2015年 4月

さいたま芸術劇場大ホールのステージ上に造られた特設舞台の後方から、車椅子に乗ったゴールド・シアターの御仁と、その車椅子を押すネクスト・シアターの面々が客席に向かって迫ってくる。コロセウム状に設えられた観客席の下のアクティング・エリアに70人近い人々が集合する。車椅子に座っていたゴールド・シアターの方々は立ち上がり、そこに居る皆がそれぞれ素に近い感じで親しげに声を掛け合っていく。お互いに認め合い、連帯し、思念を分かち合う、ある種、理想的な人間たちの穏やかな光景が繰り広げられる。

と、突如、ラ・クンパルシータの調べが高らかに鳴り響くと、老若と男女とが入り混じって舞台上でタンゴを舞い踊り始める。圧巻である。この予想外の展開には、度肝を抜かれ、耳目が舞台に釘付けになる。人間とは素の状態のまま生き永らえているのではなく、何かの調べに寄り添いながら生き続ける、変容する生き物なのだと、物語の冒頭でクッキリと刻印されていく。

舞台の背景は、14世紀の英国で、リチャード二世が天下を治める時代。権力を濫用する王と翻弄される貴族たち、そして、その水面下で王座を虎視眈々と狙うボリングブルックとの抗争が機軸となって、物語は展開していく。

絶対権力者とその権勢に購えない配下の者たちという構図は、どの世においても変わらぬ普遍的な光景なのだと感じ入りつつも、王冠を抱く孤高の者が陥る、自己の思いを共有することが赦されない超絶な孤独感とがクッキリと対峙して描かれ、人間という存在がパラレルに表現されていく。

蜷川幸雄が筆致する人間を捉える視線は、人間世界を俯瞰して見つめる冷徹さを孕みつつも、この上ない優しさにも満ち満ちているため、一人一人の人物たちの微細な感情に共感を抱くこととなり、観る者は、図らずも心揺さぶられていく。世界は、人間が日々逡巡しながら生きる営みの集積で成り立っているのだと気付かされることになる。歴史として伝承されるのは、その結果。その苦渋と相反する幸福感とが綯い交ぜになった感情と対峙することで、自己の生き様を思わず反芻してしまう。

王の嗜好を男同士のタンゴで表現しデカダンな香りを漂わせ、歌舞伎の浪布が荒れ狂う感情の放出を外連味たっぷりに表現し、王が床に横になると十字架状の光が身体に被さるなど、視覚的な演出の奔流が作品に独特の美しさを付与していく。

タイトル・ロールを演じる内田健司は、変転する人生を受け入れなければならない王が唱じる膨大な台詞を、時に力強く、時に囁くように振幅の幅も豊かに表現し、観客の注目を集約させ、物語の中心にクッキリと聳立する。王座へと上り詰めるボリングブルックを樫山隼太が演じるが、野心家でクレバーな若き実業家の如く、その存在感は実に現代的だ。ボリングブルックの内側から、知力と行動力を掴み取り、活き活きと役柄を造形していく。ネクスト・シアターの若者たちの新鮮さと、ゴールド・シアターの老齢の人々の老練さが、作品にリアルな真実味を与えていく。

「リチャード二世」の中から、蜷川幸雄は、どの時代でも変わらぬ、権力の下で生きる人間たちの購えぬ運命を享受するしかない諦観や、瑞々しいスピリッツを掴み出し、叩き付けてくる。時を越えた普遍性と、現実感を伴う共感性とが共存した、秀逸な作品に仕上がったと思う。

開場すると、アクティング・エリアが、神奈川芸術劇場 大スタジオのセンターに設えられており、そのステージを両脇から挟むように観客席が造られている場へと入っていくことになる。舞台上では、料理をする男性と、そのサポートと作られた料理を何処ぞにサーブしに舞台袖へと消えていく女性が、粛々と仕事をこなしている。カフェ・レストランの厨房の様な感じだ。良く見ると、男性は、藤田貴大ではないか。左目を眼帯のようなもので覆っている。

ひたすらに、リアルに、料理を仕上げていく光景が、目の前で繰り広げられていく。開演時間になると、調理道具は全て取り払われる。ここで行われていたことは、この後に展開していく物語に、直接、連動することはない。藤田貴大は、物語が展開する中、鍋を供する際に登場する他、舞台の一篇をライブで撮った映像を、劇場内に据えられたスクリーンに投射する役割を担ったりもする。

シーンを客観的に見届ける役回りで、作・演出家が登場するには、そこに何かしらの意味があるに相違ない。藤田貴大がかつて左目の視力が極端に落ちていた時期があったのだとチラシに記されていた、その自らの経験を、黒子の様な役割でナビゲートしているのであろうか。藤田貴大の舞台上における、その存在自体が、本作のテーマそのものでもある気がする。

甘酸っぱい追憶の日々を起点に、ヒリヒリとした痛みを伴う思い出を逡巡しながら時空を跋扈し、また、リフレインを繰り返すのはマームとジプシーの世界であるが、本作ではパラレルに展開する多様さはグッと抑えられ、話の展開はいたってシンプルだ。

ある少年少女の日常の日々が綴られていく。そこに、時折、藤田貴大が現れるのだが、決して、物語の登場人物としてではない。そのシチュエーションの中に、まるで自らの姿を刻印しているかのような気さえしてくる。

印象的なのは音楽だ。エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」のメロウな楽曲が時折挟み込まれると、物語を冷静に捉える視点が、一気に感傷的な色合いを帯びていくのが面白い。色々な作品に流れる名曲であるが、ふと、2001年の滝沢秀明主演のドラマ「太陽は沈まない」を思い起こしたのは、私だけであろうか。

日替わりでゲストが替わるのだが、この回は、ピアニストのKan Sanoであった。学校の音楽の先生という役どころで、物語にしっとりと溶け込みながらも、役者とは異なる別種のアーティストとしてのオーラが作品に異物感を与え、物語が創作者の意図する世界観に収焉させない広がりを示すことになった。

人間感情の表と裏。生と死。そして、現実と未だ掴みどころのない未来などが綯い交ぜになった、中学の時期の少年少女たちの日常の一篇が切り取られ、タペストリーの如くコラージュされていく。そして、どの場にも通低音の様に流れている感情が“喪失感であった。

左目の視力を落としていた状態でかつて見ていた、藤田貴大が捉えるモノやコトを創作するその地点が、もう、既に、あらかじめ失われているエア・ポケットとして存在し、そこに、観客が解決できないまま残しているであろう“受難”の様な感情を入り込ませることにより、グッと親和性を高める効果が発せられていく。実存しているのだが、喪失もしているという、このアンビバレンツな状態は、“存在の耐えられない軽さ”とでも評するべきであろうか。

藤田貴大の私的な思い出をモチーフとして貫いているかのように見せながらも、観る者の思いが交差する余白を敢えて残すという境地が、心地良く感じる逸品であった。藤田貴大の、今後の動向からも目が離せない。

ネルソン・ロドリゲスの作品は初見であるが、ブラジルの作家という先入観からラテンの明るくて乾いた触感をイメージしていた。開場中からステージ上にある装置が観客の前に提示されているのだが、曲線が活かされたフォルムに、ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーなどのスピリッツが継がれているかのようにも見て取れる。

上演台本と演出を手掛けるのは、三浦大輔である。ネルソン・ロドリゲスが描く戯曲世界から三浦大輔は一体何を掴み出していくのか。また、華も実もある旬な実力派俳優陣がキャストで居並んでいるということも、観る前から期待感を高める要因になっていると思う。ましてや、タイトルは「禁断の裸体」である。“禁断の肉体”が、舞台上でどのように晒されることになるのであろうか。

やはり、物語は刺激的だった。タブー視されていることを連打していきながら、それを整然と紡いで一つの作品に凝縮したかのような濃厚なエキスが充満している。登場人物たち皆が、エロスに支配されているのだ。性に囚われ、その呪縛から逃れることが出来ない、いや、危ないとは分かってはいながらも、インモラルなオーラを放つエロスの強烈な磁力に引き寄せられてしまう人間の愚かさが克明に筆致されていく。

理性的に見える者が衝動的な言動を取り、感情的に見える者が冷静に事を操るという、立場の転覆という要素が、物語の中には内包されている。厳然と存在する階級社会へのアイロニーが、そこには込められているのであろうか。

また、エロスを支配、被支配する状態の、その反転した彼岸には、タナトスが背中合わせで存在しているということに、人間が抱える購えぬ運命というものが総体的にクッキリと浮かび上がってくる。そもそも物語は、内野聖陽演じる成功者・エルクラーノの妻が亡くなったことに端を発しているのではないか。皆がその死の呪縛に、終始振り回されているのだ。

妻の死後、禁欲的な生活を送るエルクラーノは、自堕落な生活を送る池内博之演じる弟・パトリーシオから、寺島しのぶ演じる娼婦・ジェニーを紹介され、まるで箍が外れたかのように愛欲に溺れていくことになる。そして、パトリーシオの入れ知恵もあり、ジェニーはエルクラーノに結婚を迫っていく。その丁々発止のやり取りがヒリヒリする程スリリングに描かれていく。しかも、皆、裸体を曝け出し、まさに、体を張ったパフォーマンスに、観る者それぞれの観念も裸にされていくような気さえする。

内野聖陽は仕事では厳しいビジネスマンなのであろうが、プライベートでは女に翻弄される男の弱さを大胆さと繊細さを持って演じるが、ついシンパシーを感じてしまうようないじらしさをも感じさせ絶品だ。寺島しのぶは、最初はゲーム感覚でエルクラーノを自分に振り向かせようとしていたかに見えるが、その内、擬態も本質へと変質していく様を、感情を緩急自在にクルクルと転回させながら、リアルさを持って演じ迫力がある。池内博之は、小賢しい策士振りを自堕落な様相で演じ、腹が出た、そのだらしないフォルムも計算づくに、派手な風貌も相まって、作品世界にラテン的な鷹揚さを刻印していく。

物語が大きく転じる契機を、野村周平演じるエルクラーノの息子セルジーニョが担っていく。死した母の喪に服し続けているセルジーニョは、木野花、池谷のぶえ、宍戸美和公演じる3人の叔母に溺愛されている箱入り息子だ。そんな彼が、野外で睦み会う父と娼婦を目撃してしまい、自暴自棄になって暴力沙汰を起こし投獄され、獄中で男に犯されてしまうという、性の問題が連鎖していく。そして、その後の急激な展開に、言葉を挟む余地のいない程、愕然としてしまうことになる。野村周平も体当たりの熱演を繰り広げるが、若くフレッシュな存在感が一服の清涼剤のような雰囲気を醸し出していく。

堕ちるところまで堕ちると、逆に、ポジティブになるという、人間の本性をまざまざと見せつけられることになる。戯曲の中からエロス&タナトスを切っ先鋭い鋭利なナイフで切り裂き掴み出すように描いた、三浦大輔の手腕にも舌を巻く。居並ぶ旬の俳優陣の手綱を上手く捌いているのも心地良い。

どんなことが起きても、人間は必ずや再生するのだ。死を前にして、溌溂とした生を生きようとする人間の底力が満々と湛えられエンパワーされていく作品だ。破天荒な展開だが地に足の着いた表現で、観る者を圧倒させる衝撃作であった。

小学校の教室の一室で、井上芳雄が携帯電話で会話をしている。どうやら、井上芳雄はこの教室で教鞭を取る学校の先生で、電話の相手は生徒の親御さんの様だ。習字において、「希望」という指定の字ではない別の文字を書いたらしい。近々、家庭訪問する旨を丁寧に話しており、かつて“委員長”と言われていた彼の好感の持てる先生振りが前振りされる。

その教室に、一人一人、かつての同級生たちが入室してくる。地元で良く会う仲間たちらしいのだが、かつての“マドンナ”であった鈴木砂羽が不慮の事故で息子を亡くしてしまったことを聞いた皆が、その彼女を励ますという趣旨で、今回、集まりが開催されたらしい。

集まった皆の会話の中で、時折、当時の担任であった“先生”のことが話題に上がってくる。その先生を、皆は大分嫌っていたとみられ、それが今でも尾を引いている、それぞれの思いがジンワリと伝わり、純真な生徒VS.鬼教師という構図が、観客にヤンワリと訴求されていく。

先生役を演じる近藤正臣が、招かれざる客として登場することで、物語は急速に異物感を抱えていくことになる。かつての生徒が嫌っていた先生。何故、その先生はこの場に来ることになったのであろうか。

しかし、ここまでは、あくまでも序章である。物語はここから始まると言っても過言ではない。人と人とが日常接するだけでは決して見えてはこない、人々が、こう見せたい、見られたいと抱く表層的な付き合いの奥底に潜む真意や、封印していた悪意、今、リアルに直面している苦悩などが、染み出るように舞台上に流れ出す。

その場に集うそれぞれの人間たちの裏腹が、除々に炙り出されていくスリリングな展開は、まさにミステリーだ。誰が、どんな闇を抱えているのか、正しいと思っていたことが、実はそうではないのではないのかもしれないという、虚実が綯い交ぜになった展開は、もう、観ている間からゾクゾクする面白さに満ち満ちていて、登場人物たちから目を離すことが出来なくなっていく。

最初は、鬼教師だと見えていた、今でも暴言を吐き繊細さのカケラもない男が、実は、人間洞察を極め、当時の生徒たちの言動もつぶさに記憶しており、人間が持って生まれた決して変えることの出来ない各人の性根を暴き出していく。被害者が被害者だけではなく、加害者でもあったことが露見し始め、予定調和は完全に破綻をきたすことになる。

偽善的な仮面が、一枚一枚剥がれていく様が、何ともワクワクし、心地良く、快哉さえ叫びたくなってしまうのは、何故なのであろうか? きっと誰もが何処かで抱えている悪意というものと、登場人物たちの過去の苦い思い出とが、ついついシンクロしてしまうのだと感じ入っていく。

先生を呼んだのは、鈴木砂羽演じるかつてのマドンナであった。水泳の授業の時に、休みむといったにも関わらず、プールの中に投げ飛ばされたことがトラウマとなっているため、池で溺れた息子を助けられなかった。だから、先生を訴えるのだ、と、妹を演じる前田亜季を伴って来ていたのだが、どうやら真相は別のところにあることが露見していく。

かつての“番長”高橋努は、経営する食堂が上手く立ち行かなくなっており、その子分であった“のけ者”有川マコトは、ねずみ講から抜けられなくなっている。“ガリ勉”岩瀬亮は父の事業を継ぎ平凡な日々を過ごしているようであり、“恋する女”小島聖は、妙齢にも関わらず独身であるという状態だ。

近藤正臣演じるかつての先生は、そんなかれらの本質を見抜いていたようでもあり、人間なので好き嫌いはあって当たり前だという前提で、真剣に対峙していたのだという真情を叩き付け、信念を曲げることは一切しない。この事の顛末は、上手くいかない理由は外にあるのではなく、自分の中にあるのだと気付かなければならないと、警鐘を鳴らしているようでもある。

井上芳雄の生徒が習字で書いていたのは、「絶望」という字であった。先生は言う。フラストレーションを表現出来る子はいいのだ。しかし、その他「希望」と書いている子の中にある闇を掬い取らなければならないのだ、と。壁に貼られた習字を眺める井上芳雄の姿が、くっきりと瞼の奥に焼き付いた。登場人物たち全てがリアルで愛おしく、但し、多少の嫌悪感を抱きつつも共感してしまうという絶妙なアンサンブルは最高だ。教育を通して、現代の世相の問題点を炙り出した秀作であると思う。

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