2015年 5月

イギリス人がアメリカを描く時、冷静な視点が作品に客観性を付与し、その地で生きる人々の生々しさを浮き彫りにしていく様は、過去、数々ある映画などで目撃し、実証されてきていると思う。日本ほど“距離感覚”が遠くはなく、かつ、ルーツを共有する精神が、洞察力を研ぎ澄ましていくのであろうか。

テネシー・ウィリアムズが描く、アメリカ南部の鬱屈した社会の中に生きる人々のヒリヒリとした窮屈な真情や閉塞感が、本作から痛い程伝わってくるのは、舞台となっている時代を具象化しようと腐心した、演出を担うイギリス人演出家フィリップ・ブーリンが持ち得る資質と手腕とが、遺憾なく発揮された結果なのだと思う。

戯曲と表出する世界とが、無理なく融合していくため、観る者は作品世界に段々と吸い込まれていくことになる。そして、その世界にズッポリと入り込むと、見えてくる地平がある。それは、その地元に根ざしたコミュニティと異分子たちとの、対峙、葛藤だ。

相容れない両者が向かい合うと、異分子を抑え込もうとする力学が働くというのは、今の世にも廃れることなく続いている、ある種の弊害である。戯曲の中から、普遍性あるメッセージが汲み取られ、本作は、今を生きる私たちが感じる閉塞感とシンクロし、グッと親和性を増していく。

物語は、アメリカ南部の町、ツー・リバー・カウンティに住まう人々たちが口火を切る。実力派女優陣が居並び四方や話を繰り広げるのだが、起伏のない平坦な展開に、当初、抱いていた作品に対する期待感が、少々薄まっていく。普通なのだ。しかし、これから現れる物語の登場人物たちの生き様の紹介などが成されていく光景が、冷静に伝達するという側面を抱合しているとも言える。

父を殺めた首謀者の妻となっていることを後に知るレイディを大竹しのぶが演じ、町にふらりと現れた“蛇皮の服を着た男”ヴァルを三浦春馬が演じる。今を生きる世界から脱出をしたいと希求する二人の思念がぶつかり、そして、激しく求め合っていく。物語の展開の機軸となる二人であるが、変化を忌み嫌う地場の人々の神経を逆撫ですることになっていく過程がスリリングに描かれていく。

レイディの父は、黒人に酒を売ったため秘密結社に殺されたという背景も凄いが、その現実を是とする様な社会風潮を、テネシー・ウィリアムズは冷徹に描いていく。ヴァルも何かに追われて、この町に流れ着いたのだという後ろめたさを抱えているが、まとわり付く因習から逃れてきたのだということは明白である。大竹しのぶと三浦春馬の出会いは、人間の乾いた精神と欲望を繊細に紡ぎながら、観客の耳目をジワジワと集めていく。

最初は脆弱さをも感じさせた三浦春馬だが、物語が展開していくに従って、ヴァルの中から逡巡する思いを気骨を持って掴み出し頼もしい。そのパッションが、レイディを演じる大竹しのぶの絶望感と渇望感と見事にスパークしていく様が、本作最大の見所だと思う。

レイディの元恋人の妹キャロルは水川あさみが演じるが、閉塞感に覆われた社会の中で奔放に生きようともがく女の浅薄さに深い洞察力で斬り込み、現状を突き抜けようとする意気を発破し勢いがある。町を牛耳る保安官の妻ヴィーは三田和代が演じるが、旦那を始めとする男社会とは異にする独自の世界に生きる絵心ある妻をリリカルに造形し、作品にふくよかなリアリティを付与していく。

フィリップ・ブーリンの才覚により、アメリカ南部の鬱屈した世界と、錯綜する現代社会に巣食う悪弊とが融合し違和感なく描かれ、テネシー・ウィリアムズの戯曲世界が、今を生きる観客にリアルに迫ってくる。実力派俳優陣から、最大限の力を発揮させることに成功した傑出した作品に仕上がった。

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