原作、映画と「パレード」の世界を体験してきたが、今回は演劇というステージで、どのような独自性を打ち出すのかが気になっていた。会場に入ると、既に舞台上には、マンションの居間のセットが設えられているのが分かる。そこで、この部屋を基点に、物語を展開させていくのだなということが見えてくる。新たな表現を目指して挑戦するのであろう、クリエーターたちの心意気が感じられ、わくわくとした思いに駆られていく。
冒頭のシーンが、本作をシンボリックに表現していて出色である。とある日の朝、後に居候となる若者が、居間のソファーで寝ている光景が現れてくる。そして、下手に2つあるドアの中にある部屋から、その部屋の住民、男女2人ずつが、居間を行き来するのだ。出勤する者、また、部屋へと戻る者。そこに知らない誰かが居るのにも関わらず、そのことについて誰もが無関心を装い、いつもと変わらない行動を取っていくのだ。不思議そうに眺める若者の眼差しが、本作の“視点”にもなっていく。舞台奥に、「パレード」という文字が投影され、物語はスタートする。
その部屋の住人は4人。映画会社勤務の会社員、福士誠治。大学生の山本裕典、無職の本仮屋ユイカ。イラストレーター兼雑貨屋店長の原田夏希。元々は、会社員の住まいだったようだが、いつしか友人、その友人という繋がりで、皆、この地に辿り着いたようである。それぞれが言いたい放題で、独自の基準で行動をする自由さに満ちているかに見えるが、どうやら他人の領域には入らないという了解が各人にあるのだと見て取れる。
ある晩、帰宅した会社員がジョギングに出掛けようとするシーンがあるのだが、ごくごく日常的な会話が成される中、少々突発的なことなどが起こり、彼はなかなか外に出ていくことが出来ない。これも、後に、効いてくるんですね。表面的には、ごく自然な体で物語は進行していくのだが、他の住人たちは、もしかしたら彼をジョギング行かせたくないのではないかという、伏線になっているのだ。
冒頭のシーンにしても、会社員が外に出られないシチュエーションにしても、原作を一旦解体し再構築した蓬莱竜太の脚本が、実に繊細で独自の視点を持った「パレード」の世界を描き出し秀逸である。
物語は、竹内寿演じる、男の客をとる夜の仕事で日銭を稼ぐティーンエージャーが、日々、飲み荒れているイラストレーターと泥酔状態で出会い、ひょんなことでこの部屋を訪れ、居候するようになっていく。住人たちよりも少々若い世代だが、皆と相まみれることなく、シニカルに彼らを傍観する立ち位置を取っていく。
以前、一度、この部屋に来たことがあるのに、誰もそのことには気付いてはいない。彼の存在は、住人たちの意識化にある欺瞞を表面化させ、隠蔽していたいことが、ポロポロと暴き出され、平穏であった生活が徐々に変化をきたしていく。行定勲の演出は、登場人物たちの感情を、ピンセットで摘み出すがごとく、繊細に感情が行き違う様を描いていく。
そして、会社員の本性の露見が、本作のクライマックスにもなってくる訳だが、ここで、住人たちが彼を外に出したくなかった理由にも合点がいくことになる。構成が実に上手いので、上質なミステリー小説を読んでいるかのような酩酊感がある。
しかし、本作には、原作にも、映画にもない、ラストシーンが用意されていた。それは、衝撃的な展開を示すのだが、住人たちは、その後、まるで何もなかったように、日常の生活へと舞い戻っていくのだ。その無関心さに戦慄すると共に、穏やかな生活の中に潜む毒素の要因を炙り出す光景が観客にも照射されてくる。あなたは、どうですか、と。
竹内寿の客観性ある存在感が心に残る。山本裕典は作品を牽引し、福士誠治は大らかに皆をまとめ上げている。本仮屋ユイカの飄々とした漂い方も独特で、原田夏からは虚勢を張った女の弱さが滲み出る。
少々残念なのが、下手ベランダのシーンでの外の音の処理の仕方と、上手ドアがどう見ても木工の造りでリアルな音は木のそれなのだが、ドアの開け閉めの音響が金属音なことに違和感を感じざるを得なかった。
現代の若者の、他人との関わり方の一端を鋭く描きズシリと見応えがあった。それは、何よりも、切っ先鋭く原作を見事に料理した蓬莱竜太の功績が大きいと感じた。
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