2006年 1月

舞台上の上下と客席前面に張り出した舞台の両脇に、観客席が設えられ、ステージは3方から観客に囲まれる形式となった。老役者の厚意で、劇場を借りた乞食たち(ベガーズ)が一夜限りの芝居を上演するという設定に、この、場作りは、ドンピシャ、である。観客は、その乞食芝居を観に来た観客であり、我々もまた、登場人物のひとりなのだ。ただ単に臨場感を味合わせるための設定などではなく、しっかりとした演出コンセプトに基づいたプランがどのパートにも徹底され、決してぶれることがない。

老役者が前口上を述べると、観客席後方の扉から、役者たちが口々に言い合いながら、登場してくる。この登場の仕方も楽しい限りである。なんと観客に話し掛けてくるのだ。立ち話で長引いたりもしたりする。これは、役者がしっかり役作りをしているから出来る芸当である。故に、話していても勿論素ではなく、その役になって、自分たちの芝居を観に来た客たちと話しているという訳である。

舞台はさびれた劇場を模している。舞台袖の上下には、装置としてのバルコニー席もあり、ここの席は役者が座って観ているのだが、しっかり芝居は行われている。この装置のリアルさが本作の時代背景を明確に提示している。18世紀のロンドンがイメージとしてハッキリと感じられるのだ。また、その「時代性」を「普遍性」にまで押し上げているのが、照明である。演じられるステージ上としての照明、客席と一体化させるために観客席を明るくしたり、また、劇場の板壁の隙間から漏れてくる光に外の世界を感じさせたりと縦横無尽である。特に印象的なのは、村井国夫の独白のシーンに於ける明かり。「仲間を食い物にするくせに、人間はつるんで群れて生きている。云々。」の決め台詞。舞台下手の高い位置から観客席に向けて透明な一筋の強い明かりが降り下ろされる。美しさと同時にその強さ故残酷さも感じられ、更に深遠なる深みへと観客を導いてくれているようだ。また、衣装の汚いがゴージャス、も目を楽しませてくれた。

音楽は、「この作品が作られた18世紀」当時の既存の曲に詩を当てたものが多いのだという。私も1曲だけ、ヘンデルの聞き覚えのある曲を見つけることが出来た。訳詩も分かり易く、日本初演の初日であった訳なのだが、歌は皆、しっかりと歌いこまれていて安心して観ることが出来た。ステージ上のオーケストラの方々も乞食の扮装をしていて、酒を飲みながら演奏するという演技などもご愛嬌だ。

役者はスターを揃えたにも関わらず、アンサンブルとして成立しているので、本作の設定が決して嘘臭くならない。また、話がそう複雑ではなく、人物関係も入り組んでいないため、1シーンは2~3名程度の少人数の場面も多く、各人共キッチリと見せ場を設けられているため、ファンの方々も安心だ。

完成度はかなり高い作品であると思う。この演出で、ブロードウェイに進出しても遜色は全くない位、出来が良い。それは、ひとえに、演出のジョン・ケアードによるところが大きいであろう。演出コンセプトを全てのパートに反映さえ全体像を構築していくという建築的とも言える演出方法は、アーティストの才能をフルに引き出すこととなり、そして世界観を拡大させることにも繋がり、更にプロジェクトを巨大な作品へと変貌させていくのだ。作品に、重層的な厚み、があるのだ。カーテンコールで、最後には、スタッフの方々も舞台に上がっての大団円。楽しんで作られたのだなということが、ヒシヒシと伝わってきて、とても幸せな気持ちになりました。多分、評判を呼ぶことになると思うので、チケットが無くなる前に、お早めにご覧になることをお薦めします。

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