2011年 9月

開場時、客席と舞台の間には暗幕が掛かっているため、これから展開する物語を喚起させるようなアイコンは一切ない。暗転し明転すると、そこには、ごく普通のアパートのリビング・ダイニングのリアルなセットが現れてくる。主婦であろう女が、ベランダに干してあった洗濯物を取り込み、リビングで韓流ドラマを観ながら、衣類をたたみ始める。衣類の種類から、小さな男の子が居ることが分かる。緩やかで穏やかな空気が流れている。そこに1本の電話が掛かってくる。それは、一人息子が川に溺れている事を知らせる一報であった。その後、子どもは溺死したと伝えられる。ここから、彼女の、そして、周りに居る者たちの運命の歯車が狂い出す。

幕間に流れるフレンチポップスの、イイ具合に気の抜けた弛緩さが、リアルな現実の出来事との直面を避ける女の思いと呼応する。女のナレーションが、そこに被さる。子どもの死に直面し、打ちひしがれた外面とは裏腹に、その心の声は、常に前向きだ。しかし、そんな女の本心は誰も知る由もなく、最後まで表だって明かされることもない。ごく普通に生きているかに見えた主婦に巣食う、底なし沼のような閉塞感。しかし、このカタチにならないモヤモヤとした気分は、登場人物全員が内包しているということに、少しずつ気付かされていくことになる。

この舞台は、実は現実との合わせ鏡ではないのかという思いが、頭をもたげてくる。だから、観客はだんだんと物語の中にのめり込んでいってしまうのだ。目を離すことが出来なくなってしまう理由? だって、舞台の上に居るのは、自分自身かもしれないからだ。

女の旦那と、隣人夫婦との間で交わされる会話は、社会的秩序に則したルールにのっとって進められていく。私たちも日常で垣間見たことがある様なごくごく普通な光景だ。しかし、ここで表出している姿は、欺瞞に満ち満ちている。何故か? 真意は別のところにあるからだ。三浦大輔は、その欺瞞を剥ぎ取り、開陳し、丁寧に紡いでいく。

三浦大輔は、もう一つのケーススタディを用意する。女の家に来た、エアコンの修理工だ。機器の取替えに来た、平日の旦那がいない昼間に、相棒を先に帰らせた修理工は、女をレイプする。いや、女が、そうしてと望んでいたのだろうか。その出来事をきっかけに二人は逢瀬を重ねることになる。

修理工は、もはや今の現実の生活から這い上がれることはないのだという諦めを、無自覚に抱いている。マイナスに向いたベクトル同士が合致すると、束の間、そこには夢が現出し、現実の生活を忘れることが出来る効果を生んでいくようなのだ。そのスポットに、二人は入り込み、溺れていく。女はナレーションで、私は回復してきているのだ、と語っていく。

女は、修理工が差し与えたクスリも受け入れていく。放たれた矢は、確かな的も見出せないまま、彷徨っていくことになる。こうした凋落振りを観ることで、その光景を観ている自分の気持ちが、だんだんとスッキリとしていくことを自覚する。人の不幸は楽しい、ということの反面、現実的には堕ちることが出来ない自分を代弁してくれているかのようなこの醜態に、身体の内側で快哉を叫んでいる自分に気付かされるからだ。

修理工の内縁の妻は修理工の暴力で堕胎し、女の夫は会社を解雇され、更には隣人の妻と出来ていたことまでも判明する。狂った歯車は、もう元には戻せないところにまで来てしまった。そんな、波乱万丈な展開を、決して荒げる表現手段を取ることなく、日常的な出来事の延長戦上として淡々と描く作者の、そして役者の技量は果てしなく深く、説得力を持って観客と対峙する。

役者陣は誰もが素晴らしいが、特に、修理工を演じる米村亮太郎と、女を演じる篠原友希子が強烈な印象を残す。米村亮太郎の無言の圧力と目力の鋭さは観ているだけで怖くなる絶品演技! 篠原友希子は人間の在り方を多面的に演じ分け秀逸である。台詞の微妙な間合い、何も喋らない沈黙の時間、大袈裟な動きを排することなどにより、芝居という嘘の世界をリアルな生活空間へと変貌させていく。

終盤に大どんでん返しがあり、女は堕ちるところまで堕ちてしまう。ベランダから一旦は飛び降りようとする女であるが、それよりも空いた腹を満たすために、食べ物を口にし始める。欺瞞を全て脱ぎ捨て、現実を受け入れることによって、初めて女は自由になれたのではないのかと、観ていて清々しさすら感じてしまう終幕だ。

本作は、閉塞した現代日本に叩き付けられた、踏み絵のような作品であると思う。自分が何に共感し、何を嫌悪したのかが、今の自分自身の姿そのままなのだと知る、衝撃作であると思う。

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