2005年 2月

「ロミオとジュリエット」を読み演じる4人の男子学生という設定は分かってはいたが、台詞は全て「ロミオとジュリエット」。ロビン・ウィリアムズの「今を生きる」にある、男子学生が夜な夜な寄宿舎を抜け出し森の洞窟の中で密かに本を読み会うシーンのようなものをイメージしていたが、男子学生同士のプライベートの会話などは一切無く、脚色されたその台詞を、4人が役割ごとに演じ分けるというシンプルな設定。しかし、その無駄を一切省いた硬質なコンセプトは見事成功した。戯曲の中の人物たちの心のエッセンスをあぶり出すことが出来たからだ。

手前味噌ながら、昨年、弊社で制作した「朗読劇・河童」と、コンセプトが酷似、である。

白Yシャツに黒いパンツと4人が同じ格好であり、また、4人は男子学生であるという前提が明確であることが重要である。衣装や性別、また、状況を表す装置などを排することにより生まれてくるもの。何かの役を演じるのだ、という概念を取り払ったところにある、彼らが捉える「ロミオとジュリエット」なのだということが一切の説明なく提示される。

しかし、4人の役者は、四角いリングの上でこれでもかという位、動く動く! その運動量足るや半端なものではないだろう。一瞬にして役柄が変わり、また、場が転換することを身体でもって表現しようとすると同時に、熱い思いが迸る抑えられない気持ちが自然と勢いある動きとなって現れてしまうのだという説得性が、彼らの汗から滲み出てくる。

しかし、これはある意味、観客への挑戦であるとも言える。観客に対して、イマジネーションの有無を問い掛けてもいるからだ。ここから、想像なさい、ということである。可視的なるものだけに捉われている人には決して見えてこない何かを、今作品は提示しているのである。

首藤康之はその動きもさることながら台詞の饒舌な言い回しは、まさに、役者である。佐藤隆太がジュリエット役であることが、この作品を親しみ深いものとさせた。三枚目的な彼のキャラクターが可笑しみをさそうのだ。小林高鹿はストレートな正統流できっちりとアンサンブルの輪を固め、浦井健治は格好良いルックスながらコミカルな味も出すという側面で楽しませてくれた。

今作品を観ようと思った理由のひとつが、主要スタッフがブロードウェイ公演のスタッフであるということにもあった。状況や感情を説明しようとするのではなく、イマジネーションを喚起させようとする論理的背景のあるアプローチにて、日本のプランナーとはまた違った表現が新鮮であった。

ここに集った皆の、今後の展開に注目していきたい。この「通過点」は、必ずや血肉となるはずだからである。良い意味での追い込まれ方が出来た場だったのでは、と思うからである。

集団の崩壊を描いた連合赤軍などを彷彿とさせる清水戯曲を、当時の匂いを残しつつ普遍的な出来事に昇華させ得た力作である。

中嶋朋子が紗幕の上で弄ばれながら登場するオープニングから、戯曲の強靭さと拮抗すべく果敢にあらゆる仕掛けを繰り出す演出のパワーに圧倒させられた。浅間山荘事件の時、巨大な鉄の玉が家屋にめり込み家を崩壊させる強烈な映像がアタマの片隅に今でも残像のように残っているが、オープニング、紗幕の向こうに透けて見えるのは壁を壊す大きな鉄の玉であり、今作が、その時代から現代に向けて解決出来なかった問題を問い返してきているかのような発破の掛けられ方である。

自分が自分だと分からない主人公・将門。何とも滑稽な設定である。側近たちはそんな将門に振り回され、右往左往している。長が狂ったといえども簡単に組織を転覆出来ぬは、かつての長の威光の残り香か、目に見えぬオーラがその集団を未だ覆っているのか、理由はあれども、はっきりと明言出来るものもおらず、静かに潜行して策略が張り巡らされていく。

組織、集団というものの奇妙な歪みを描いて秀悦である。何故、ひとびとは、堂々と新しい長に取って変わろうとしないのか、いや、出来ないのか。それは、幾度にも渡って繰り広げられる、影武者選びという行為に表出しているのではないか。いざ、長になったときに果たして皆に慕われるのかについて、はっきり言って自信が持てないのだ。だから、誰かに擁立させられたいのだ。かつて、「自分のレーゾンデートールは他者によってのみ確立させられるのだ。」と記した作家がいたが、他人がいるからこそ自分のアイデンティティのポジショニングがはっきりと保てるのだ。例えば、王が暗殺されたその場で、後継者が即「私が次の王である。」と宣言出来るのは、そういう暗黙の了解が既にあったからなのだ。
また、そう言い切らないと自分が殺されてしまうのだ。

木村佳乃演じる将門の妻・桔梗の前は、将門に対して更に愛憎というものが絡まってくる。また、今の自分の位置を保つためにはどうしたらいいかの策略を巡らしてもいる。表情に感情を載せない演じ振りは堂々としたものがあるが、ふとした際に零れてしまう本心などが垣間見られるような振幅を持ち得たとき、更に、女優としてステップアップするであろう。クライマックスの殺傷シーンも説得性を増すというものだ。段田安則は、生き延びることを主眼にしながらも、小ざかしく立ち回る本心の見えない三郎を演じて作品に深みを与えていた。五郎を演じる高橋洋のストレートな演技は全体構造の中において特にスピード感を感じさせてくれた。中嶋朋子のゆき女は、女の強さ・怖さを体現し得ていた。堤真一は、そんな、くっきりと色分けされた登場人物の中にあって、飄々と佇む狂気の将軍を嬉々として演じてみせた。

火、雪、更には上空から物凄い轟音と共に地に降り掛かる無数の石など、自然をモチーフとした視覚的な効果は観客の度肝を抜いた。また、叫びにも聞こえる韓国の音楽が、作品の通低音として流れる、人の「情念」を浮き立たせ強烈である。いつの世にも通じる人の哀しさに彩られた集団劇は、パワーあるものが残存するという動物界の掟にも似て、贖いようのない運命を甘受する日々の単調さへと回帰していった。人は「自分」を生きるしか術はないのである。

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