードをどう絡め、怒涛の終幕に向けて堕ちていくのかを観たいところであるが、それぞれの役者が他のシーンにまで凌駕するパワーを持ち得ることが出来ず、出番が終わると余韻も残さないまま、次のシーンへと展開していくので、ブツ切れのオムニバスを観ている印象すらある。

しかし、何よりも、兄ジョバンニと妹アナべラの禁断の近親相姦が、物語の機軸である。その二人から、もう、愛し合って好きで好きで仕方が無いという感情の排出を、ついぞ最後まで感じることが出来なかった。だから、物語全体を引っ張り上げる求心力を発揮出来ず、物語は空中分解したままなのだ。

三上博史演じるジョバンニは、本当に妹アナべラが好きなのか? 最後まで、そこが良く分からないのだ。ロミオとジュリエットにも良く比較対象される本作ではあるが、深津絵里はジュリエットのように無防備に感情を露わにしていくのだが、三上博史は、ロミオと言うよりも、ハムレットのようになってしまっていた気がする。愛というよりは、叶わぬ障害に悩み苦しむ心情が全面に出てしまい、何処かで感情を押し殺してしまっているのだ。これは、解釈というより、三上博史という役者の資質なのではないだろうか。だから、どの場面でも、ひっそりと佇み、また、立ち去って行くのだ。決して、外に向けて感情を放出することがあまりないので、心情が良く分からない。

一番印象的なシーンは、アナベラが妊娠したことが発覚し、怒り狂う夫ソランゾを演じる谷原章介と深津絵里のバトルのシーンだ。お互いがストレートに感情を剥き出しにして、相手に喰って掛かる。複雑な感情でも何でもないのだが、ここまでの熱いパッションが、それまでのシーンで全く感じられなかったため、ハッと目覚める感じすらした。また、前半登場する、高橋洋は嬉々として楽しいが、他の人々と明らかにトーンが違うため、浮いてしまっていたと思う。

バッタバッタと人が死んでいくのだが、剣で人を殺す時の、あの、グサッという音響がやたら耳につく。しかも、ボリュームが大きいので、一瞬、ギャグかと思うほどだ。音で言えば、パーティーのシーン。ガヤガヤとした人の話し声も、明らかにそこに居る人々以上の声が音響で流れるのだが、これまた大きな音なので、見た目とのギャップは甚だしい。

荒れ狂うジョバンニが妹を殺め、無軌道に人を殺しまくり、殺される終焉。もう、ここまでくると、何が何だか分からない。世界を覆う壁をぶち破ろうともがいている故の行動であるとは分かるのだが、妹との関係性が希薄であったため、ただの狂ったアナーキストにしか見えない哀しさすら、漂わせる。

人の出はけの間延びした感じといい、前述のそれぞれの役者たちの演技のバランスや音響の問題など、演出家の最終チェックを受けずに提出してしまった未完成品であるような気がする。「あわれ」である。

溌剌とした元気な女優陣のテンションに引っ張られ、語りだけでグイグイと引き込まれていった。テーマは女性器だが、その語り口の何とポジティブなこと! 多分、女性同士の会話でもここまでは言わないだろうというところまで、あっけらかんと語られていく。しかし、これが決して「赤裸々」という表現にはならないのだ。作者自身の視点が、テーマにユーモアを込めながらもセラピストのような冷静な客観的視点を保っているからかもしれない。演出も出演者も、その意図を十分に汲んでいたと思う。

いくつもエピソードを重ねて構成されているのだが、例えば、“毛”について、とか、ウァギナが何か着るとしたら、口を聞くとしたら、どんな匂いがするか、などなど楽しいものから、戦闘地帯でのレイプについて、アメリカのレイプ被害者は年間50万人に及ぶなど、リアルな現実も併せて語られていく。

宮本亜門演出は、女優陣を全面に押し出すことに徹し、下手な小細工などには一切頼らない。“聴かせる”シーンなどでは照明に気を配りそこで語られることが浮かび上がってくるような効果を狙い、また、怒るときなどは、舞台前面に役者が仁王立ちし、拡声器を片手に客をアジテーションしていく。背景のクリスタルのカーテンも、シーンごとに照明と呼応しながら、様相を変化させていくのも、目に楽しい。そういえば、音楽は一切流れなかった。

何よりも役者たちの人生の背景が観ている内に自然と浮かび上がってくる。東ちづるは、いくつもの恋の浮名も流しながらも、ドイツ平和村などの支援活動も積極的にやられているなあなどと思い出し、また、内田春菊も、漫画家・作家・女優などマルチな才能を発揮される方であるが、まず思い浮かぶのは、あの衝撃的だった処女小説であったり、野沢直子は生活スタイルも独特に、かつて女性器がしゃべる映像を何か撮ってたなあとかいう情報も、アタマの何処からか引っ張り出されてくる。

物語の中に組み込まれた役を演じるのではなく、女性という立場から女性を語っていくので、そこで語られることが誰であるのかという特定性が全くないのだ。だから、必然的にそこで語る人間の人生がオーバーラップされて見えてくるのだ。そういう意味では、この3人の個性全開に生きる彼女たちの表現が、上手く際立って映えていた。本性を出さず役を演じることに徹する女優には出せない、気持ち、が伝わってくるのだ。

やはり、野沢直子の、お笑いで鍛えた客を取り込みながら引き付けるという力技には圧倒された。東ちづるは、その安定感が観ていてホッと安心出来る魅力があり、語り部的な立場でもある内田春菊は、アーティスティックな感性が着る衣装にも反映され、3人の中でもその存在感が大きなアクセントになっていた。

洒落た感じで語る女性の下ネタ話が、これを契機にムーブメントになる予感を感じた。何故かというと、観る前に想像していたより、ずっと人間臭かったからだ。女性器を語ることが、生きていること、そのものを語ることであったからだ。本性を吐露することで、女性器はSEXという呪縛から、解き放たれることが出来たのではないだろうか。いや、それは、男である私の私見ではありますがね。

人の血がたくさん流れる芝居である。登場人物の半分が殺されていく。しかし、何処かあっけらかんとしたユーモアが全編を包み込み、深刻の深みにはまることはない。作者マーティン・マクドーナーは、アイルランドという土地にしっかりと根付いた「闘い」の歴史をDNAに沁み込ませた、かつての戦士たちの末裔を例に取り、切っても決して切れることのない暴力の連鎖というものを、達観して高笑いしているかのような爽快さすら感じさせるのだ。

血が流されたとしても、すぐに砂利道に吸い取られ、しばらくすると、まるで、何事も無かったかのように人々は日常生活を送っていくというような、生命力と言うか、死と生が隣り合うが日常と言うか、衝撃的な表現が続くのではあるが、登場人物が生活者であるが故に、エンタテイメントのアクションものの絵空事には成り得ない現実感が迫ってくる。

この土壌が生んだ悲喜劇ゆえ、演出の長塚圭史は、緻密にアイルランドの茫漠たる荒涼感をこの戯曲から抽出しようとしている。死体を切り刻むという非常にリアルな表現を取りながらも、アイルランドを掬い取ろうとするスピリットは繊細に、人の心の奥底へと分け入るようなアプローチをそこかしこに忍ばせている。

時折、ほんの微かに背景に流れる風の音。拷問の場面で逆さに吊るされた男の頭上で何故かゆっくりと明滅するライティング。ある舞台転換前、一瞬、部屋の背景の壁やガラスなどが強烈な真黄色に染められるシーン。転換時に大きく流れるアイルランド風音楽。この現実世界の彼方向うから、何か、が視線を投げかけているかのような俯瞰の視点を感じさせ、贖えない運命を積極的に受け入れ享受するスピリットが自然に溢れ出し、登場人物に反映されている。故に、何かに突き動かされているのだという衝動に、きちんと裏付けが生じてくるのだ。

木村祐一が、作品全体のトーンを決定付ける飄々としたユーモアを醸し出し出色である。岡本綾の存在感は強烈だ。最後の残虐な行為も強い説得性を持ってサラリとやってのける。高岡蒼甫は、時に、感情が高まっていく台詞の間に息継ぎをしてしまうことで、うまく感情が台詞に乗らないことがあり、また、キレると恐ろしいという領域までは、感じることが出来なかった。チョウソンハの、ボケ振りは大仰に、キンキンな声のトーンも印象的で面白い味を出していたと思う。

即物的で殺伐とした作品なのだが、長塚圭史は、そのドロドロな奥底から、「絆」みたいなものも炙り出している。勿論、愛猫「ウィー・トーマス」と高岡蒼甫演じるパドレイクの関係性が物語の発端なのではあるが、父との、女との、また幼馴染との「絆」が絡み合い、物語は展開していく。「絆」は切っても切れないのだ。暴力だって、それと一緒なんだ。いや、ほんのごく日常の中から、暴力は生まれてくるものなのだと、「暴力の連鎖」と「絆」を重ね合わせてみせる。

最後のオチには笑うしかない。残酷と笑いが同居しながらも、「絆」に何処か心癒されるという、複雑な感情と行動が交差する混沌が、まさに、今、なのかもしれない。

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