2014年 11月

かつて、野村宏信と田中実が共演した同作を観た記憶はあるが、どうしても映画「太陽と月に背いて」のディカプリオとデイヴィッド・シューリスの印象が鮮烈に記憶の中残っていた。本作の、ランボーは岡田将生、ヴェルレーヌは生瀬勝久で、映画版に近いキャスティングのイメージが彷彿とさせられる。

舞台上には裕福なのであろう屋敷の居間が広がっており、蝋燭の光が揺れる幽玄な雰囲気を湛えている。生瀬勝久演じる老齢のヴェルレーヌがその空間に現れ、かつてランボーと過ごした日々を回想していくことになる。

戯曲は登場人物たちの会話に徹底してフォーカスされていく。これ見よがしの外連味は一切廃され、作者は会話の中からその人物像を浮かび上がらせようと腐心していく。蜷川幸雄が室内劇を上演作品として選択するのもなかなか珍しいが、氏の興味はランボーにこそあるのではないかと感じていく。創造する者たちの、ある種のイコンでもあるランボーに肉迫することで、混濁する自らの創造の源泉を詳らかにしたいという欲望が沸き起こったのでは、とも想像してみる。

俳優陣の力量と魅力とが大きく問われることになる戯曲である。ランボーを演じる岡田将生が初舞台だとは思えない程、生き生きと舞台上で躍動する。自分を巡る様々な事象に迎合することなく自己中心的な言動を貫いていく。そして、まるで求道者のように自らの意識をギリギリの状態にまで追い込むマゾヒスティックな側面を併せ持ちながらも、追い求める真実を希求するカラカラに乾いた渇望を、観る者に切っ先鋭く叩き突けてくる。ランボーの心の慟哭が、声なき叫びとなって、心が鷲摑みにされていく。

人間が心の内に孕んだ矛盾する可笑し味を臆することなく大胆に開陳していく物語の展開は、まさにランボーの在り方そのものだと言えよう。ランボーの溢れんばかりの才能に廻りの者たちは惹き付けられていく訳であるが、見目麗しいルックスと相まって、自らの欲望に忠実に疾駆する姿にほだされていく様は、ある種の喜劇さを呈していく。

片や、繊細な大胆無敵さを発揮するランボーを受けて立つのがヴェルレーヌである。生瀬勝久演じるヴェルレーヌは、一時たりともランボーを手離すことが出来ない呪縛に絡め取られているのだが、沸々と湧き出る嫉妬や羨望が時に暴発する様も生々しい。ランボーがヴェルレーヌの生き様の痛いところを突いてくるのだ。時に殺傷沙汰になる展開も、芸術家の追い詰められていく真情と、世間からひた隠しにしなければならなかった男色の関係性とが、日陰で生き永らえる男たちの諦観を感じさせ、哀切さえが漂ってくる気がする。

ヴェルレーヌの妻マチルドを中越典子が演じるが、どう考えても若き詩人と友情以上の関係性で繋がっている夫と決して離別しようとしない性向には目を見張る。そう易々と離縁が出来ない時代背景もあろうが、音楽を愛でるブルジョア家庭に育った彼女は、芸術至上の意識が身に染み込んでいるのではないだろうか。また、自分が棄てられるというプライドが赦さないという意識もあるのかもしれない。蔑まれても逃避することなく、追い求める感情のベクトルの強度が、奇妙な三角関係を繊細に彩っていく。

出番は少ないながらも、マチルドの両親を加茂さくらと辻萬長が演じ、ブルジョア家庭の意気を感じさせ見事である。物語後半に登場する老いたヴェルレーヌのパートナー・ウージェニー演じる立石涼子の下層階級の下卑た女の包容力が心地良い。

会話劇故、その背景となる舞台美術のリアルさと美しさは作品の重要な役割を担うことになる。ブルジョア家庭の豪奢な設え、鏡が多用されたパリのカフェのビロードの手触りのような質感、ロンドンのアパートの鄙びた雰囲気、泰西名画のような森林風景など、箱庭のような精緻な背景が独特な世界観を醸し出し、物語を背景から押し支えていく。

時代を大急ぎで駆け抜けた詩人たちの残り香を堪能しつつ、闘い、罵倒し合い、追い詰められながらも濃厚な関係性を維持した人々の、ギリギリに生き抜いた生き様に、乾ききった心がいつしかエンパワーされているのに気付くことになる。強烈なパワーは確実に連鎖していくのだということを確信し得る、稀有な体験を享受出来る精緻な室内劇であった。

紫式部とタイトルにあるので、舞台は平安時代で、女優陣は十二単を着て登場するのかと思いきや、現代のモダンなバーのカウンターで物語は展開していくことになる。登場人物は2人。紫式部を長澤まさみ、清少納言を斉藤由貴が演じ、台詞のないバーテンダーが、出演者二人がオーダーする様々なお酒をサーブしていく。

高らかに流れる音楽のセレクトが強烈だ。トルコの軍楽隊の楽曲なのだが、どうしてもTV版「阿修羅のごとく」が思い起こされていく。女同士が闘わせる感情の奥底にあるドロドロとした想念のようなものが、グッと浮き出る相乗効果を発揮していく。そういえば、なんと本作の衣装はワダエミだ。なんと、これは、和田勉繋がりではないか。インスピレーション・ソースが見え隠れする。

そのワダエミの衣装が、印象的だ。物語はバー・カウンターのスツールに座った清少納言の後姿から始まるのだが、グリーンを基調としたドレスの裾の幾つかのポイントから垂らされたストーンの様なものがアクセントとなっており、当然ながら座った時と立った時の双方をイメージし造形されていて見事である。紫式部の衣装は紫がアクセントの、清少納言に比べて丈がやや短めな可愛いカクテルドレス。両者の在り方を凝縮して魅せたコスチュームが、二人の性格付けをクッキリと際立たせる。

バー・カウンター、一場の演目である。堀尾幸男が造形する一枚板風のカウンターに座る出演者の後姿から物語はスタートするため、どのような展開が施されていくのかと行方を見守ると、ステージの盆が回転し、様々な角度が現出することになる。そうか、こういう趣向でくるのかと腑に落ちる。

お膳立ては万全だ。さて、物語がどのように進んでいくのであろうかと注視する。設定は現代で、二人は作家。由緒ある文学賞の審査員という設定であるのだが、話の内容は、清少納言と紫式部そのままなのだ。会話は、「枕草子」や「源氏物語」に言及し、文学賞の候補になっている和泉式部の実力を認めながらも疎んじる裏腹な感情をリアルに表出させ、記者発表はどちらがするかなど、クリエーター同士のリアルな鞘当が繰り広げられ、段々と舞台に惹き付けられていく。

時空が捩れ、攪拌された、奇妙な設定である。しかし、全く違和感なく、清少納言と紫式部との丁々発止がナチュラルに観ることが出来るのは、ひとえに、三谷幸喜の才覚故なのであろうか。新旧の創作者である女性二人の立ち位置が、三谷幸喜の現在と過去をオーバーラップしているような気もする。故に、創作に関する葛藤やジレンマの吐露が前面に放出され、女性の真情がフォーカスされ過ぎることなく、モノを創る者のひねくれた視座と激情が染み出る。

この物語の設定自体が独特であり、本作を唯一無二たらしめている。そのワールドの中において、長澤まさみと斉藤由貴という華も実もある女優が活き活きと輝いていく。長澤まさみはその天真爛漫なイメージそのままに、下心のある悪気を笑顔で包み込みながら嬉々として旬の作家・紫式部を演じていく。斉藤由貴は可愛さを残しながらも、落ち着いた重鎮の威厳も漂わせ、長澤まさみをグッと受け止め、作品に安定感をもたらせていく。

旬の女優の魅力を存分に堪能しつつも、創造する者の苦悩や嫉妬や憐憫が押し出されることにより、一筋縄ではいかない人間の隠された心根がグサリと突き付けらリアルである。しかし、一歩引いた三谷幸喜の冷静な視点が二人の世界に奥行を与え、女同士のバトルの中から、人間が抱える混沌とした普遍的な感情を掴み出していく。

三谷幸喜の女性を崇める真情が、女の本音を露骨に暴ききることなく、ものを創る者同士の鞘当てに興味をフォーカスされ、紫式部に清少納言という設定であるが、男性が演じても通じるような意気を感じる作品に仕上がったと思う。

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