2003年 9月

強烈な視覚イメージの連続である。どのシーンもひとつのアートとして成立しており、観る者を捉えて放さない。何を削るかを決めることがアーティストの一番大事な作業であるとも言われるが、この作品も、一旦ぎりぎりにまで削ぎ落とした上で、再度彩色していくといった過程を経ているのか、様々に変幻する場面に無駄がなく、人の存在を含む全ての要素が常にシンボリックにその存在意義を強烈にアピールし、更にイメージを喚起させられると言った具合だ。

ミニマルでありながらパッショネイト。相反するかに思えるこのアプローチが双方共存するという稀有なステージをロバート・ウィルソンは作り上げた。

トム・ウェイツの音楽もまた、この作品の大きな要素のひとつである。咽び泣くような、語りかけるような、独特のメロディーは勿論期待するところだが、リズムをバラバラにして繋ぎ合わせたような、クルト・ワイルの「三文オペラ」を彷彿とさせるような節回しも見られ、そのヴァラエティさで観客を飽きさせることが無い。また、ブロードウェイ・ミュージカルのような張り切り具合が無いため、ゆったりとした時間の流れの中に身を任せることが出来た。

衣装もまた、人物ごとに色分け・視覚化されている。妻マリーが体現する赤のイメージは、全編を通してアクセントとなっており、いつも付いてまわるものとしてのヴォイツェクの心象風景を伺わせる。但し、呪縛感は無く、カンディンスキーの絵画のごとく整然と在るべき場所にきちんと収まっているという感じだ。

話は物凄く悲惨なのだが、どのシーンにおいても登場人物はモダンダンスのごとくある種の動きをなぞりアーティスティックに振舞うため、キューブリック映画の役者がそうであるように、何かで悩んではいたとしても嬉々として前向きに見えてくるから暗くならずにすんだ。

「不安」「狂気」「破壊」という現代にも通じるモチーフを、肩の力を抜いて観れる作品として構築した視覚芸術として、この「ヴォイツェク」は一級品の出来映えであろう。

他の何ものも圧倒して陶然と存在する大竹しのぶの独壇場。美術や照明、音楽などが役者を活かす要素のひとつであったことを、今さらながら再認識した。蜷川演出も過度な装飾は抑え、ひたすら大竹しのぶを中心とした役者陣のナマの生き様をさらけ出させることに徹底した。

時に景気沈滞ムードの今の日本にあって、運命や神と対峙するギリシャ悲劇の宇宙的拡がりに見事拮抗する大竹しのぶの演技はあまりにも壮大過ぎて、過剰であると簡単に片付けてしまう人もいるかもしれないが、1時間40分、ほとんど出ずっぱりで、膨大な台詞を天才的手腕で駆使するその才能は誰しも認めざるお得ないであろう。ギリシャの野外劇場で見てみたい。その時、大竹しのぶは、ギリシャの歴史と空気を一気にからだに吸収し、絶対パワーアップしてスパークするに違いない。

岡田准一は旬のタレントが持つきらめきはあるが、きっと誰もがそう感じたと思うが台詞が聞き取りづらい。ただし、日頃の鍛錬の賜物か立ち振る舞いにはキレがあり、シャープな印象を与える。また、もともと繊細な感情表現を得意とするところであろうが、空に向い謳い上げるような現実と次元を異にするような台詞も、いかに説得力を持って語っていくかなど、スキルもこれからどんどんアップさせていって欲しい。

波野久里子も狡猾にして毅然とした感情的な女を見事に演じのけた。オレステスの訃報を聞くシーンの複雑極まりない反応は、観客にもその幾重にも変化する感情をシンクロさせることが出来た。また、山口沙弥加も大竹しのぶに負けじと堂々と臨んでいくその姿勢に好感が持てた。役者を取り囲む壁のようなコロスの存在は、あくまでも群れとしてではなく、それぞれが個人として物事に対峙していた。

ただ、オレステスが入城しクリュタイムネストラを討ちに行くシーンで残されたコロスが慟哭する場面、壁の上方に赤い照明が月のように浮かび上がるのだが、ゴツゴツした壁肌のせいもあってか、すぐ消えてしまうということもあってか、象徴させたいことがいまひとつ未消化である気がした。

コンセプチュアルな表現に捉われることなく、奇をてらわず不要な要素を全て取り払いシンプルに提示されたこの「エレクトラ」は、可視的なるものの究極を目指す蜷川演出が、新たな表現アプローチを獲得した舞台といえるのではないだろうか。それは、大竹しのぶがあってこそ生まれたことに相違はあるまいが。

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