2010年 9月

来場時には既に舞台上全てが覆われていた大きな白い布が、スルスルと舞台後方に引かれていくのを合図として舞台はゆっくりと物語を紡ぎ始める。このオープニングの仕掛けが、封印されていた過去の時を遡っていくのだという暗示を感じさせながら、時空のうねりを一気に凌駕していく。シンプルだが、印象的な幕開きだ。

布が引き剥がされると椅子やテーブルなどが現れ、ホテルのロビーとも、屋敷の居間とも取れるような空間へと場は変転し、一見、前回公演の「アンドゥ家の一夜」の舞台設定と似たような雰囲気にも感じられる。しかし、もちろん此処はポルトガルという開放的な異国の地ではなく、近未来の老人ホームだということが分かってくると、何故かこの場が閉じられた箱庭のような密室空間にも感じられ、観る者の意識も心なしか収縮してくる感じさえする。

とつとつと物語は語られていくのだが、場面は数人の会話によって成り立っていくことが多く、さいたまゴールド・シアターの大勢の面々がいながらも、なかなか皆が揃って丁々発止とやりあう集団劇へと展開していかない。会話を交わし合う人々の数が多くはないということもあり、この広い空間の中には寂寥感が漂い、物寂しい空気感が作品を覆い始めていく。しかしこの雰囲気が、本作のテーマともいえる“目の前にある死とどう向き合うのか”という設定とリンクし、相乗効果を発揮していくことになる。

舞台となるこの近未来においては、老人は延命治療を施すよりも、「エコ」という名目の下に、「死」を迎えることが奨励されているという設定が成されている。老人たちは決心がつくと、山などに分け入り自ら命を賭すことになる風潮の世界なのだ。いわば、「楢山節考」の近未来版である。しかし同作と違うところは、このリミットを設けられた寿命を前に、老人たちは生きるということは何なのかということに直面し、俄然、生きる理由、死ぬ理由を自ら追求していくことになるのだ。松井周の筆致は、決して声を荒げることもなく、一見淡々としながらも、身体の内側から溢れ出る「生」の渇望を描いて独特である。

この老人ホームにいた元アイドルが不審死したことをきっかけに、元ファンクラブのメンバーが乱入する事件が冒頭で起き、「今からここは聖地となる」と宣言される。しかし、そこで少々の諍いはあるものの、いつしか院長たちとも折り合いが付いているようでもあり、乱入者も、だんだんと老人ホームのメンバーと相まみれていくようになる。異物であったはずのものが、いつの間にか同質化してしまうのだ。いや、これは個々人が抱えているものが、そもそも同じことであったということなのかもしれない。

また、「聖地」という言葉は、ある種の波及効果をもたらしていくことにもなる。死を目前にした人々が、この場所を無意識に目指していくエピソードなどが挟み込まれていくことになるのだ。ただ、目指すとはいっても、派手なアジテーションや情報発信をしている訳ではないので、皆、この場が目的地だとはっきりと自覚しているのではなく、集団的無意識が働いているかのように、知らず知らずの内に、同時多発的に引き寄せられるように集まってくることになるのだ。

大きなうねりへと物語が集約していくことのない、一見平易にも見える毒気を含んだこの戯曲に対して、蜷川幸雄演出は一切の仕掛けを封印し、松井周の言葉と、さいたまゴールド・シアターの面々が培ってきたリアルを掛け合わせ、スパークさせることに集中している。サプライズを盛らない決断は賭けであったとも思うが、その戦略は成功したと思う。押し込まれるようにではなく、「死」と「生」がひたひたと滲むように観る者の心に染み込んでくるのだ。

さまざまな思いで生き抜いた人々であるが、時が経つと共にその事実は風化し、施設自体も時間の埃が堆く積まれていくこととなる。そこで、さらに時間を経て、次代の人々がこの施設を見つけるという展開になっていく。そして、廃屋となった施設内を歩く町役場職員は、シーツの下からミイラ化した老女を発見する。そうか、「聖地」というものは、そもそも人が生き死にしていた場そのものなのなのであり、その痕跡を見出すことで伝説化され、より崇め奉られることになっていくのだなとも感じ入る。新たな「聖地」となった場の上を、まるでその事実を俯瞰するかのようにラジコンヘリが旋回して飛び回り、過去と現在と未来との時空間に風穴を開け、一気に時を串刺しにしていく。

「聖地」というものは、見出されるものであると同時に、自らが礎を築くものであるのかもしれない。今いるこの場所自体が、もしかしたら「聖地」と成り得るのかもしれないのだ。人類にとっての、自分にとっての「聖地」とは一体何なのであるのかという疑問を観客に提出しつつ、「生」と「死」の一種の在り方、捉え方を静謐に描いて、秀逸な作品だと思う。

岩松了の独特な世界観に魅了された。ヤクザの世界が描かれることはチラシなどで事前に分かってはいたのだが、その世界に生きる人々を描きながらも、壊すことが出来ない裏社会の構造自体までを炙り出していく振れ幅の大きさが面白い。しかも、一般の人々が交わすようなごく日常的な会話が成される中、派手な銃撃戦のアクションシーンなどを其処此処に盛り込むなど、一見、相反するかのように見える言葉やシーンを、自然にひとつにまとめ上げながら物語を紡ぎ合わせていく。

登場人物たちの造形のされ方も、また、独特だ。登場人物の誰もがくっきりと、腹の中にある思いと、表の顔とを見事に使い分けるという二重性を抱えながら日々を生きているという設定だ。しかし、その裏腹な思いとは一線を画す男が一人いる。それは阿部サダヲ演じる下っ端のチンピラ、森本だ。彼は、可笑しいと思うことは黙っていることが出来ず、ヤクザ社会のヒエラルキーを超越してストレートに行動し、硬直した組織に少々風穴を開けていく。しかし、その根底にあるのは、兄貴分である江口洋介演じるタカヒロを慕う思いがあってこそ。ただ無鉄砲な一兵隊ではなく、行動規範にも彼なりの原則があるわけだ。

ただし“長いものに巻かれろ”ではないが、少々ほころびを作った程度では、連綿と堅持されてきた鉄壁な組織体制を変えることなど到底不可能であるということが、森本の感情にもだんだんと染み入ってくる。何も変えることなどできない状況の中で喘ぐ人々の、その感情のヒダをピンセットでつまむがごとく写し取る岩松了の繊細な筆致が、観る者の心にもグサリと突き刺さる。

見えない何かに覆われた世界であくせくと働く登場人物たちに、次第に今の己の姿が投影されていく。いつしか、その遣る瀬無い思いは、観客自らの鬱屈した感情が舞台上で認知されているのだという安堵感により、徐々に癒しのレベルへと昇華され心地良さに包まれていく。

徹底して集団劇という形態を崩さない、一貫した構成も見事であると思う。多分当て書きなのだと思うが、全ての登場人物には均等に出番や見せ場が設けられており、戯曲構造上もスターと新人のヒエラルキーはなくフラットだ。キャストには売れっ子俳優が多く居並ぶが、細かな動きや台詞回しに至るまで個々の自由裁量の度合いが低いように感じられ、岩町了の指導が徹底して成されているようにも見える。故に、役者の資質が演じる役柄の色へとスライドすることとなり、ベテランも新人も似たようなトーンを醸し出すことになる。しかし、そのある種の枠組みの中に個性を閉じ込めることによって、逆に、役者の個性が際立って見えてくるようになるのが面白い。

登場人物には、行動面においても独特なアプローチが成されている。シンクを拭いたり、神棚を修繕したりしながら会話を交わすことが、行動と台詞との間に隙間を与え、何か心の奥底にあるしこりのようなものを染み出させていくことになる。また、突然歌い踊ったり、コーヒーを点てることに執心したりする、一見本筋とは関係ないように見えるシーンを意図的に挟み入れたりすることが、物語の意味性を敢えて壊すかのような異化効果を生み出していく。

物語が展開していく中で、先程語られてはいたのだが、そのまま捨て置かれていたかに見えた台詞につながるような言葉が、ふと語られたりもする。登場人物の思いが切れずに繋がっていたということで、人間の感情というものは整理をされて理路整然と語られるものではなく、そもそも交錯していること自体が当たり前なのだということを思い起こさせてくれる。登場人物たちの感情は、物語の展開から距離を置くことで、一ところに留まることなく常に逡巡し続けているという、その描かれ方自体が現実世界そのものを表していくことになる。そうした繊細な感情をも掬い出していく作者の思いが、作品により温かな繊細さを付け加えていく。

唐突な悲劇が起こり舞台は幕を閉じることになるのだが、その事件もあくまでも日常の延長戦上の事であり、特別な意味性は敢えて排されているように思える。避けることが出来ずに、既に起こってしまった出来事なのだと。しかし、そこには、諦めというよりも、事象を見つめるじんわりとした優しい視点が観る者の心に染み入ってくる。演劇的な外連味などとは大きく距離を取るように見せながらも、人間の内面に巣食う葛藤を切っ先鋭く切開して見せる技は、他に追随するものがない秀逸さを放ち独特であった。

小林聡美の存在が本作のトーン決定付け、作品のクオリティーを一気に跳ね上げさせた。本作を貫くトーンとは、ハーパー・リーガンの「歩み」そのもの。物語は、彼女の歩く歩幅で、彼女が見つめる視点で、全てが語られていくのだが、小林聡美はどんな状況においても決して大仰になることなく、その存在感ある凛とした佇まいからハーパー・リーガンというひとりの中年女性のリアルを掴み出していて、絶品であると思う。

戯曲自体も傍目には淡々と行動しているかに見えるハーパー・リーガンを追うようにそれぞれのシーンを活写していくのだが、次のシーンと続く感情のブリッジがはっきりと描かれていないため、ともすると何故そういう行動を取るのかという説得力を欠く恐れもある。しかし、小林聡美は一貫してハーパー・リーガンが持つ確かな感情を腹に据えているため決して行動の流れが破綻することなく、逆に全てがこと細かに分からないことがミステリアスに映ることにもなり、かえって観客の想像力が刺激されることになる。

ハーパー・リーガンは、父の危篤の報を受け勤め先の社長に休暇の申し入れをするが受け入れられてはもらえず、しかし、不意に故郷へと帰郷することで彼女の小旅行がスタートする。どの場面にも出ずっぱりで様々な人々と出会っていくハーパー・リーガンであるが、この戯曲の特徴的なところは、その殆どのシーンが彼女と対する人々との一対一の対話だというところにある。また、対話という手法はその両人の心情を吐露するベクトルへとどうしても傾きがちになるが、本作では我々の日常生活と同様に、ごく表層的な会話に少々の感情を忍ばせていくため、舞台上で誰かの本心が露わに剥き出しなることはあまりない。

そして舞台上で交わされた会話は、ハーパー・リーガンに何かしらの感情を芽生えさせ、彼女に次なる行動へと掻き立てさせる契機となる訳だが、それと同時に物語に集約されないまま捨て置かれた感情の残滓が残り香のように舞台に漂い続けることにもなり、そのコミュニケーションから零れ落ちた余韻が、まるでイギリスの鉛色の空のように作品全体を覆い尽くし、その茫漠とした有様が、現代の先行き不透明な気分ともオーバーラップしてくる。また、インターネットの存在が生活に侵入していることが、人の行動要因に大きく影響を及ぼしているという抜き差しならない有様が其処此処で描かれていく。人は一体何に支配されているのであろうか、と。

これまで自らを抑制した人生を生きてきたハーパー・リーガンがその殻を解き放つ姿を通して、サイモン・スティーブンスは人の中に眠る意識の在り様を、目に見える出来事や交わされる言葉などを通して、具体的な現象面から冷静に斬り取っていく。

長塚圭史はロンドンでさらにスキルに磨きをかけたと思う。感情面の切り取り方も切っ先鋭く、役柄の真情の核心部分を俳優の中から掴み出し、曖昧な部分を削ぎ落として磨き上げていく。また、ハーパー・リーガンの歩みのリズムに合わせて移動するセットの使い方が実に見事である。その立方体の装置は、側面が時に壁や居間や海を臨む階段などにもなる設えになっているが、ゆっくりと回転しながら次なる場面へと転回していくことで、ハーパー・リーガンの意識の歩みの足跡をくっきりと観客の目に焼き付けさせることになる。ここでの歩みがしっかりと描かれているからこそ、ハーパー・リーガンの道程を安心して観ることが出来る。浮気をしようが、衝動的に暴力をふるおうが、彼女は、自分の足で、しっかりと地に足を付けて歩いているのだから、大丈夫なのだと。

道程の最期で木野花演じる母と出会うことで、ずっと封印してきた感情を彼女はぶちまけることになる。しかし、それで何かがはっきりと解決した訳ではない。しかし、彼女はこれまでの人生の澱をすっかり落とすことで、更に前進していくパワーを手に入れることになる。

ラスト。無機的な壁が天上へと引き上げられると緑豊かな庭が現出し、オデッセウスのような旅路の果てに帰宅したハーパー・リーガンが家族と朝食を摂るラストシーンが目に焼き付く。淡々とそれまでの道程を語る彼女の話を真摯に聞く、訳ありで働いていない夫と対する光景に、一体何を見出すのか。安堵か、諦めか、それとも未来への希望なのか。この現実を観客に突き付けることで、合わせ鏡のように己の今の姿を問われている気がしてくる。どう? 潔く生きている、と。無理な押し付けがないため、かえってじんわり心に沁み入る現代の心理劇として秀逸な出来の作品になったと思う。

抱腹絶倒、元気溌剌、豪華絢爛、驚天動地。どんな言葉を紡いでも、この作品の面白さを余すことなく伝えるのはなかなか難しい。演劇が生のエンタテイメントであるという醍醐味をたっぷりと味合わせてくれると同時に、役者が舞台の中心にいて作品全体を動かしているのだということを再認識させてくれた本作は、演劇は観客が楽しむためにこそあるのだということを十二分思い知らせてくれた。

舞台は玄関へと通じるエントランスホールとダイニングルームがつながったというようなイメージで、2階へと通じる階段や次の間につながる暖簾などが設えてある。色合いはポール・スミスのラインカラーが大柄になったようなカラフルさで、リアルさからは大きく逸脱している。

野田秀樹が描いた物語はシンプルだ。ディズニーランドらしき所で行われるアニバーサリーパレードを見たい勘三郎演じる能楽師の夫、ジャニーズのグループらしき男の子たちのコンサートに行きたい野田の妻、そして、マクドナルドらしき店で配布されるレアなノベルティグッズ欲しさに友人と交替で行列に並ぶ黒木華の娘が、(なんと!)ピナ・バウシュと名付けられた身重の飼い犬を置いては出掛けられないということで、誰が留守番をするのかという責任のなすり合い合戦が、超ハイテンションに繰り広げられていく。

演技のキャッチボールなんて、そんな生易しいものではない。もはや、手にした球を思い切り相手に叩き付け合うドッチボールのごとき肉弾戦だ。しかし、ただ相手に容赦なく斬り込んでいくだけではない。ソロで舞ったり、踊ったり、叫んだりと、緩急自在にどんどんとテンションはエスカレートしていく。また、少々素に戻った風に相手の様子を見守る風体なども、その引き具合が観客の思いともシンクロし、舞台と観客席を越えて劇場が幸福な一体感に包まれていく。

犬のために買ってあった鎖が持ち込まれ、それぞれを逃がさないために3人がその鎖に繋がれ合うという顛末になっていくのだが、並行して、実は娘はグッズ欲しさではなく新興宗教の集まりに参加しようとしていたことが発覚するところから、物語はシリアスな側面を浮かび上がらせていく。各人にとっての「神」という存在は一体何であるのかというテーマが、刷毛でサッと撫でるように物語にシニカルなアクセントを付加させていく。そして、各人が胸の奥底に隠し持っていた本音が暴露されていくことで、今まで家族を繋げていたと思われる糸は捻じ曲がり、家庭の平和は脆くも崩壊し始めていく。

そこで、ハタと気付く。ハイテンションで、家の電話も携帯電話もぶち壊し、能楽師の家である故か完全防音構造の家であるため外部とは一切連絡が取ることができず、鎖が短いということもあって水を取りに行くことも出来ないという、家庭内遭難状態になってしまったことを。「赤鬼」での漂流シーンがここで想起させられる。どれ位時間が経ったのであろうか。皆もう床に突っ伏して寝転んでいる状態の中、スッと玄関のドアが開けられる。どうやら、訪ねて来たのは泥棒らしい。しかし、藁をも掴む思いで、夫は叫ぶ。「泥棒だろうが、何だろうが関係ない。助けてくれるその人が神なのだ」と。

野田秀樹の前作「キャラクター」ともリンクする、人間の柔らかくて弱い部分に侵入する「神」という得体の知れない存在を、野田秀樹は本作ではまた違った切り口で開陳して見せてくれた。大いに笑わせ、そして、最後に少しだけ観客にしこりを植え付けた「表に出ろいっ!」は、日常、「表」にはなかなか出せることの出来ない、自分にとっての「神」の正体を軽快な手法で暴いた傑作だと思う。しかも、至宝による至芸によって、小空間で演じられるなんて、実に贅沢の極みだと思う。必見の演目であると思う。

ホメロス原作の「イリアス」は、戯曲ではなく壮大な口承叙事詩である。その世界最古の叙事詩とも言われる原本を、上演時間3時間の戯曲にまとめ直す作業から本プロジェクトはスタートしたと思うが、木内宏昌が手掛けた脚本は実に的確で簡潔にまとめられていて見事だと思った。初見の人にも分かりやすいように、登場人物それぞれの境遇を違和感なく台詞に乗せて説明し、かつ、それぞれの人物が自らの思いを吐露しながらも、戦闘の状況などは観客の想像力を掻き立てるような客観的な語り部の視点で描くなど、物語を多面的に再構成することで、グイグイとトロイア戦争の深部へと分け入っていく。

また、伝承されてきた物語を記したという原作の真髄を生かすためか、台詞は朗誦が基本となっているが、この手法も「イリアス」独自の世界観を形成することに成功している。掛け合いの台詞だけでは、どうしても物語が日常的な地平に留まってしまうのは否めないが、この物語において登場人物たちは常に神と対峙する局面を迎えるため、朗誦によって天に向けて言葉を謳い上げることで人間の在り方がクッキリと透けて見えてくるのだ。また、感情は染み込んでいるのだが決して感情的に寄ることはない硬質な台詞が直球で客席に投付けられることになるため、観客は否応無しにその言葉をストレートに浴びさせられることになる。夾雑物を一切排除したシンプルな設定であるが故に、その言霊の硬度はさらに強さを増しているようにも感じられる。

言葉と役者に全面的な信用を置いて物語を託した栗山民也の演出は、潔く心地良い。しかし、この演出意図が見事に達成された大きな要因は、百戦錬磨のベテラン俳優陣がキャスティング出来たことに他ならない。

アキレウスを演じる内野聖陽は、物語の中核に居てトロイア戦争の勝敗を決する重要な役どころである。鋼のように強靭に造り込まれた身体は戦士そのものであるが、その反面、怒りによる感情を棄て切ることが出来ずに戦いへの参戦を思い悩む男の揺れ動く思いを繊細に謳い上げて見事である。また、真に愛し合うチョウソンハ演じる盟友パトロクロスに対する溢れ出る激情に、この男の弱さと優しさを垣間見せる。チョウソンハはこのカンパニーで一番の若さであるが、俊敏な動きとトーンの高い声質により、重鎮が居並ぶ俳優陣の中のおいてその若さが良い意味で一際輝く存在感を得ている。

池内博之はこのところ注目の舞台への出演が続いているが、その経験で培った実力を本作においても遺憾なく発揮し、トロイアの戦士ヘクトルを演じ切る。時に感情に引っ張られる時もあるような気もするが、それも役柄の心情とリンクしているため、よりリアルなシーンへと変質させることが出来ていると思う。オデュッセウス演じる高橋和也は、感情の起伏が激しい戦士たちの中において、冷静に状況を把握し確実に駒の歩を進める知将の揺るがぬ強さを引き出していく。

馬渕英俚可や新妻聖子は、戦いの渦を遠巻きに見る客観的な立場で事の顛末を語る役回りを持つが、アンドロマケを演じる馬渕英俚可は、母でもある女の強さと腹の据わった覚悟を滲み出させることで、戦争の無意味さにしっかりと拮抗する意思を観る者に叩き付ける。新妻聖子は物語の語り部的役割を受け持つカサンドラを演じるが、ミュージカルで鍛えた見事な歌声を披露しながら、未来が見えるがそれを信じる者はいないというアポロンの呪縛の中で逡巡する預言者の孤独を感じさせてくれる。

木場勝己は、占いは信じないが神事には従うという矛盾を内包した名将アガメムノンを人間臭く演じ、実力派揃いのアンサンブルの中の其処個々で、グイと存在感ある杭を打ち込んでくる。平幹二朗のプリアモス王は、世の父の象徴のような存在だ。全ての悪業や悲嘆を全て受け入れることにおいて、初めて生まれてくるであろう純粋な「愛」を発露させ、この叙事詩を叙情の岸辺へと運んでいく。このベテラン2人の存在感は、至宝であると思う。

金子飛鳥の音楽が、登場人物の誰もが「運命」や「神」と対峙するこの物語世界において、それぞれの人物たちの横にソッと寄り添い未だカタチになっていない心の機微を紡ぎ出す役割を持って、作品により温かな感情を付加させていく。また、時には繰り返される戦いや諍いと歩みを共にしながら、変転する運命の流れに従ってもいく。この慈愛に満ちた音楽の存在が、作品の中から普遍的なる感情の核を掴み出し、刷毛で一振り本作に鮮やかなアクセントを付けていく。

栗山民也演出の下、スタッフ、キャストの皆が持てる才能を十分に発揮することが出来た秀作であると思う。シェイクスピアや他のギリシア劇とはまた様相を異にする、詠唱劇というジャンルを新たに切り拓いたという点からも、評価されるべき作品であると思う。

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