2013年 6月

自作でない戯曲の演出を手掛ける三谷幸喜の興味は、登場人物たちの中から可笑し味を十二分に引き出し開陳していくところにあると思う。本作は日本においてもいくたびか上演されてきた名作であるが、三谷幸喜は繊細に言葉を紐解く作業を経ながら、観客たちを劇世界の中へと導いていく。

舞台は第二次世界大戦時下の1942年。時折、空襲警報が鳴り響く中、イギリスの地方の劇場を根城にするシェイクスピアを上演する劇団が、ソワレで「リア王」を上演するまでのドタバタと、上演後に起こるアクシデントの顛末を、アイロニーの効いたユーモア溢れる台詞の応酬を軸に緻密に描いていく。

物語は劇団の座長とその付き人=ドレッサーを中心に展開していく。座長を橋爪功が、ドレッサーを大泉洋が演じていくのだが、息の合った師弟関係がピタリとはまり作品をグイグイと牽引していく。

わがままなエゴイスト振りと演劇に身を投じて生きてきた威信とを綯い交ぜにさせながらも、舞台を成功させる座長役を橋爪功が説得力を持って演じていく。衰弱した意識の状態と身体に染み付いたシェイクスピアの作品世界とを行き来する座長であるが、朦朧とした中にも座員をシャキッとさせる渇を入れたり、若手女優にちょっかいを出したりと、様々な顔を持つ座長の魅力を絶妙の匙加減で造形していく。

大泉洋演じるドレッサー、ノーマンは、作品のキーパーソンだ。街中で前後不覚に陥り病院に運ばれた座長は、劇団員の心配をよそにふらりと劇場に戻ってくるのだが、心身喪失気味の座長を復活させる役割は自分しかいないとばかりに、叱咤激励しながら座長を覚醒させていくことになる。台詞の其処此処に皮肉を盛り込みながらも師匠を真摯に慕うノーマンの、その愛憎が綯い交ぜになった真情の吐露が可笑し味を醸し出す。演じる大泉洋の、立て板に水の如く台詞を連射するその勢いに圧倒されつつ、ゲイ風の仕草も可笑しいユーモア溢れるその立ち振る舞いに、だんだんと目が離せなくなっていく。

座長夫人を演じる秋山菜津子は、名優の娘であるという自負と、自分がその域に未だ辿り着いていないというアンビバレンツな気持を夫に託す様(さま)に悲哀を忍ばせる。舞台監督のマッジは銀粉蝶が演じるが、永年劇団を裏から支えてきた力強さと女性の優しさとを的確に共存させ、人間味ある人物像に仕立て上げる。平岩紙が上へと這い上がりたい若手女優を演じるが、女を武器にする役どころはなかなか新鮮だ。おみ足もセクシーに、作品に可憐な艶を添えていく。

梶原善が頑固者の俳優オクセンビーを、浅野和之が老優ジェフリーを演じるが、こういう曲者が脇を固めているからこそ、作品に厚みが出るといった好見本のようなキャスティングだ。また、座長の楽屋の外の通路が見える構造の美術となっているため、戯曲上では登場しないシーンにおいても、楽屋を出入りしたり、廊下を歩いたりという場面が重層的に描かれ、オクセンビーとジェフリーは度々、観客の前に姿を現すことになる。この演出、なかなか心憎い。演劇という公演を俯瞰して見せる、三谷幸喜独自の視点がキラリと光る。

舞台裏では例えどんなことが起ころうとも、人間的に歪んでいようとも、一度、舞台に上がれば全ては帳消しになる演劇の世界を描いて感動的だ。芝居に身を殉じる人々の姿に共感しながらも、何かに熱中する者をはたから見る冷静な視点をも抱合し、演劇好きではなくとも、ここで巻き起こる人間ドラマをじっくりと堪能できる仕掛けになっている。

舞台を終えた座長はあっけなく人生の最期を迎えることになるのだが、そこでノーマンに対する思いが“何もなかった”という事実が発覚することになる。まさに、ノーマンは、ノーマン!であったのだ。その熟字たる思いを噛み締めながらも、明日を生きていく力を漲らせていくノーマンの姿に観る者はエンパワーされていくことになる。

人間の中に潜む気高い思いと、その思いの前で右往左往する哀れの両極を、ユーモアたっぷりにクッキリと描いて白眉である。喜劇と悲劇が見事に融合し、人生、そのものとも言える本作に、乾杯!

1971年に初演された清水邦夫の戯曲が、約40年の時を経ても決して古びることなく、見事に現代に甦った現場に立ち会えた幸せを享受する。その立て役者は、言わずもがな演出の蜷川幸雄である。

蜷川幸雄はさいたまゴールド・シアターというリーサル・ウエポンを得て、盟友の劇作を、ある意味正しい形で提出することを実現した。老婆の役どころを本当の老婆たちが演じるっことを実現させたということだ。老婆たちがそれぞれに抱えて生きてきた本物の人生の年輪が、既存の体制に発破を掛けるこの物語とリンクし、老婆たちが取る過激な言動に説得力を与えていく。リアル・メディアである演劇の特質が、最大限に活かされる瞬間を目の当たりにする。

オープニングは「零れる果実」以降、度々登場している手法でスタートする。水槽に入った役者たちが皆、繭から解き放たれるが如く少しずつむくむくと台詞を発していきながら甦り始めていくのだ。幽玄な雰囲気を湛えながら幕は切って落とされた。

ステージの周囲に突如として幕が振り落とされ、その場は裁判所の法廷の場へと一気に変貌を遂げる。そこでは、二人の青年が、チャリティーショーに手製爆弾を投げ込んだ罪で裁判に掛けられている。青年たちは小難しい言葉を駆使しながら声高にアジテーションしていくが、裁判官にも、観客である我々にも、その主張の真意はなかなか届くことはない。言葉が目の前でクルクルと空回りをしている感じがするのだ。しかし、そこには妙な可笑し味が生まれ、青年たちの青二才振りが強調されていく。

その法廷の中に、何処からか、一人、また、一人と20人程の老婆たちが現れてくる。皆それぞれに、料理をしたり、洗濯物を干し始めてりして、法廷は日常的な生活の場へと一変する。この決して贖うことの出来ないリアリズム。そして、老婆たちは、看守を退け、裁判官や検事、弁護士たちを人質に取っていく。法廷は老婆たちに占拠された。

法廷という場において、既成の権威の転覆が謀られるというアイロニーが効いた展開に嬉々としてしまう。約40年前の初演時と現在とでは生活者を巡る社会環境は全く異なるが、何時の時代にも変わらないものがあるということを、この作品と対峙することで発見する。それは、体制が孕む欺瞞とそれを剥ぎ取ろうとする大衆の欲望との対立構造だ。

裁判所側の人物もさいたまゴールド・シアターの男優陣が演じるため、青年二人以外は老齢の演じ手だけになるが、舞台の緊張感が緩むことはない。皆が束になってありったけのパッションを放出してくるため、舞台には隙間なく登場人物たちの気が張り巡らされていくのだ。また、役者の序列がない故、皆がフラットなポジションに立つことを可能とし、純粋な群像劇が成立することにもなっている。

さいたまゴールド・シアターの面々は更にスキルをアップさせ、プロンプに頼ることなくアグレッシブにそれぞれの役を生き抜いている。その姿に観る者は知らず知らずの内にエンパワーされていくことになる。インティメイトな関係性が役者と観客の間に自然発生的に生まれ、観ていて心地良い感触を得ることが出来るのだ。ある種の幸福感に包まれていく。

体制側の人間たちは死刑宣告を通達され、撲殺される者も出て来る。老婆たちは粛清ともいうべき行動を取っていく。しかし、法廷の周りは機動隊に囲まれることになっていく。この状況は、予定調和であったのだろうか、体制に風穴を開けること自体が目的なのであろうか? 脱出を想定しない無軌道な行動は、終ぞ袋小路に押し込められることになる。

エンディングのどんでん返しは、正にサプライズだ。キャストに、さいたまネクスト・シアターとクレジットされているのがヒントとなるが、物語は時代を凌駕し、一種の寓話ともいうべき物語に、直情的な結末を叩き付ける。そこで、ハッと目覚める自分がいる。観る者に、現状を疑問視せよとも言うべき熱いメッセージが込められた弩級の衝撃作であった。

劇場で行われているリハーサルという設定が、本作「オセロ」の舞台のベースとなる。しかし、白井晃演出はその設定だけに縛られることはない。あくまでもリハーサルとは、舞台と観客席とを隔てる壁を取り払う、あるいは劇場を一体化させるための入れ子細工として設らえられたプロローグにしか過ぎない。

シェイクスピアの傑作戯曲は白井晃の才覚により換骨奪取され、「オセロ」の本質はそのままに、現代日本に通体する核を戯曲から掴み出し、見事に再構築していく。その手腕に酔いしれることが出来る幸福に感じ入ることになる。

イアーゴを演じる赤堀雅秋が演出家的な役割を担い、観客席に設けられた演出家席に度々着いて、そこから指示を出したりもしていく。助手を務めるのは夫人エミリアを演じる高田聖子。「オセロ」と「舞台制作」という“虚実”を、アーティスティックな手法を取りながらも、人間感情の機微を繊細に掬い上げ綯い交ぜにさせながら、目くるめく速さで様々なシーンを展開させていく。次から次へと仕掛けが施されていくため、観客は目を凝らして舞台を注視せざるを得ない。

井出茂太の振付による仲村トオルや山田優の儚げな舞い。齋藤茂男の手により、蛍光灯や手持ちの明かりなどを駆使した照明が、光のあらゆる可能性を実験的に斬り拓いていくその様に驚愕する。十川ヒロコの衣装は、まるで、アンゲロプロスの作品に登場する人民たちのように、人間の憂いを封じ込めたかのような静謐さを湛える男女の心の側面を炙り出す。松井るみの美術は、可動式の階段を駆使しながらシーンとシーンとを瞬時にしてリアルな場へと変転させ、物語にリアリティある説得力を付加させていく。仕掛けは枚挙に暇がない。

Mama milkの生演奏が、緊張感と臨場感を同時に供出する。また、演奏する姿が実に艶かしく美しい。演出家席に着いた赤堀雅秋の合図により、演奏が始まったりもするのだが、その赤堀が本来の演出家である白井晃と言葉を交わし合っているのを見ると、それは本当のキューなのか、演技なのかが判然としない、その境界線の曖昧さが本作の醍醐味であり、“創りものである”演劇の本質にも肉迫しているのではないかと思う。また、舞台の進行に合わせて、観客が立席して舞台を観るシーンが2回あるのだが、観客の気持ちをザワザワとさせながらも、妙な一体感が生まれた事実は、その場に居合わせた誰もが体感することになった。

タイトルロールを演じるのは仲村トオルなのだが、偉丈夫で2枚目、欠落する何ものをも見出すことの出来ない御仁がオセロに扮することにより、観客はひとしきり創造力を働かせることになる。オセロが忌み嫌われる要因を、オセロが今置かれている状況や、周りの人々との関係性などを類推しつつ物語を追うことになっていくという仕掛けだ。しかし、一切泥臭さが排除されたオセロ像は、スタイリッシュで表層的な人物表現に流れたきらいもある。

山田優の可憐さは、表裏のないデズデモーナの心情を、混じりけのないピュアな資質で演じきる。様々な誤解を生み出す起因となる役どころであるが、こんなにも美しい女性を妻に娶った男に対するイアーゴの嫉妬の焔が、メラメラと立ち上がるのも無理はないという存在感を、説得力を持って表現していく。

赤堀雅秋演じるイアーゴは、演出家という立場も兼ねている。そのため、作品自体を客観的に捉えるという視点を持って作品に対峙する。このイアーゴの人物造形は、本来の演出家である白井晃の演出コンセプトであることは相違ないが、作品を端から眺めるようなシニカルな立ち位置が作品に冷静さを付与することとなり、その視点は観客にも共有されていく。

高田聖子はマクベス夫人にも似た狂気を孕んだエミリア像を造形し、次の瞬間、どのような感情をぶちまけていくのかという予測不可能な言動の核を掴んで見事である。

キャシオを演じる加藤和樹の溌溂とした若さに共存する愚かさ、水橋研二を演じるロダリーゴのピュアな悲劇性、モンターノを演じる有川マコトの洒脱な冷徹さ、そして、白井晃たちそれぞれの個性が脇から作品世界をグッと押し上げ、交錯する様々な感情を分かり易く可視化させていく。

ラスト、物語は戯曲通りの予定調和で締め括られるかと思いきや、あっと驚く終焉が用意されていた。“差別”という感情は、永遠に無くすことはできないのではなのかという創り手の強烈なメッセージが、今を生きる私たちに直球で投げ付けられてくる。視覚的にだけではなく思考回路にも否応無しに入り込んで来るこの刺激、案外心地良い。

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