「ロミオとジュリエット」を読み演じる4人の男子学生という設定は分かってはいたが、台詞は全て「ロミオとジュリエット」。ロビン・ウィリアムズの「今を生きる」にある、男子学生が夜な夜な寄宿舎を抜け出し森の洞窟の中で密かに本を読み会うシーンのようなものをイメージしていたが、男子学生同士のプライベートの会話などは一切無く、脚色されたその台詞を、4人が役割ごとに演じ分けるというシンプルな設定。しかし、その無駄を一切省いた硬質なコンセプトは見事成功した。戯曲の中の人物たちの心のエッセンスをあぶり出すことが出来たからだ。
手前味噌ながら、昨年、弊社で制作した「朗読劇・河童」と、コンセプトが酷似、である。
白Yシャツに黒いパンツと4人が同じ格好であり、また、4人は男子学生であるという前提が明確であることが重要である。衣装や性別、また、状況を表す装置などを排することにより生まれてくるもの。何かの役を演じるのだ、という概念を取り払ったところにある、彼らが捉える「ロミオとジュリエット」なのだということが一切の説明なく提示される。
しかし、4人の役者は、四角いリングの上でこれでもかという位、動く動く! その運動量足るや半端なものではないだろう。一瞬にして役柄が変わり、また、場が転換することを身体でもって表現しようとすると同時に、熱い思いが迸る抑えられない気持ちが自然と勢いある動きとなって現れてしまうのだという説得性が、彼らの汗から滲み出てくる。
しかし、これはある意味、観客への挑戦であるとも言える。観客に対して、イマジネーションの有無を問い掛けてもいるからだ。ここから、想像なさい、ということである。可視的なるものだけに捉われている人には決して見えてこない何かを、今作品は提示しているのである。
首藤康之はその動きもさることながら台詞の饒舌な言い回しは、まさに、役者である。佐藤隆太がジュリエット役であることが、この作品を親しみ深いものとさせた。三枚目的な彼のキャラクターが可笑しみをさそうのだ。小林高鹿はストレートな正統流できっちりとアンサンブルの輪を固め、浦井健治は格好良いルックスながらコミカルな味も出すという側面で楽しませてくれた。
今作品を観ようと思った理由のひとつが、主要スタッフがブロードウェイ公演のスタッフであるということにもあった。状況や感情を説明しようとするのではなく、イマジネーションを喚起させようとする論理的背景のあるアプローチにて、日本のプランナーとはまた違った表現が新鮮であった。
ここに集った皆の、今後の展開に注目していきたい。この「通過点」は、必ずや血肉となるはずだからである。良い意味での追い込まれ方が出来た場だったのでは、と思うからである。
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